「庄内」と「左沢」との浅からぬ因縁

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「庄内」と「左沢」との浅からぬ因縁
《大江町における松山藩領地の存在》
 『山形県の歴史』(誉田慶恩義・横山昭男著、昭和45年1月1日印発行、株式会社山川出版)の「幕末における幕藩領の分布図」を見ると、現在の西村郡大江町近辺にかなりの面積で「松山藩」の領地が存在しています。なぜそのような状況になっていたのか、今回はその理由を調べて見ましたので報告します。
《左沢藩の起こりと廃絶》
 元和8年(1622)、山形藩57万石の藩主最上家信(義俊)が改易に処されると、その後に山形に鳥居忠正(22万石)、上山に松平重忠(4万石)、真室川に戸沢政盛(6万石、後に新庄に移る。)、鶴岡に酒井忠勝(13万8千石)の諸大名が移封、配置され、酒井忠勝の弟である直次が支藩として「左沢(あてらざわ)」に1万2千石の、忠重には白岩(寒河江市)に8千石の領地がそれぞれ与えられました。
 直次は、当初「左沢城」(現在の史跡左沢館山城跡)に入城しましたが、山城の不便さから新たに最上川の支流漆川(月布川)と小漆川(市の沢川)に挟まれ、東方向に張り出した河岸段丘先端に「小漆川城」を築き支配拠点としました。ここが現在の大江町左沢であります。
 26歳で左沢藩主に封じられた直次は、小漆川城の築城や城下の造営など精力的に藩の経営に当たったと思われるのですが、残念なことに寛永8年(1621)3月10日、35歳の若さで死去し、「巨海院」に葬られました。嗣子がないままの死去であったためその所領は収公され、収公後に荘内藩の預地となります。従って、「左沢藩」はわずか10年足らずで廃絶してしまったのです。
 その後、寛永9年(1632)、改易となった肥後熊本藩主加藤忠弘が庄内藩にお預けとなり、幕命によって一代限りの1万石を丸岡に分与された代わりに、交換の形で左沢領は庄内藩領となり、《松山藩の成立》の項で述べるように慶安元年(1648)に酒井忠勝の三男忠恒(ただつね)が松山藩領と内定し、寛文3年(1663)にそれが確定するまでの間庄内藩が15年半支配しました。
 直次の左沢藩の家臣団は、宗家庄内藩からの「分人(わけにん)」を主とし、これに最上氏旧臣の取り立てなどによって編成されたとされています。また、直次が整備した小漆川城下としての左沢の「町」の整備の程度はどの程度であったのかは明らかでなく、藩が短命であったこともあり、限られたものであったとされていますが、ただ、青苧畑の検地を実施したことは有名な話として残っています。
 小漆川城と武家屋敷が建設された高台の城跡は、地形や地割にその名残を残していますが、現在は耕作地やブッシュ地となっています。
《成立当初の左沢藩の村々》 
 成立当初の左沢藩の村々は幕府領と入り組みかなり分散していましたが、嘉永元年(1624)に郷替えが行われて左沢領73ケ村が確定しましたが、その状況を表にまとめると次のようになります。。
左沢領の村 その他の領の村
左沢領 73ケ村  大江町域  26ケ村
           朝日町域  39ケ村
           寒河江市域  3ケ村
            西川町域   4ケ村
            白鷹町域   1ケ村
 幕府領  大江町域七軒地区 7ケ村
      小見村
 山形領  大江町域三郷地区 3ケ村
 慈恩寺領 小釿(こじゅうな)村
 合  計  12ケ村
《左沢藩の青苧畑検地》
 漆川(月布川)上流地域は江戸初期から、あるいはそれ以前から青苧栽培が盛んになり、青苧の生産拠点でしたが、酒井直次は検地を実施し、青苧畑の上・中・下1反当り20把・16把・13把の青苧の納入を課すことにしました。最上氏時代より山野辺領の上・下五百川領村々の青苧畑には浮役(年貢以外に必要に応じて臨時に徴収される雑税)が賦課されており、左沢藩でもそれを踏襲して藩領全体に拡大したとみられています。しかし、上・下五百川領民は従来の浮役の撤廃を目指して提訴を起こしましたが、結果としてこれは認められませんでした。そして、農民の願いに反して、青苧畑には一般の畑としての負担に浮役、更に検地による青苧役が加わって三重負担、その他の地区でも二重負担となりました。浮役は早くから金納から米納に直されて「浮役代米」となり、青苧役も寛永9年までには現物納から金納、更に米納となって「青苧代米」(青苧100把の売り値を金3分、米にして2石5斗として算出したもの)となりました。
 慶安2年(1649)当時の左沢領域全域での「浮役代米」は213石(実際は上・下五百川地区のみ負担)、「青苧代米」は331石余で、以後大きな変更はありませんでした。廃絶した左沢領を引き継いだ庄内藩の寛永11年(1633)の記録によると、領内村々産の443駄余の青苧が取引されたとされ、左沢領内70村の内、宮中(寒河江市)・吉川(西川町)・原(西川町)の3村を除く村々が「青苧代米」を負担しており、天明5年(1785)から3年余松山藩領から幕府領に移った46村全てで女性の仕事として青苧栽培が書き上げられています。また、文政3年(1820)には松山藩が専売制を打ち出しましたが、これは領民の反対で1年余で失敗に終わっています。
 このように左沢と周辺の七軒地区や大谷地区(朝日町)などの他領の村々産の青苧とともに、青苧は左沢の港から最上川を利用して越後や越中、更には遠く近江や大和まで積み出されて、藩財政はもちろんのこと領民の生活を支えるのに大きな役割を果たしました。。
《松山藩の成立》》
 正保4年(1647)、初代庄内藩主酒井忠勝が没すると、その遺命によって忠勝の嫡子である忠当(ただまさ)が跡を継ぎ、三男忠恒に中山2万石、七男忠解(ただとき)に大山1万石が与えられました。ただし、忠恒の所領及び藩主としての屋敷地の決定は遅れ、所領については翌年の慶安元年(1648)1月に左沢領1万2千石が定まり、残る8千石は飽海・田川両郡に分地の後替地が行われ、藩主忠恒の松山入部の翌年、寛文3年(1663)3月に確定しまし。松山藩の家臣団は大部分が本家庄内藩からの分人で構成され、藩の国元の本拠地が完成するまで鶴岡・左沢・江戸に分散居住していましたが、慶安元年(1648)に左沢領が内定すると50人の足軽を含む多数の家臣が左沢に移り住みました。
 藩主の国元屋敷を中山(後の松山)に設置することを認められたのは寛文元年(1661)で、翌寛文2年に14世紀後半ごろ設けられたという中山村と呼ばれていた旧館の跡地に藩主屋敷とともに家臣屋敷が建設されて分散していた家臣たちが移り住み、7月には藩主忠恒が初入部して「中山藩」を成立させ、左沢からも足軽を残して家臣が移ってゆきました。寛文4年(1664)には、中山の地名は「松山」と改められ,「中山藩」も「松山藩」になりました。こうして、左沢に1万2千石、松山藩の支配が明治4年(1871)の廃藩置県まで続くことになったわけです。
 松山藩成立までの事情がややこしいので表に整理してみると次のようになります。 。
年 号 事              項
元和8年(1622) ・酒井忠勝庄内に入部。
寛永8年(1621) ・酒井直次1万2千石左沢藩主35歳で逝去。所領収公。
寛永9年(1632) ・加藤忠幕命により改易、酒井忠勝にお預け。丸岡に一代限りの1万石分与。
正保4年(1647) ・酒井忠勝没。三男忠恒に2万石分与。
慶安元年(1648) ・忠恒の2万石が左沢領1万2千石と飽海・田川郡に合わせて8千石と内定。左沢・領分は確定まで庄内藩領。
寛文元年(1661) ・忠恒の国元屋敷を中山(後の松山)に設置することが認められた。
寛文2年(1662) ・中山村と呼ばれていた旧館の跡地に藩主屋敷とともに家臣屋敷が建設され、分散していた家臣たちが移り住み「中山藩」成立。
寛文3年(1663) ・忠恒の領地2万石が左沢1万2千石と飽海・田川郡に合わせて8千石と確定
寛文4年(1664) ・中山の地名は「松山」と改名(「松山藩」)。
安永8年(1779) ・幕府より松山城築城の許可(3代忠休(ただよし))。5千石の増加と御用金2千両を賜わる。加えて城門には武門の誉とされる鯱を挙げることも許可。
天明元年(1781) ・松山城築城開始。以後7年の歳月をかけて完成。
天明8年(1788) ・松山城落成。
寛政2年(1790) ・大手門落雷により焼失(現存するものは酒田の大豪商本間重利が寛政4(1792)年に寄進したもの)。
寛政4年(1792) ・大手門酒田の豪商本間利重の寄進により再建。
 (参考) 大江町左沢の法海寺は浄土宗の寺院で松山藩の菩提寺となっています。
《藩主屋敷を松山とした理由》
 藩主屋敷が所領の一番多く城下町作りの進んでいた左沢ではなく松山となったのは、次のような事情があったからだと考えられています。
 すなわち、左沢藩が短命に終わったことや白岩領の動きを抑えることが出来なかったこと(※)に対する宗家庄内藩の反省と左沢藩収公時の庄内藩預かりに領民の抵抗の動きがあったこと、そして松山が庄内の北東辺の最上川近辺にあって軍事・経済・交通の要地にあったことなどとされています。
※寛永10年(1638)、時の白岩城主酒井忠重の悪政に白岩領民が一揆をおこしたもので、結果義民38名が処刑されました。幕府の措置はその5年後の寛永15年(1638)に行われ、忠重への措置は兄忠勝の庄内藩お預けという軽いものでした。義民一揆として全国的にも有名な事件の一つです。
《松山藩の左沢領統治》
 松山藩は左沢に城は築かず「陣屋」(「左沢御領内御絵図」において「月布川」と「最上川」との合流点付近)を設置し、郡代及び代官を派遣して左沢を支配しました(郡代は安永6年(1777)まで。)。「陣屋」は、現大江町左沢の東南端の「町民ふれあい会館」の地にあり、「陣屋」の西方、今日の八幡神社の地に藩の「米蔵」が設置されていました。「陣屋」、「米蔵」ともに建設された年代は不明ですが。文化8年(1811)に改築の議が起こり、同10年8月に落成しています。
 「左沢絵図面」(天保期(1830〜44)作成とみられる。)や「左沢御領内御絵図」(天保9年1831作成)を見ると、内町・横町通や天神前・後免町通り、原町通り、八幡小路に加えて、陣屋付近の東町や新町の通り、陣屋と藩の米蔵を結ぶ袋町通り、陣屋と米蔵の北側を通る代官小路、米蔵の南側の蔵前通りなどが同様の広さで描かれています。これらは、名前が示す新町は勿論、他の通りも陣屋の設置に伴って新屋敷と共に整備されたものと思われます。なお、新町通りは前述の「町民ふれあい会館」の西側の道路が 北に延びて横町通りまでであり、東町の通りは、南が代官小路が東に延びて陣屋の北を走り、陣屋の東端付近から北に折れて横町通りが原町通りと交わってやや東に延びたところまでです。両絵図によると、陣屋の北隣の東町や西隣の袋町、左沢藩の小漆川城跡の北側などに家臣屋敷が集まっています。また、中世末には元屋敷にあったと伝えられる実相院と称念寺が、慶安元年(1648)建立の法界寺と共にほぼ現在地に描かれています。移転された時期は明らかでないようですが、城下の守りを兼ねて早い時期に城下入口に当たるこの地に移されたものと考えられています。当時の左沢の町並は実相院と称念寺を結ぶ線より南側で、北側は原町通り沿いを除いてほとんど田畑となっています。
「左沢御領内御絵図」(大江町と最上川の流通・往来の景観保存調査報告書から)
左沢の西方にある「巨海院(上図の左端の茶色の部分)」には左沢藩主酒井直次とその夫人の墓碑と伝えられる2基の五輪塔がやや離れて立っており、共に大江町の文化財に指定されています。そして「巨海院」境内には、松山藩郡代や代官等の墓もありその数19基を数えます。19基のうち1基には4人が合祀されており、郡代や代官のみならず父母や子女の場合も多く、郡代や代官は家族連れで赴任したものとされています。なお、「巨海院」の山門は小漆川城の城門を移築したものです。
《大江町左沢の「重要文化的景観」》
 幾つもの盆地に分かれてそれぞれ独特で豊かな文化を育んできた本県各地を地理的に一つに?ぎ、 過去の歴史を秘めて最上川は流れ下ります。今まで気が付きませんでしたが、上述した通り、庄内と左沢とは浅からぬ因縁があったのです。左沢は「最上川舟歌発祥の地」であり、最上川の「美しい景観」が存在しています。そしてまた、左沢には昔日の庄内との関りを示す寺院と墳墓、また、移築された小漆川城の城門などの遺蹟が残っています。
 このような大江町左沢の文化的景観(最上川の流通・往来及び左沢町場の景観)が山形県としては最初の「重要文化的景観」として平成24年(2013)の国の「文化審議会」において認められました。
 この「重要文化的景観」というのは、「地域における人々の生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解に欠くことのできないもの(文化財保護法第2条第1項第5号)」と定義されており、水田、畑地などの農耕景観、採草・放牧地等の牧野景観、森林景観、養殖いかだ・海苔ひびなどの漁労に係る景観、溜池、水路、港などの景観、砕石地、鉱山などの景観、道、広場などの流通に係る景観、垣根、屋敷林等の居住景観などが対象となるものです。つまり、人々の伝統的な暮らしそのものが保護対象になるような概念になります。
 一方では、この概念が人々に十分理解されるのか、どうか、人々の生活の場そのものの利活用をどうするか、文化財保護の観点と観光的活用の調和をどのようにするかなどの課題も存在しますが、本県最初の事例として最上川とその周辺の景観の価値が認められたものであり、今後どのような展開を見せるのか、誠に興味深いものがあります。
《追 記》
 2017(平成29)年11月18日付けの山形新聞は、同年11月17日開催の国の文化財審議会が「最上川流域における長井市の町場景観を「重要文化的景観」に選定するよう答申したことを次のように伝えていました。これにより大江町左沢の文化的景観(最上川の流通・往来及び左沢町場の景観)に次いで、長井市宮、小出地区が本県2番目の「重要文化的景観」に選定されることになります。
 重要文化的景観に選ばれる見通しとなった長井市の町場は、最上川流域にある宮、小出地区などが該当する。江戸時代に最上川船運の船着き場が設置され、物資の集散地・商業地とされ、物資の集散地・商業地として栄えた。往時を継承する商家群、蔵、水路などが文化的景観として重要とされ、内谷重治長井市長は「長井独特の文化をまちづくりや観光交流に生かし、先人が守り継いできた歴史的景観を後世にきちんと伝えていきたい」と話す。
《参考にした文献など》
 本稿を纏めるに当たっては、『山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男著、昭和45年1月1日印発行、株式会社山川出版)、『大江町と最上川の流通・往来の景観保存調査報告書』(平成24年3月31日、大江町教育委員会)、『新編庄内人名辞典』(昭和61年11月27日、庄内人名辞典刊行会発行)、『新編庄内史年表』(2016年3月31日、鶴岡市発行)、『山形新聞記事』、『ウィキペディア』などを参考にしました。
2017年11月02日