徳冨蘇峰の扁額が母校校長室に掲げてある訳

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 平成29年4月26日付で加賀山隆士さん(66回・昭和34年卒)が表題のことをホームページ上で尋ねておりましたが、同時に電話で私にも照会がありました。
 しかし、私もそのことを承知していなかったので、その後インターネットで検索するなど色々調べてみましたが、とうとうその答えを見つけることが出来ず、結局,日ごろ種々庄内における歴史的事件などについてご教示を頂いている星野正紘先輩(61回・昭和29年卒)にお尋ねをしてみましたところ、「心当たりの人物に尋ねてみるので、いましばらく待ってほしい。」との返事をいただきました。
 星野さんは61回・昭和29年卒業で、山形大学教育学部卒業後は郷里に戻られ教師になられた方です。非常に研究熱心な方であり、創立百年を誇る「鶴岡競技かるた」の伝統を保存継承され、児童生徒を中心に指導をされているのを始め、「ワッパ騒動」の研究に励まれ、「同義民顕彰碑」の建立では事務局長として心血を注がれ、募金運動の結果、2009(平成21)年9月11日、騒動所縁の地、水沢の「そば処・大松庵」の敷地内に「ワッパ騒動義民の碑」の建立を実現されました。そして、「ワッパ騒動義民顕彰会」が編著者となってまとめた『大地動く よみがえる農魂』(2010年9月18日、東北出版企画)は、2010(平成22)年度、山形県「真壁仁・野の文化賞」の受賞作品となったことは周知の事実であります。
 ところで、星野さんが「心当たりの人物」とされた方は、星野さんの山形在学中の一番の友人とされる高橋 通さんでした。高橋さんは、尾花沢出身で、山形大学教育学部を卒業された後、高校で倫理、歴史の教鞭をとられた方です。庄内での勤務が長く、鶴岡南と北の両高校に勤務され、母校には1964(昭和39)年4月1日から1980(昭和55)年3月3日までと1993(平成5)年4月1日から1996(平成8)年3月31日の退職までと二度勤務されています。定年退職後は、鶴岡高等工業専門学校非常勤講師、NHK文化センター講師などを勤められましたが、長年にわたり高山樗牛の研究に取り組み、荘内日報に100回にわたって『樗牛夜話』を連載し、2005(平成17)年、この連載を纏めて『高山樗牛 31歳の生涯』を出版されています。そしてこの本が2005(平成17)年度の鶴岡市の「高山樗牛賞」に輝いたのです(『荘内日報』2005(平成17)年11月1日号)。私も、2013(平成25)年9月6日に開催された「ワッパ騒動義民の碑建立4周年記念講演会」で、高橋さんの「徂徠学とは〜幕藩体制をいかにして維持するか〜」というテーマの講演を拝聴したことがありますが、庄内では思想史の一番の権威者と評されている方です。
 ところで表題のことについては、加賀山さんも独力で調査され、その経緯については、既にホームページに報告されていますが、私も高橋さんが星野さんに語られた「ことのいきさつ」を星野さんから頂戴しましたので、これに自分で収集した資料を加えて次の通り報告いたします。
《ことの始まり・・・平成29年5月5日、高橋 通》
 平成7年頃だと思うが、たまたま何で蘇峰のものが両校にあるのか、南・北両校に努めた小生はもちろんだが、たまたま両校の校長をされた佐藤夛市氏(注1)と話し合っていた時、話題になった。小生に聞かれてもわからなかったので、大川勝三郎先生(注2)に聞けばと思い、問い合わせてみたがわからないという。大川先生は笹原儀三郎先生(注3)であれば、両校の校長をされたからわかるだろうということになり、尋ねてもらい、以下のことが判明した(笹原先生はその後間もなく亡くなられた。)。
 この書は宝町の酒造業(福泉だったか福娘だったかは不明)の成沢今蔵氏が両校に寄贈したものである(今蔵氏は小生の近所だったから前から存じ上げていた。しかし、戦後は小売りだけで醸造はしていなかったと思う。)。
(筆者注) 笹原儀三郎先生は、平成6年9月6日に、93歳でお亡くなりになっているので、佐藤校長と高橋先生とが扁額のことについて話し合われたのは、平成7年頃ではなく、平成6年頃のことと思われます。
 成沢今蔵氏は鶴岡中学校第29回・大正10年卒業で、若い時から徳冨蘇峰の思想に心酔していた(明治の初めころの「平民主義者」ではなく、日清日露の戦争以後の「帝国主義者」になった蘇峰に共鳴した。)。戦争中に蘇峰が「大日本言論報告会会長」に就任した頃、成沢今蔵氏も「大政翼賛会」などで活躍したようだ。
 戦後(昭和30〜32年前後)、成沢今蔵氏は娘・喜久子さん(注4)が在籍していた北高校のPTA 会長をしていた(宝町の町内会長も長年勤めた。)。その頃に成沢今蔵氏は上京して蘇峰に揮毫してもらった(注5)。
 このようなことで、自分の母校(息子富雄さん(注6)も鶴岡南卒で、秋田大学医学部教授の筈)と娘の母校の両校に蘇峰揮毫による扁額を寄贈したものである。なお、娘の喜久子さんはしばらく南高校で教壇に立っていたが、東京に嫁してほどなくして亡くなった。現在成沢今蔵氏の宝町の屋敷は切り売りされ、一部は「宝町公園」になっている。
 この経緯については、南・北両校の「額」(注7)の裏に書いて入れておいた。なお、小生の報告をまとめて佐藤夛市校長が、平成7年頃の「鳳嶺」の巻頭言に書き、その校正も小生が行った。 (筆者注) 加賀山さんの調査で、佐藤校長は平成6年発行の生徒会誌『鳳嶺』第29号の巻頭言に書かれています。

(注1) 佐藤夛市先生は、母校61回・昭和29年卒業で、母校第25代校長を平成5年4月1日から平成8年3月31日まで勤められました。
(注2) 大川勝三郎先生は、母校第43回・昭和10年卒業で、昭和26年3月1日から昭和52年3月31日まで母校に勤められました。
(注3) 笹原儀三郎先生は、母校第28回・大正9年卒業で、母校第15代校長として昭和23年4月15日から昭和32年3月31日まで勤められました。
(注4) 大下(成沢)喜久子先生は、母校に昭和38年4月1日から昭和43年3月31日まで勤められました。
(注5) 蘇峰が揮毫した時期については、加賀山さんが公益社団法人致道博物館の酒井英一さん(第78回・昭和46年卒業)に照会した結果、昭和30年、蘇峰92歳の時と判明していますが、蘇峰はその2年後の昭和32年11月2日、94歳で天寿を全うしています。
(注6) 成沢富雄さんは、母校第60回・昭和28年卒業で、東北大学医学部卒業、同大学院終了後、青森県立中央病院、東北大学を経て、1971(昭和46)年に秋田大学医学部に移られ、1973(昭和48)年から3年間はアメリカ健康財団(ニューヨーク)研究員などを勤められました。「大腸がんの発生とその予防」が主たる研究領域です(ハート出版著者情報)。
(注7) 徳冨蘇峰揮毫による扁額は、鶴岡南高校のが「為鶴岡南高校」として「敬天愛人」、鶴岡北高校のが「為鶴岡北高校」として「以和為貴」です。
(注1)〜(注7)までは筆者が加筆したものです。 
2017年05月09日