三川町東郷地区の「改正丈量大成図屏風及び奉納扁額(絵馬)」(2〜2)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
《三川町における地租改正による成果(新・旧税増減表)》
 三川町における丈量測量は、『三川町史 全』(昭和49年1月1日)及び『三川町史 下巻』(平成22年3月31日)によると、前述の通り鶴岡県令三島通庸は、改正期限が明治9年まであるとし、持主銘々が、現在の反別を実地に調査を行い畝杭に記載するよう指示するとともに事業着手を命じました。
 最初の作業として、先ず後述する「地押測量」が行われ、@国・県・村の境界確定、A官有地・民有地の確認、B各村地所の名称と地番の決定がなされました。村によっては、書算の心得がある者がおらず困惑し、区域内村々の村長が連判の丈量調査人雇入れの願書を提出していました。
 三島県令は「地租改正につき人民心得書」を公布し、前の壬申地券取調は「実地相当之真価」ではない故に無視し、厳密な実地丈量を指示しました。地押測量は1875年(明治8)10月ごろから翌1876年(明治9)4月ごろまでに纏められ、当時第3大区に属していた村々は次のように地租改正掛役人の検査を受けています。
年 ・ 月 ・ 日 村           名
  1876年(明治9)5月9日 助川、加藤、小尺、菱沼、横内、堤野、竹原田、横川
      同    5月10日 横川新田、土口、押切
      同    5月11日 横山

 また、1876年(明治9)5月15日、第一大区出張地租改正掛は、「帳簿検査済」の村々に対して、再度5月下旬に役人が巡回して実地検査(地押様歩)を行うことを告げ、落地や土地の重複がないように呼びかけました。これに対して角田二口村は、「田植えの時期を避けてほしい」として検査延期を要請し、願いは叶えられましたが、実地検査は、安丹・林崎・中野京田・豊田・平田・播磨・善阿弥・角田二口の八ケ村を6月13日、14日の二日間で実施する速さでした。この実地検査の際には、各村から地主・富農の代表を「実地検査人」として役人の検査に立ち合わせています。
 その結果、庄内の郷村部では13.7パーセントの減租を示し、三川町域村々の関係する第一大区は11.7パーセント、第三大区は4パーセントの減租を見ましたが、三川町域全体としては、旧税額26,307円11銭、新税額24,271円2銭9厘で、2,036円8銭1厘の減租となり、その比率は7.7パーセント減ということになりました。三川町域の村々に関する最終的な結果は次表のとおりです。
【地租改正による新・旧税増減表】
    (「明治11年4月調之各邑旧新税増減調」写 鶴岡市郷土資料館)
村  名 旧   税 
(円・銭・)
新   税  
(円・銭・)
円・銭・厘   
 増(○)・減(▲)
割合(パーセント)  増(○)・減(▲)
成田新田 1,187.41.7 1,769.88.1 582.46.4(○) 49.1(○)
猪  子 2,929.57.1 2,703.24.1 226.33.0(▲) 7.7(▲)
神  花 1,276.37.2 1,130,33.0 146.04.2(▲) 11.4(▲)
青  山 230.22.1 1,320,12.0 1,089.89.9(○) 473.4(○)
善阿弥 729.76.8 490.03.8 239.38.8(▲) 32.9(▲)
東  沼 927.49.2 662.20.2 265.29.0(▲) 28.6(▲)
角田二口 370.63.3 456.45.3 85.82.0(○) 23.2(○)
助  川 1,171,71.6 945.91.7 225.79.9(▲) 19.3(▲)
横  山 6,148.51.2 4,573.85.7 1,574.65.5(▲) 25.6(▲)
横  内 958.35.6 952.83.2 5.52.4(▲) 0.6(▲)
横  川 1,775.45.1 1,443,01.0 332.44.1(▲) 18.7(▲)
横川新田 193.78.4 456.78.7 263.00.3(○) 135.7(○)
竹原田 799.97.7 581.92.5 218.05.2(▲) 27.3(▲)
加  藤 513.02.8 417.90.8 95.12.0(▲) 18.5(▲)
菱  沼 403.16.2 270.58.6 132.57.6(▲) 32.9(▲)
小  尺 689.50.5 444.09.6 245.40.9(▲) 35.6(▲)
土  口 823.45.9 2,251.33,8 1,427.87.9(○) 173.7(○)
押切新田 3,278.69.6 3,400,49.8 274.19.8(▲) 8.4(▲)
(注) 神  花:天神堂・尾花、横山:横山・堤野・土橋・荒屋、土  口:上・下、押切新田:押切・三本木・対馬
≪庄内地方に改正丈量大成図が多く存在する理由≫
 以上述べてきたとおり「改正丈量大成図屏風」等に描かれた景色は「地租改正」に伴う田んぼの地押丈量の状況で、この測量の結果、農民たちは米価値上がりの中で大幅な減税を獲得するとともに、地租改正によって地主的土地所有が認められ、地主と上層農民は有利となりましたが、その推進力となったのは「ワッパ騒動」でした。以後、彼らは農業技術の改良によって収穫量を増加し、農業の発展と共に土地の集積を増大させました。また、地主等は村長、村会議員、水利組合、農民組合等の役員となり、地域や村の政治・経済から生活・行事に至るまで、強大な支配力と影響力を持つに至ったのです。
 つまり、この「地租改正事業」の推進に当たっては、「ワッパ騒動」が三島県政の地租改正事業推進に大きなプレッシャーをかけ、結果、例外があるものの、庄内の農民たちに対して大幅な減税をもたらし、これに喜んだ農民たちが、記念にその作業に関する絵馬を作成してこれを神社に奉納し、また大きな屏風絵を当地域に残す結果となったものです。また、前述の通り三島鶴岡県令は厳密な実地丈量と期限遵守を厳命したのですが、村によっては書算の心得ある者がおらず困惑したようです。そして、このことは多くの村々においても、大なり小なり同様の難題を抱えることとなったようですが、ために、作業人夫には多くの村人が動員されたものの、算用係や記録係などには書算の心得のある士族に相応の給金と飲食を与えてその力を借りたと言います。従って、当該丈量作業が終わり、無事最終検査が終わった時の村々の喜びは想像以上のものであったと思料されるのですが、このことも屏風や絵馬を残す大きな要因となったことは間違いないことと思います。
 因みに庄内地方には、地租改正丈量に関する「奉納扁額(絵馬)」が、庄内町福島皇大神社絵馬(1875年(明治8))(注1)、酒田市吉田八幡神社絵馬(1876年(明治9))(注2)、三川町青山神社絵馬(1876年(明治9))(注3)、庄内町桑田皇大神社絵馬(1876年(明治9))(注4)、三川町清領寺絵馬(1880年(明治13))(注5)の5点、鶴岡市面野山の斎藤八郎兵衛家所蔵の「掛軸」(注6)が1点、三川町青山の佐藤哲也氏所蔵の「屏風(6曲半隻)」(注7)が1点、それに上記の測量の実施絵図とは若干意味合いが異なるのですが、鶴岡市本郷(旧朝日村本郷)河内神社「絵馬(「本郷一村絵図」)」(1879年(明治12)3月)(注8)が1点存在することになりますが、今後更なる調査次第ではその数は増えるのではないかと思われます。
 これ等の作品には、必ず「日の丸の旗」が、また、斎藤八郎兵衛家所蔵の掛軸には「鶴亀」が描かれているように、事を成就させたことを共に喜び祝う農民たちの強い気持ちが籠められているのです。
 上記8点の作品中今回訪問した三川町東郷地区には3点が存在するのですが、これは非常に珍しいこととされています。当時この地域に星川了雪斎、市原円潭、阿部鶴峯という画家達が存在していたことに加え、同時に当該地区の人々の人情が厚く、また、素直な気風がこの様な結果を生んだものと考えられているのです。
(注1)山形県立博物館特別展図録『絵馬にみるなりわいと祭り』、『大地動く 蘇る農地』で紹介されています。
(注2)『図説 庄内の歴史』、山形県立博物館特別展図録『絵馬にみるなりわいと祭り』で紹介されています。
(注3)『大泉史苑第2号』、山形県立博物館特別展図録『絵馬にみるなりわいと祭り』、『三川町史下巻』で紹介されています。また、文翔館「回廊の間」に縮小模型で展示してあります。
(注4)山形県立博物館特別展図録『絵馬にみるなりわいと祭り』で紹介されています。
(注5)『大泉史苑第2号』で紹介されています。
(注6)「鶴翔同窓会ホームページ」(2009年8月21日)で紹介されています。なお、この掛軸の上段には舞う「鶴」が、下段には「亀」が描かれており、佐藤哲也氏所蔵の屏風と同様、斎藤八郎兵衛家でも慶事の際に床の間に飾られるということです。
(注7)『大泉史苑第2号』及び『図説 庄内の歴史』、『三川町史下巻』で紹介されています。
(注8)山形県立博物館特別展図録『絵馬にみるなりわいと祭り』で紹介されており、明治9年(1876)、本郷村の地租改正に際して、10間1分の一村絵図を表したことが、改正掛の名(齊藤仁吉他7名)と共に記入されています。奉納は明治12年3月吉日となっており、扁額の大きさは縦78.5センチメートル、横108.5センチメートルです。
≪地租改正における丈量(測量)方法≫
 地租改正の太政官布告がなされ、第1回地方官会議において全国的に「地押丈量(じおしじょうりょう)」が行われ地図が作成されることになりましたが、「地押」というのは「土地ノ重複若シクハ脱落ナキヲ要スル為メ当初之ヲ施行スル」作業で、其方法先ズ人民ヲシテ小村ハ一村通シ番大村ハ各字限リ一地一筆毎ニ通シ番号」を付け、「畝杭」を立てて所有者を確認することをいいました。そして、「地押丈量」では一筆毎の土地の位置、形状、地番、面積を記載した「野取図」または「一筆限図」が作成されました。  この丈量の実施に当たっては、課税強化を恐れた農民たちの抵抗もあって、各府県委託事業として、実際の丈量は区・戸長の指導の下に旧組頭、百姓代等の一部上層農民とそれ以外の村民の手に任されたといいます。
 丈量方法について事務当局は「十字法」より精度の良い「三斜法」を進めたそうですが、屏風絵や奉納扁額(絵馬)には「十字法」により実施された丈量風景が描かれています。
 「十字法」というのは、中・近世において実施された「検地」の測量と同じで、縄と竹で面積を量るもので、まず土地の四隅に細見竹と呼ばれる竹を立て、その細見竹と細見竹の中間に「梵天竹」と呼ばれる竹を立てます。「梵天竹」の一方に一間ないし三寸毎に印の付いた「縄」を結び付け、反対側の「梵天竹」から、その「縄」をピンと引っ張ると、四本の「梵天竹」から十字に交わる2直線が出来ます。この2本の「縄」が交差するところに、「十字板」と呼ばれる各辺が直角に交わる十字形の溝が掘られた板の、その溝に2本の「縄」が直角になるように「梵天竹」の位置を調整すると、四角形が出来、この縦と横との長さを掛けて面積を算出するものです。一方「三斜法」というのは、地形に合わせて「三角形」を設定し、この各三角形の面積を求め、これを合算して面積を求める方法です。
 ただ、土地の形状は四角形とは限らないので、「見込」「見捨」とよばれる方法が用いられていたようです。これは、土地の出入りが大体同じくらいの面積になる位置に8本の竿の位置を定めて面積を測るものですが、「小屈曲アル地ニ平均縄ヲ施サズ想像ヲ以テ出歩入歩ヲ差引スルコト」というふうに乱暴な方法を用いたところもあったようです。田畑や宅地では「十字法」が用いられたといいますが、これも全筆にわたったものではなく、机上の作図もあったそうで、まして、山林原野では殆ど実測されず、目測や歩測によったものが多かったようです。
 以上のような現実があったようですが、おおよその位置と、おおよその面積が決められて、1881年(明治14)ころには全国の丈量が完成し、その成果は当初は「地券大牒」と呼ばれ、その後「地券台帳」と呼ばれました。
≪地租改正条例等の法令群の整理・・・地租条例の制定≫
 1884年(明治17)3月15日太政官布告第7号によって全29条からなる「地租条例」が公布されました。この制定には次の三つの意義を認めることが出来ます。
 その1は、「地租改正条例」をはじめとする一連の地租改正法令及び地租改正関連法令等、地租諸法規の体系的整備・統合が行われたことです。つまり、過渡期のものであった地租改正条例等の法令群を整理して恒久的な体系を持つ法令に整備し直したのです。
 その2は、1873年(明治6)7月28日制定の「地租改正条例」において政府は「向後茶煙草材木その他の物品税が設けられ、その税収が200万円以上になった時は、地租率を100分の1まで下げる」ことを公約していたのですが、この規定を廃止したことです。
 その3は、1874年(明治7)5月12日太政官布告第52号によって追加した事項を廃止したことです。つまり、政府は資本主義の発展に伴う地価の変動に対して6年ごとに全国的な地価の改訂を行い、上がった地点、下がった地点を確認して地価を見直すことを公約していましたが、この公約を反故にして2.5パーセントの地租で固定してしまったのです。因みに1875年(明治8)の地租は国税収入の85パーセントを占めていました。
 その他、条例の末文には「この法に抵触するものはすべて廃止する」という箇条を設けて、あまり目立たぬように前の改正法を消去するようにしました。
 これらは、明治政府が当初有していた「物品税印税等ヲ起シ其実挙ルニテ従テ一般土地ノ税ヲ薄クシ」という理念を完全に捨て去ってしまったのですが、これは目前に迫った明治憲法下の財政的基盤を確立せねばならなかった明治政府にとっては障害となる事項であり、「減税と地価改訂」という国民に対する公約を法の下に完全に撤回してしまったのです(『地租改正事業の展開過程と登記法の起源』(佐藤義人)、『土地税制の歴史的変遷と今日的課題』(佐藤和男)を参照)。
≪屏風絵や奉納扁額(絵馬)を画いた筆者≫
 最後に、今回現地確認をしてきた屏風及び奉納扁額(絵馬)の作者について述べておきます。
《星川清晃》(文八・鉄之助・賢直・信遷・安良居・了雪斎)
 星川清晃は、彼の長男で医師であった清民が著した『鈴木重胤伝』に添えられた「門人伝」によると、天保元年(1830)2月18日庄内藩御給人星川清山(きよたか)の子として生まれ、同11年(1840)に家督を継いでいます。天保の頃には8石2人扶持の小禄でした。幕末から明治に生きた清晃は、通称文八といい、鉄砲術を修め、明治元年(39歳)には新式練兵の分隊長として、新庄、秋田方面に18回の転戦を累ねましたが,給仕使番を務めた10代に、狩野了承(注1)の門人中村了斎(注2)について絵を習っており、画号を「了雪斎」と称し円潭は画友でした。
 清晃は書の師は特に持ちませんでしたが、古書に学んで草仮名に長じていました。弘化3年(1846)、17歳から「皇学」を志し、本居宣長、平田篤胤の書(学説)を独学しましたが、これは薄給のため師を求めることができなかったからです。ところが幸運にも、翌弘化4年(1847)に鈴木重胤の来庄という好機を得て入門することが出来ました(賢木舎(さかきのしゃ))(注3)
 その後は学問と武術を両立させて明治維新を乗り切り、師重胤の遺著『日本書紀伝』の校合を照井長柄らと成し遂げて、明治7年(1874)に出京し、教部省に献じてからは権中講義に補され教導職となります。明治9年(1876)二代目三山神社宮司を命じられて権大講義となり、同11年(1878)まで在任し,この間奈良春日神社より富田光美夫妻を招き大和舞による神楽を整備し、また、明治10年(1877)8月には女人禁制を解いています。明治15年(1882)鶴岡神道事務分局に勤務しました。
 明治17年(1884)教導職は廃止になりますが、権少教正に補され、中教正を経て、同じ27年(1894)65歳で没した時には権大教正の称を神道本局から送られています。埋葬された常念寺には門人らによって頌徳碑が建てられています。
 志賀義貫に語学・韻を韻学及び和歌を習い、これに通じて多くの門人を指導しました。清晃の書・画・色紙・短冊などは庄内各地に残っていると思われますが、本人は著述をしなかったと清民は書いています(『新編庄内人名事典』(昭和61年11月27日、庄内人名事典刊行会編・発行)及び『星川清躬詩全集』(昭和53年5月10日、星川清躬著、佐藤朔太郎編纂、さとう工房発行))。
(注1)狩野了承(1768(明和5)〜1846(弘化3))は、現在の酒田市に生まれ、江戸に出て狩野派に属した絵師です。実力を認められ、狩野派の最上位である「奥絵師」4家に次ぐ15家の「表絵師」の一つ、深川水場狩野家の当主となりました。題材を柔らかな線で描いた「やまと絵」を得意とし、他の流派との交流が厳しく禁じられた狩野派の「表絵師」にありながら、華やかでデザイン性にある「琳派」の影響を受けた絵画も制作しています(東北歴史博物館)。
(注2)中村了斎(生没不詳)は、鶴岡天神町の絵師で、狩野了承に学んで絵に長じ安政年間に活躍しました(『新編庄内人名事典』(昭和61年11月27日、庄内人名事典刊行会編・発行))。
(注3)庄内で最初に国学を学んだ人は大滝光憲でした。光憲は通称を大滝三郎といい、酒業を営み、大山騒動後は大山村の年寄として村政を指導しました。はじめ漢学を大山の先学田中万春に学んだのですが、文政4年(1821)万春の紹介で本居宣長の門人伊勢内宮の祠官荒木田末寿に国学を学び、門人に照井長柄がいました。しかし、庄内で国学が盛んになるのは鈴木重胤が庄内に来遊してからです。
 鈴木重胤は淡路国出身で、父の教えを受けて国学に志し、大阪に出て和歌・俳諧の宗匠となりました。始め本居宣長の学風を奉じましたが、平田篤胤の名声を聞き、文通を以て教示を受け、さらに大国隆正の門に入りました。しかし、篤胤に対する敬慕の念が強く、直接教えを受けるため、天保14年(1843)10月、秋田に下りました。しかし、篤胤は9月11日に病死した後であったので、重胤はその霊前に弟子の礼を捧げ、約半年秋田に滞在し国学を講じ、弘化元年(1844)庄内に入り、飽海郡本楯の梵照寺の住職魯道の紹介で、鶴ケ岡の今田氏篤宅で万葉集を講義しました。このとき聴講した人には庄内藩士服部正樹、同秋保親愛(ちかよし)、神官辻正兄、米問屋広瀬巌雄、町医者照井長柄、僧魯道、大滝光憲らがいました。重胤の大山滞在中に入門した人も少なくなく、大滝光憲は照井長柄、星川清晃、広瀬巌雄、秋野庸彦(あきのつねひこ)等の同志らとともに入門し、賢木舎(さかきのや)を組織して、重胤をときどき招聘して国学を学びました。
 重胤はその後数回大山を訪ね、主として光憲の家に滞在しました。そのとき起居した茶室がいまも大滝家に残っています。重胤は書を講ずる一方、吹浦・酒田・松山・鶴ケ岡・羽黒などに遊びました。彼の熱烈な尊王思想の影響は大きく、広瀬巌雄は庄内藩の公武合体派に関係し、慶応3年(1867)「丁卯(ひのとう、ていぼう)の大獄」(大山庄太夫事件)に連座しました。重胤は著書『書記伝』や『祝詞講義』の原稿を大山の賢木舎に送り、主として光憲が清書して江戸に送り返しました。大滝家には重胤の自筆原稿が多く残っています。また、重胤は光憲の子光俊を養子に迎え、光胤と改名させましたが、光胤は、嘉永元年(1848)江戸で没しました。重胤の来庄は安政3年(1861)一子重兼を加茂の秋野庸彦に託し教育を光憲と長柄に受けさせました。重胤は、文久3年(1863)、江戸小梅の自宅で訪問中の武士に暗殺されましたが、これを聞いた秋野庸彦ら門人たちが敵討ちを計画したと伝えられています(『庄内藩』(齊藤正一))。
《市原円潭》(祐助・探淵齊守真・淵潭齊純・淵潭齊澄・浮木叟・月山人・白道子)
 酒田天正寺町の呉服屋市原平三郎の4男として文化14年(1817)2月28日に生まれています。幼少時より絵を好んで、天保11年(1840)24歳の時江戸の絵師狩野探淵に入門します。たびたび京都・奈良・長崎等西国の社寺を巡歴して多くの古仏画を模写するとともに、冷泉為恭に大和絵を学んで独自の画風を確立します。嘉永4年(1851)35歳のとき鶴岡大督寺で仏門に入り、安政3年(1856)再び江戸に上がって伝通院、さらに京都知恩院で修業するとともに絵画も研究し、この間、画家日根対山、村山半牧、金野宇の志士藤本鉄石等と交友を深めます。文久3年(1863)帰郷し、田川郡大淀川村(後の大泉村、現在の鶴岡市大泉)の淀川寺(じょうせんじ)の住職となりました。一時期酒田千日堂南町に住みましたが、再び淀川寺に隠棲して、明治34年(1901)6月1日、85歳で入滅し、同寺に葬られました。代表作に「信貴山縁起絵巻模本」「法然上人御絵伝」「十六羅漢図」「二河白道」がありますが、「信貴山縁起絵巻模本」は酒田市文化財に指定されています。1987年(昭和62年)芸術選奨文部大臣賞新人賞、ジロー・オペラ大賞、1990年(平成2)酒田市特別功労表彰を受賞した市原多朗さんは、この市原家の末裔に当たります(『新編庄内人名事典』(昭和61年11月27日、庄内人名事典刊行会編・発行)、『郷土の先人・先覚207《市原円潭》』(荘内日報社)、「市原円潭と文人画の系譜 庄内の美術家たち9」(鶴岡アートフォーラム、2014年3月)、アーテストノート・トッパンホール通信)。
《阿部鶴峯》(文蔵・吉部・文七・三清)
 文化10年(1883)1月、田川郡押切新田村三本木(現東田川郡三川町三本木)の富農阿部文七の三男(文蔵)として生まれています。父文七は天保11年(1840)藩主酒井忠器の転封阻止に活躍した人物として知られています
 文蔵は幼時より画歳があり、巧みな凧絵を描いて村人を驚かしたと言います。はじめは仏師を志したのですが果たさず、勝乗寺の住職恵教から仏画の手ほどきを受けたのですが文蔵17歳の時の文政12年(1829),師の死に遭います。勝乗寺は東本願寺の末寺に当たり、後にそのつてを求めて京都に上り、絵の大家岸駒(がんく)の婿岸良(乗鶴)の門に入って業を磨き一門に頭角を現しました。御所の造営に際し命じられて襖絵・障壁画を描き、その才能を認められ法橋の称号を許されます。弘化4年(1847)、35歳のとき父死亡のため、帰郷し、家督を継いで文七を襲名します。以来、画道に励みながら自適の生活を送ります。主として山水・花鳥・人物を描きましたが特に鶴の絵を得意としました。また、傍ら俳諧を嗜み好んで俳画をも描きました。明治13年3月3日、68歳で没し、横山泉蔵寺に葬られました(『新編庄内人名事典』(昭和61年11月27日、庄内人名事典刊行会編・発行)。
≪終わりに≫
 この稿を纏めるに当たっては、野口一雄先生には絵馬についての御指導を、三川町教育委員会社会教育係の鈴木武仁さんには資料の提供をいただくなど、また、屏風所蔵者の佐藤哲也さん、奉納扁額(絵馬)所蔵者の青山神社宮司西塔普司さん、神社総代佐藤佐市さん、氏子の瀬野尾裕雄さん、同じく土田久雄さん、清領寺住職佐藤匡一さん、同寺檀徒総代菅原兵右衛門さんには現地で大なるお世話をいただきました。ここに厚く御礼申し上げます。

(注) 本稿は、『ワッパ騒動義民顕彰会誌・第3号』(ワッパ騒動義民顕彰会、2015年9月)に投稿したものに、地租改正に当たって公布された『地方官心得』などを加筆したものです。
2017年04月20日