「洋風建築の棟梁 高橋兼吉・巖太郎の子孫との出会い」 |
64回(昭和32年卒) 庄司英樹 | ||
「洋風建築の棟梁 高橋兼吉・巖太郎の子孫との出会い」 8月末にずっしりと重い宅配便が届いた。中身は毛筆の「日露戦役日誌」3冊と「幽迷界」(捕虜になって帰還するまでの日誌)3冊。記録していたのは高橋巖太郎の長女と結婚した菅原甚蔵。送り主は仙台市の立石孝紀・庸子さん夫妻。 表紙を開くと「明治35年12月26日山形県西田川郡鶴岡町幸町16番地、官吏高橋巖太郎の長女清世を娶り東京市牛込区矢来町に寄留した。37年2月6日早朝に召集の電文が届き近くに住む妻の父母に戸外から報告した‥」日誌はこのような書き出しで始まっている。 立石孝紀氏の添え状の手紙には「菅原甚蔵(家内の祖父)の日露戦争の記録全6巻をコピーしたので送らせていただきます。私の推測の域を出ませんが、甚蔵と清世さんの出会いは、秋田に設営されていた歩兵32連隊時代の友人の紹介ではと思っています」とある。資料として鶴岡町馬場町丁6番地 軍曹阿部伊三郎と並んだ写真もある。 「農家の次男の甚蔵は志願した歩兵4連隊の兵役を終えて、清世さんと結婚した際に、巖太郎から将来、英語習得の必要性を教えられ、巖太郎家族と一緒に上京したのでしょうか。召集からの慌ただしさ、兵站もままならい様子がリアルです」と孝紀氏は感想を述べている。 「菅原甚蔵『日露戦役 日誌』をいただくことになった経緯」 一昨年のある日、鶴翔同窓会の森事務局長から「HPの投稿について問い合わせがありました。この番号に電話して下さい」と連絡があった。 「事実と異なる内容を書いた? それとも名誉毀損にあたるような投稿?」と心穏やかならないままに指定された番号に電話したところ、「洋風建築の棟梁 高橋兼吉の家」(2008年1月25日にHP投稿)についての問い合わせだった。 その方は仙台市の立石孝紀氏。奥さんの庸子さんは、兼吉に見込まれ長女安江と結婚した建築家・高橋巖太郎の長女清世を娶った菅原甚蔵の孫という。「鶴岡に出かけて先祖が建てた明治の洋風建築を見学する。巖太郎の本籍は西田川郡鶴岡町幸町16番地。近くの兼吉の家の所在跡地も見たい」という希望。直接案内した方が間違いないと考え、致道博物館でお会いした。 孝紀氏は電器関係の会社に勤務していた経歴の持ち主とあって、高橋兼吉・巖太郎に関してはWebで全て調査済み。今回も、致道博物館所蔵の巖太郎の履歴書(南満州鉄道提出の書類・宮内庁提出時の書類。 兼吉は佐野友次郎、巖太郎は建築家・東大教授伊東忠太から近代建築の指導を受け、駒杵勤治から工事施工法を学んでいた)を見せてもらい、工事中の旧鶴岡警察署庁舎の内部の見学も了解を得ておられた。 「致道博物館」 旧鶴岡警察署庁舎、同じ敷地内の旧西田川郡役所もゆっくりと見て「先祖がこのような立派な建築に携わっていたとは驚いた。もっと小規模な建物を想像していた」と興奮された様子。この2つの建物は、移築前は丁字路を挟んで向かい合って建っており、旧西田川郡役所は田川地方事務所として使われ県職員の父が勤務し、私は学生時代に2階でひと夏アルバイトした建物でもある。 「鶴岡市立図書館」 孝紀氏は「巖太郎に関わる資料は国会図書館所蔵までWebで全て調べ上げてあるが、まだ核心部分で不明な点がある」とのこと。近くに鶴岡市立図書館があるので立ち寄ってみてはと勧めた。駐車場で待っていると30分もしないうちに戻り「郷土資料室で不明な点を尋ねたところ、担当者が古文書を探し出して説明・解説してくれたので、長年の疑問点が一挙に解消した」ととても喜んでおられた。 「高橋巖太郎の本籍地があった幸町16番地、現在の陽光町8-23・8-24」 巖太郎の本籍地の跡地は、現在は鶴岡スポーツ研修センターになっていた。巖太郎の本籍地があった2〜3軒隣には私の母の実家舩戸家があり当主の猛夫氏に案内してもらった。スポーツ研修センターの敷地は住宅跡地で狭い。大工町と言われたこの地の家は、作業小屋を備えており、猛夫氏によると「巖太郎の本籍地の屋敷も広かったが、大正・昭和の時代になって住宅用地として分譲ではないか」と言う。 この後、兼吉の家の跡地に住む舩戸家を案内してもらった。兼吉・巖太郎が住まいした家屋は建て替えで昭和55年に解体し、当時の面影は玄関前にあった梅の枯木と庭園のみ。後日に、解体前の家屋の写真が見つかり貼付送信したところ孝紀氏から「名工の質素な住宅にびっくりです」との感想だった。猛夫氏よると、兼吉の家は、解体した家々の古材を集めて建てられたと思われる。棟札も昔のみかん箱のようなザラ板だったという。 今回、この文を綴るにあたり当時の土地建物売渡証書を見せてもらった。 明治35年7月19日 売主 高橋巖太郎 保証人一日市町 齋藤善作 買い主 舩戸泉士 二百人町 萩原常保代書 同日に登記。 木造杉皮葺き平屋一棟 土地面積364坪、総額300円 作業小屋等はなく、買い主は私の祖父の名だった。荘内日報社「郷土の先人・先覚」によると巖太郎は明治32年には内務省の造神官技手として伊勢神宮の式年遷宮に従事し、家族とともに東京に住むとあり、空き家になった家屋敷を処分したと考えられる。 舩戸家初代は亨保13年(1728)に藩医として江戸から庄内の地に赴任、菩提寺は郊外の井岡寺だったが、後に庄内藩初代藩主の忠勝公正室鳥居姫の墓所のある総穏寺に墓地を移している。明治になって祖父は医業を継がず庄内藩士族として軍人を志願、日露戦争に従軍し、終結後は久留米市の陸軍に家族を伴って赴任。退役後に戻る地として、舩戸家の二代目が百五十年遠忌に恩顧に浴した鳥居姫墓所のある総穏寺に隣接した兼吉の家を買い求めた。 「善宝寺五重塔」 善宝寺は海の守護神・龍神の寺として知られ、藤沢周平の小説「龍を見た男」にも登場する。平成17年に国の有形登録指定文化財に指定された。五重塔は明治26(1893)年に漁業者によって建立された善宝寺のシンボル的存在。兼吉は宮大工として神社仏閣の建設にも取り組み、この五重塔の建築には明治18年から9年間を費やし、完成の翌年の明治27年に竣工を見届けて50歳の生涯を閉じている。 中津玲著「五重塔遺聞」(第19回「真壁仁 野の文化賞」受賞)を同窓の半田豊作氏(65回・昭和33年卒)から「友人の著作なので読んで欲しい」と寄贈を受けた。水野禅山老師が、「ひとつの仕事さ、棟梁が3人というのは、あんまり聞いたことがねえがのう‥。それぞれに腕を競わせて見るのも悪くはねえと思うんだが‥」この老師の発案で湯野浜の奥山富五郎に加えて、高橋兼吉と馬町の山本佐兵衛の3人の棟梁を起用して五重塔を建立したという興味深い小説になっている。 立石さん夫妻は、先祖が関わった洋風建築とは異なった総欅造りの五重塔にも驚かれた様子で、じっくりと時間をかけて観ておられた。 高橋巖太郎は善宝寺の近くの馬町、山本佐兵衛の長男として生まれ16歳で兼吉に弟子入りし、兼吉に見込まれて長女の安江と結婚、兼吉の右腕となった。私は事前に山本家の所在地を確認していなかったので、この日は立石さん夫妻を案内することはできなかった。 「巖太郎の生家 山本佐兵衛」 芥川賞受賞作家の森敦は、師横光利一(鶴岡市の日向豊作の次女千代と結婚)に倣ったかのように北俣村吉ケ沢(現、酒田市)出身の前田暘を娶り庄内を放浪して馬町の山本佐兵衛家にも止宿している。森敦全集(筑摩書房)第三巻の「浄土」の「吹きの夜への想い」と森敦著「わが青春 わが放浪」(小学館 P+D BOOKS )の「浄土」に詳しい。森敦は昭和37年から昭和40年まで山本清美方を住所にして、友人宛に自らの文学論、友人の著書の批評、近況などを認めた手紙を出している。(森敦全集 別巻*書簡・書誌・年譜) 森敦と山本清美の出会いは森敦の文学の師、横光利一が疎開先した上郷村(現、鶴岡市山口地区)だった。横光はこの地を「一番日本らしい風景」として、敗戦の知らせを受けるところから、東京に戻るまでの100日間の日々を日記形式で描いた小説「夜の靴」をまとめている。 9月16日に鶴岡市立図書館で開かれた「森敦寄贈資料目録」刊行記念事業の講演会で森敦養女・作家の森富子氏、國學院大學の井上明芳准教授の講演を聴き翌日ゆかり地をめぐる文学散歩に参加した。 森敦が加茂に止宿し、加茂坂トンネルを抜けて大山公園に行き、庄内平野を眺めていた。しかるべき部屋を借りようと「勉強堂」の看板を掲げた床屋に入った。襟足を剃らせている若々しい女と鏡を通して眼が合って会釈を交わした。清美との出会いであった。森敦が一度訪ねてみたいと思っている横光利一が疎開先した上郷村(現、鶴岡市山口地区)について勉強堂に尋ねたところ彼女の出身地と教えられた。後に清美の案内で上郷村に行ったことが、清美の嫁ぎ先の山本佐兵衛の家に止宿する契機になった。山本家は、小説「月山」「われ逝くもののごとく」そして文学理論「意味の変容」の理論的・構造把握をするには欠かせない家であった。大山公園の丘に登っては庄内平野を一望し、「夜の靴」の舞台となった東羽黒と一対をなす西羽黒、月山・湯殿山、そして鳥海山を眺めて「月山」の構想を練った。 「即身仏に象徴される祖霊信仰の湯殿山の山懐にひと冬こもった体験が小説「月山」に結実する。この、生と死とは循環するとの死生観をテーマとする森文学は、やがて、『生と死とは一如となす』という主旋律を『われ逝くもののごとく』の世界に鳴り響かせることになるのであった。庄内は、師弟にとって、心のふるさとであったばかりでなく『文学の原ク』でもあったのではなかろうか」(森文学保存会代表、春山進) 3年間という山本家への止宿は「庄内を愛した横光利一と森敦の絆」を撚り合わせる家であった。森敦は清美の娘を5歳下の弟碩(みつる)に勧めて結婚させている。森碩は後に鶴岡高専の教授になっている。 「阿部久書店」 立石夫妻の案内最後は阿部久書店、この書店なら「五重塔遺聞」が置いてあるのでは‥と案内した。車内で待っていると、孝紀氏は「売り切れだった」と間もなく戻ってきた。庸子さんはなかなか戻ってこない。「悪い所を案内してくれましたねえ。家内は本が好きで一室が本で埋まっている。先日ようやく整理したばかりなのに‥」とつぶやいておられる。間もなくして庸子さん「欲しかった本が一杯あった」と数冊買い求めて大喜びで戻ってこられた。こうしたエピソードで高橋兼吉・巖太郎に関わる鶴岡の案内は終わった。 先祖ゆかりの地を見て仙台に帰宅した庸子さんは兄と姉の5人に、祖父・巖太郎が生まれ育った鶴岡と施工設計に携わった建築を観て歩いた感想をすぐに報告したとのこと。 NHKの番組「プロフェッショナル」"世紀の大工事 城を曳く"(平成27年11月16日放映)は、倒壊の危機にある弘前城天守を、米沢の曳家職人が500年以上も前から引き継がれる土木工法で移転するドキュメント。この番組に、一度は解体しようとした国指定重要文化財「旧鶴岡警察署庁舎」の曳家工事が織り込まれていると知り、放送前に立石氏に連絡した。 建物全体をジャッキで少しずつ持ち上げ水平にする工事を、全国に散じて住んでいる庸子さんの兄と姉の家族もそろって視聴し、先祖の仕事内容を目の当たりにしてとても喜んだという。 歴史を実証的に検証するには、最終的な文書、決裁文書である公文書よりも個人文書、すなわち関係した個人が持っている日記や書簡、メモや心覚えが役立つという。 日本文学研究者のドナルド・キーンは海軍情報士官として従軍した太平洋戦争で米軍が入手した日本軍に関する書類の翻訳、戦場に遺棄された兵士の日記の翻訳をし、「初めて日本人の心に接した。本物の日記は、いつかは他人がそれを読むであろうという、少なくとも無意識の希望、あるいは期待をこめて書かれた一種の告白的行為であることが多い」と話している。 ドナルド・キーンが30年前に山形で講演の際に、私は3日間ホスト役を務めて断片的に聞いた話を思い起こし、サインしてもらった「百代の過客」(朝日新聞社)を久しぶりに手にした。 序に「文学的な意図を待って書いた日記と、一人物の生活に起こった事件を単に記録したものとしての日記とは区別したほうがよさそうである。いわゆる非文学的日記は、天候とか以後全く世に知られなくなった知人とかに関する、不必要としか思われぬ事柄を、こと細かく述べ立てて、大抵の場合退屈である。しかしそうした日記の、まさにその非芸術性こそが、それの持つ真実性の証左であることが多く、それが今も私達の興味をそそる事件や人物に触れていれば、よそでは到底望みようのない『人間味』を味あわせてくれるのである。芭蕉の『奥の細道』はまぎれもなく文学的なもの。一方『曽良奥の細道随行日記』は真実の記録であり『奥の細道』の文学的価値は、真実からの逸脱によって高められていることがわかった」と記している。 「日露戦役 日誌」 「結婚して1年後、日露戦争開戦で召集の電報を受け取ると、妻を起こし近くに住む妻の父母に行き、まだ起床していない父母に戸外から電文を報告した。集合地は仙台第4連隊。いったん色麻村の実家に向かうため、上野停車場に行ったところ切符売捌口は立錐の余地もない混雑、待合室で出会った山形高等女学校教諭の関原重雄氏と同車だった。応召を聞いた親類知人との祝宴等で3日3夜一睡もせずに、集落から徴発した15頭の馬に見送りの親族と乗って白雪の道を仙台に向かった」 戦地にあっては「毎日本国からの手紙、新聞を鶴のように首を長くして待ち、郵便が来ると奪い合う大騒ぎ。自分宛ての手紙がないときは落胆して『郷里のヤツ等、僕などは死んでもいいと思っているだろー』が常套語。新聞に自分の所属隊の記事でもあれば、大得意、分隊中を高声音で読み回る。届いた新聞は18・19日前の日付だが隅から隅まで広告等も読む。出征軍人ほど忠実な読者は他に求めるを得ず‥」との記述もある。 この日誌を読んで立石さん夫妻は、「甚蔵は几帳面で実直な人と推測されますが、巖太郎さんとの係わりも伝わってきます」と記している。 この貴重な日誌を私の手元に置く「私蔵」は「死蔵」になる。「ふるさとを描いた文学 〜絆・横光利一と森敦〜」で講演した森富子氏は「森敦は足腰が弱って旅行は無理な身体になっても『庄内には這ってでも行く』と言っていた」と逸話を紹介していた。 菅原甚蔵の「日露戦役 日誌」は妻の清世のふるさとへの思いもあるのでは‥。立石さん夫妻の了解を得て鶴岡市立図書館に寄贈することにした。 立石さん夫妻は兼吉・巖太郎をルーツとした歴史をまとめ家族の絆を見つめ直したいという。家族・子孫でしかわからないドラマ・エピソードも含めた「Family History」を待ち望んでいる。 |
2017年10月2日 |