渡辺吉郎を知っていますか?

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 渡辺吉郎を知っていますか?
 今年(2017年)11月18日(土)付けの山形新聞2面に、「県内文化財建造物5件―国文化審」という見出しで四枚のカラー写真が掲載されたのを、ご覧になられた方もいることだろう。その中の一つに飯豊町の「渡辺六郎兵衛家住宅長屋門」があるのを見て、私はここ数年の来しかたを振り返り、感無量の思いを味わった。記事には「飯豊町に関しては大地主を務めた旧家・渡辺六郎兵衛家の住宅長屋門が答申を受けた。中央門口に格子天井などを設け、腰壁をれんが貼りとしているほか、観音扉の窓を連続させた外観が特徴。1909(明治42)に建てられ(以下略)」とある。即ち、国の登録有形文化財に指定されたわけである。
 この家は、米沢の蘭医・堀内塾に学びその後、和歌山で華岡青洲門下生となった渡辺吉郎の実家でもあった。否、渡辺吉郎を掘り起こす過程でいろいろのことが分かり、それが実家の長屋門の保存にもつながったという言い方の方が正しい。様々な出会いがあり、その結果としての国登録有形文化財指定だった。これからかいつまんでその物語を記していきたい。

 渡辺吉郎は、庄内にもゆかりのある江戸後期の医師である。『新編庄内人名辞典』の記述によれば、以下のような人物とされている。
 「生没年不詳 藩医 庄内鶴岡に生まれ、のち江戸に出て幕府の医官花岡随賢に入門、技を磨いて、名医と称される。外科の医方に長じて米沢藩に召し抱えられたが、のちに庄内藩からも扶持を給される。」
 とある。これは昭和十二年刊の阿部正己『荘内人名辞書』を底本にしたものらしく、それによれば「「鶴岡に生る醫師なり、後江戸に出て幕府の医官花岡随賢に入門し名医となる、最も外科に長じ米沢藩に抱へられ大に流行す、後庄内藩からも扶持を給せらる」とあるので、殆ど内容は同じである。
 だが、独自に発掘した諸資料を当たってみると、この記述には間違いが多い。生まれは鶴岡ではなく、置賜郡飯豊の黒沢というところである。ただし、庄内藩から扶持を給されたこと、華岡青洲の弟子であったこと、後年江戸に出て大いに医師として繁盛したことは事実である。

 私(私たちというべきか)と渡辺吉郎の出会いは、振り返ると「物語」と言っても良かった。なにせ出発点が「鳥居姫のお墓」なのである。私は2015年6月9日付けで「庄内藩の女性たち(10)―第四章 桜の墓標(鳥居姫5)」なる文章を当欄に寄稿させて頂いたのだが、その末尾に「小高いところに鳥居姫のお墓があり、そこに至る短い小道に小さな墓群があるのは、あたかも姫に侍する人々が居流れているように見える」という拙文を書いた。これがまた一つの機縁を呼んだ。そのご縁で「鳥居姫のお墓の前の小さな墓群」の一つの所有者のかたと連絡がつくことになった。それは元庄内藩医の家系の方で、アレンジしてくださったのは、当欄でもおなじみの庄司英樹氏である。
 元藩医のお宅にあった医書の中に、渡辺吉郎が執筆した医書があるのを発見した(これは後から証明されることになった)。他に鶴岡市郷土資料館の古文書史料には、吉郎を庄内に招聘した三人の医師の連署があったし、藩が吉郎に扶持を給するという書付も見つかった。
 ただし、吉郎が米沢藩の医師であったかどうかということは、この時点では分からなかった。米沢市立図書館の資料には医師としての吉郎の名前が見つからなかったのである。しかし、華岡青洲の門人録に「出羽置賜黒沢出身」という記述が見つかり、そこで庄司英樹氏が飯豊町教育委員会に電話してくださったのである。電話を受けたのはその4月に文化財保護専門員になったばかりの高橋拓氏であった。氏はすぐに調査を開始、渡辺という苗字と、江戸時代に医師を出せるくらいの旧家ということで数軒を当たり、程なく渡辺吉郎の実家を探り当ててくださったのである。それが渡辺六郎兵衛家である。
 吉郎の実家は伊達の旧家臣で、江戸初期に帰農したということなどは、渡辺家の家譜で判明し、渡辺吉郎の事績なども記されていたのである。ここに至り、吉郎の調査は大きく進展した。吉郎の医書の前書きにあった「甘露亭」は実家の六郎兵衛家の門の外に建てられており(現在はない)、吉郎の住まいと医院を兼ねていたことも証明された。この辺のことは高橋拓氏が論文に書いておられるので、機会があればそれを参考に詳述したい。 同時に高橋氏は渡辺家長屋門を詳しく調査され、その結果を文化庁に通じておかれたので、今回の国の文化財指定の話につながったということである。

 庄内に於ける渡辺吉郎のもう一つの大きな業績は、庄内に初めて種痘を持ち込んだことであるが、これについても高橋拓氏がもう一つ論文を書かれるのを待ってからにしたい。
 ここでは、鳥居姫のお墓を起点とした不思議なご縁が、渡辺家長屋門の国登録建築物指定に繋がったことを記して、一緒に調査してくださった庄司英樹氏、渡部功氏に感謝の念を捧げるものである。渡辺吉郎に関しては、折に触れて当欄で文章化していきたいと思っているので、何卒宜しくお願い申し上げます。

 
2017年12月20日