三大○○、三景・八景、大泉八景和歌について

64回(昭和32年卒) 渡 部   功
三大○○、三景・八景、大泉八景和歌について
 古来より日本人は、特異なもの、素晴らしいもの、自慢できるものなどをジャンル(部門、種類)ごとに三つ取り上げて「三大○○」と呼称するのが大好きなようですが、その代表的な例を纏めてみると次表のようなものがあります。
区 分 地       名 区 分 地       名
風 景 松島・宮島(厳島)・天橋立 都 市 東京・大阪・京都
富士山・白山・立山 霊 場 高野山・比叡山・恐山
利根川・筑後川・吉野川 歓楽街 すすきの・歌舞伎町・中洲
那智の滝・華厳の滝・袋田の滝 祭 り 神田・祇園・天神(大阪)
姫路城・松本城・熊本城 七 夕 仙台・平塚・安城
庭 園 偕楽園・兼六園・後楽園 花 火 大曲・土浦・長岡
温 泉 熱海温泉・白浜温泉・別府温泉 夜 景 函館・摩耶山(神戸)・稲佐山(長崎)
 以上に掲げた以外にも多くのジャンルごとに三大○○と称するものがあるようですが、今回はこれらの中からジャンルを「風景(景色、景観、名勝地)」に絞って若干の考察を試みることにします。

《日本三景について》
 まず「日本三景」というのがあります。これは、松島・宮島(厳島)・天橋立の名勝地を指すのですが、すべて海沿いにある風景地となっており、それぞれ古から詩歌に詠まれ、絵画に描かれていました。江戸時代前期の儒学者・林春斎が、寛永20年8月13日(グレゴリオ暦1643年9月25日、以下同様)に著わした『日本国事跡考』の陸奥国の件(くだり)において、「松島、此島之外有小島若干、殆如盆池月波之景、境致之佳、與丹後天橋立・安藝厳嶋為三處奇観」と記述したところから、これを端緒に「日本三景」という括りが始まったといいます。その後、元禄2年閏1月28日(1689年3月19日)に天橋立を訪れた儒学者・貝原益軒が、その旅行記、『己巳紀行(きしきこう)』の中の丹波丹後紀行において、天橋立を「日本の三景の一とするも宜也」記し、これが文献上の初出とされ、益軒が訪れる以前から「日本三景」が一般に知られていたといいます。それから「日本三景」を「雪月花」にあてた場合、「雪」は「天橋立」、「月」は「松島」、「花」は紅葉を花に見立てて「宮島(厳島)」がこれに該当するようです。この松島、宮島(厳島)、天橋立は、いずれも1952(昭和27)年11月22日に「特別名勝」の指定を受け、更に宮島(厳島)の厳島神社が、1996(平成8)年12月に「世界遺産」に登録されています。  その後1915(大正4)年に至って、日本三景に倣って実業之日本社主催による「日本新三景」の選定が行われ、全国投票の結果、翌1916年に「大沼(ボロトー)」(北海道亀田郡七飯町にある堰止湖)、「三保の松原」及び「耶馬渓」が「日本新三景」として誕生しています。

《八景について》
 次に「八景」というのがあります。上記「日本三景」が全国レベルを対象としているのに対して、「八景」は、ある地方、地域における八つの優れた風景ということで、ローカル的な風景を指すようです。
 そのモデルとされるのは10世紀に北宋で選ばれた「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」であり、これの影響を受けた台湾、朝鮮、日本など東アジア各地では、それぞれ各地で八景が選定されています。この「瀟湘八景」とは、中国の湖南省長沙一帯の地域で、伝統的な画題となる景勝地で、洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流する辺りを「瀟湘」と呼び、古来より風光明媚な水郷地帯として知られていたところです。北宋時代の高級官僚・宋迪(そうてき)はこの地に赴任した時にこの景色を山水図として描いたのですが、後にこの画題が流行し、やがて日本にも及んだものです。具体的には次表の通りとなります。
八       景 描  か  れ  て  い  る  風  景
瀟湘夜雨(しょうさやう) 瀟湘の上に物寂しく降る夜の雨の風景
平沙落雁(へいさらくがん) 秋の雁がカギになって干潟に舞い降りてくる風景
烟寺晩鐘(えんじばんしょう) 夕霧に煙る遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜の風景
山市晴嵐(さんしせいらん) 山里が山霞に煙って見える風景
江天暮雪(こうてんぼせつ) 日暮れの河の上に舞い降る雪の風景
漁村夕照(ぎょそんせきしょう) 夕やけに染まるうら寂しい漁村の風景
洞庭秋月(どうていしゅうげつ) 洞庭湖の上に冴えわたる秋の月の風景
遠浦帰帆(えんぼきはん) 帆掛け船が夕暮れ時に遠方より戻ってくる風景

《日本における八景について》
 「瀟湘八景」に影響を受けた日本最古の八景は、よく知られている「近江八景」や「金沢八景」より先のものとして「博多八景」があることを知りました。これは漢詩集『鈍鉄集』に収められたものだというので、その内容を福岡市立博物館の記事から調べてみると次のようなことでした。
 「博多八景」は鎌倉時代末期、聖福寺(しょうふくじ)の禅僧鉄庵道生(てつあんどうしょう)が、香椎暮雪(かしいぼせつ)」に始まり、「箱崎蚕子(はこざきさんし)」、「長橋春潮(ながはししゅんちょう)」、「荘浜泛月(しょうはまはんげつ)」、「志賀独釣(しがどくちょう)、「裏山秋晩(うらやましゅうばん)」,「一崎松行(いっさきしょうこう)」、「野古帰帆(のこきはん)」の博多の八つの風景を七言絶句の漢詩に詠んだもので、後の「近江八景」(注1)や「金沢八景」の先駆けとなったものです。しかし、この時期の「博多八景」は禅の世界にとどまり、一般には広がることがなかったのですが、1765(明和2)年に成立の『石城志(せきじょうし)』では、「博多八景」は、「濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)」、「箱崎晴嵐(はこざきせいらん)」、「分杉秋月(わけすぎしゅうげつ)」、「奈多落雁(なたらくがん)」、「博多帰帆(はかたきはん)」、「横岳晩鐘(よこだけばんしょう)」、「竈山暮雪(かどやまぼせつ)」、「名島夕照(なしませきしょう)」となり、鉄庵道生の「博多八景」とは場所も景色も随分と異なり、江戸時代の八景は空間的に広がり、種々の「博多八景」と題した漢詩や絵画がつくられ、更に「博多十景」なども作られるようになって人々の間に広く普及していったようです。
 以上のほか日本各地には多くの八景があり、全国400か所以上に八景が存在するといわれており、その一例を挙げてみると、「小名浜八景」、「甲斐八景」、「多摩川八景」、「勿来八景」、「別府八景」、「室蘭八景」、「新日本八景」(注2)などです。
(注1)「近江八景」は、『瀬田の夕照』、「石山の秋月」、「粟津の晴嵐」、「三井(みい)の晩鐘」、「唐崎(からざき)の夜雨」、「比良の暮雪」、「堅田(かたた)の落雁」、「矢橋(やばせ)の帰帆」の琵琶湖南湖の八景をいい、多くの文人墨客達によって詩歌や絵画に表されましたが、中でも安藤広重の「近江八景」によって全国的に広く知られるようになりました(別添の第19回全国育樹祭錦絵葉書"近江八景"参照)。
 なお、これまでは、この八景図を考案したのは、室町時代後期の関白近衛政家として『国史大辞典2』などでは紹介されていましたが、京都大学大学院の鍛冶宏介非常勤講師が江戸初期の寛永元(1624)年に儒学者菅得庵が表した「八景和歌(琵琶湖)」(伊勢神宮蔵)の中で近江八景を詠んだ和歌8首を発見、得庵が「これら近江八景の題材の和歌は、三藐院近衛信尹公(さんみゃくいんこのえのぶただ、永禄9(1565)年〜慶長19(1614)年)が「膳所(ぜぜ)城」からの八景を眺望して紙に写し、城主に賜れた」と記録していたことを突き止めました(京都新聞・平成24(2014)年9月24日)。これにより、「近江八景図」の始まりは室町期ではなく、江戸初期で、その創始者が三藐院近衛信尹公である可能性が濃厚であることが実証されたようです。このことにより、近江八景が琵琶湖南部に集中しているのは、膳所城を中心とした琵琶湖の景色であったことが判明しました。同様の見解は後述する居駒永幸明治大学教授が『富並八景の文化史 故郷の発見・郷土の発見』において述べています。
(注2)1927(昭和2)年に、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社主催、鉄道省主宰で、一般からの投票をもとに最終的には当時の名士によって審査選定されたもので、次表のとおりとなります。なお『新日本八景』という本も出版され、それぞれの紀行文が掲載されているそうです。
部 門 景 勝 地 紀行の作者 部 門 景 勝 地 紀行の作者
海岸 室戸岬 田山花袋 山岳 温泉岳(雲仙岳) 菊池幽芳
河川 木曽川 北原白秋 瀑布 華厳の滝 幸田露伴
渓谷 上高地 吉田絃二郎 温泉 別府温泉 高浜虚子
平原 狩勝峠 河東碧梧桐 湖沼 十和田湖 泉 鏡花

《山形県における八景について》
「富並八景」
 2012(平成24)年、村山市出身で明治大学教授(日本古代文学が専門)の居駒永幸(いこま ながゆき)先生が『富並八景の文化史 故郷の発見・郷土の発見』を著わされました。教授は民俗学にも造詣が深く、本書では富並八景の成立背景や歌の解釈などを平易に解説してあります。
 この書の書評をされた村山民俗学会会長の野口一雄先生によると山形県内にも上山や寒河江,河北など各地に「八景図(和歌)」が確認されているそうですが、そこに村山市富並に伝わる八景が加えられることになったわけです。その「富並八景」と詠まれている和歌は次表のとおりです
富並八景          和                歌
八森の暮雪 八森の高根を見れハ真白に雲間も晴れて雪そ残れる
梺坂(ふもとさか)の夜雨 旧跡の名高く茂る一ツ松幾千代かけて年を経ぬらん
川原橋の夕照 黄昏や行来の人も道急ぎ袖ふり違ひわたる長はし
片倉の落雁(らくがん) 鬼甲(筆者注記:おにかぶと(富並城のこと))腰まきなひきき羽を
揃ひ片倉さして落るかりかね
隼の晴嵐 東風吹はいと涼しきや隼の鳴瀬きこゆる白なみの音
境の目の真帆 花やかに八重九重に建ならひ風に任せてのほる真ツ帆
田道山の晩鐘 萬世も豊かにすめる耕作の田面(ともて)にひゝく道田の晩鐘
下中山の秋の月 むべや人心のそこも曇りなく正しき胸につきは澄むなり
 作者は名主の筆取(書記役)の桜林舎 五保(おうりんしゃ ごほう)(本名は岩吉)という人物です。1835(天保6)年に発案ができたと教授は述べていますが、五保が京都との往来で「近江八景」を知り、その画題を通して富並の風景を佳景としてとらえたものと推論しています。
 最上川三難所に近い村山市富並は、信仰の山・葉山への登拝路筋に当たり、江戸時代には参詣者が街道を行き交いした地域で、また、最上川からは種々の文物がもたらされ、文化水準の高い地域であったと思われます。
「その他の山形県の八景」
 居駒教授によると、八景文化には、「瀟湘八景」とそこから生まれた「近江八景」との二大潮流があり、江戸時代前期には公家・武家・禅僧などの文人絵師を担い手として諸国にも普及し、そこに漢詩や和歌が添えられてゆく芸術の一様式が生まれ、「金沢八景」、「松島八景」などがそれに該当するとしています。その後百十数年間は沈滞しますが、江戸時代後期になると、旧来の武士や学僧に加えて、浮世絵風景の「近江八景」を契機に担い手に庶民層が現れ始め、再度、八景文化のうねりが地方にまで広がったとしています。山形県に残っているものも風景画と漢詩、漢詩と和歌が一体なもの、八景和歌だけ、或いは俳句だけのものなど様々なものあるそうですが、教授が『富並八景の文化史 故郷の発見・郷土の発見』の中で紹介しているものの一部を纏めてみると次表のようになります。
時代 名 称 説       明 八        景
江戸以前 慈恩寺十景詩 正応年間(1288〜1292)以後、天文年間(1532〜1555)頃までの間の成立と推定。瀟湘八景の画題に依拠しつつもそれにとらわれない自由な詩題選定が見られる。詩題のもとにそれぞれ七言律詩書きされている。 白山暁月(はくさんぎょうげつ)・新山紅葉・清水納涼・桜沢落花・禅定残雪・聞持院晩鐘(もんじいんばんしょう)・陳峯牧(人望牧童)童・雷淵暮雨(かみなりぶちぼう)・醍醐渡船(だいごとしゅう)
江戸前期 米陽(べいよう)八景 元禄8(1659)年の作。米沢の佳景8カ所の絵に地名と景物の画題を墨書し、漢詩と和歌を添えて一巻としたもの。米沢の絵師が八景図を描き、当時江戸詰めの秋涛子(しゅうとうし・伝未詳)が和歌を添えた。瀟湘八景を規範としている。 白子(しろこ)晩鐘・落合落雁・成島夕照船・船坂帰樵(ふなさかきしょう)・遠山暮雪・堂森秋月・舘山青嵐・宮井夜雨
寒河江八景 正徳2(1712)の作。漢文の序文の後に、題と和歌が記されている。作者は寒河江の人で班良軒水故子(はんりょうけんすいこし・伝未詳)。 沼川霞・平野山残雪・高瀬山早蕨(さわらび)・本楯渡船・落裳野雲雀(おとものひばり)・満徳院晩鐘・長岡山躑躅・総持寺稲荷
同 上 正徳5(1715)の作。漢文の序文の後に、題と和歌が記されている。作者は寒河江の人で班良軒水故子(はんりょうけんすいこし・伝未詳)。 橋本旅館・澄江川根上がり松・日遊山(本願寺)匍松(にちゆうざんはいまつ)・舟橋川放生(ふなはしかわほうじょう)・蓮沼?〈はすぬまあまごい〉・堀江川姥石・万海清水納涼(ばんかいしずんぽうりょう)・石川霧中橋(いしかわむちゅうばし)
狩川八景 享保11(1726)年、見竜寺の万月(ばんげつ)和尚の作で、八景の題のもとに俳句を書いて扁額に仕立て、山居の地蔵堂に奉納した。 館山の月・滝沢の夜雨・山居の晩鐘・中棚の帰帆・大釜の落雁・玉坂の暮雪・中山の晴嵐・山崎の夕照
江戸後期 丹泉(赤湯)八勝 寛政11(1799)年、上杉鷹山が赤湯の八勝を撰び、家臣の儒学者に作らせた漢詩を絵に書き添えた画巻。絵は目賀田雲川(めかたうんせん)が描いた。 雲夢楼・白竜湖・觚堂(こどう)・洞松寺(東正寺)・駁嶺(はくれい)・鳥路阪(鳥上坂(とりあげざか))・津田(しんでん)・金沢
糠野目八景 寛政8(1796)年から文化8(1811)年の間に八景歌の画巻をつくったとされ、選定者は、米沢藩士で糠野目御役屋将(ぬかのめおやくやしょう)の千坂宮門高始(ちさかきゅうもんたかとも)。 白山暮雪・山王夜雨・下野(しもの)晴嵐・舟蔵(ふなぐら)帰帆・旧寺(きゅうじ)晩鐘・鶴巻落雁・橋場夕照・屋躰(やたい)秋月
上山八景 江戸後期と思われるが作者など不詳。名所の由来を含めて説明がある。 月岡の晴嵐・湯の上の(湯の神の)秋月・矢来の夕照・石崎の夜雨・西光寺の晩鐘・土山の落雁・小泉橋の暮雪・眉川(まゆかわ)の帰帆等なり
 以上の他、居駒教授の『富並八景の文化史 故郷の発見・郷土の発見』の中には庄内地域のものとして「酒田十景」(筆者加筆:本町通景・鶴田口雪・高野浜船・向海寺月・新井田橋・妙法寺鐘・谷地田稲荷・日和山眺望・山王社雨・山王桜)が出てきます。「出羽十景都邑会(とゆうかい)」の「酒田十景」の解説によれば、「酒田十景」は、酒田の五十嵐仁左衛門が版元になって、町絵師五十嵐雲嶺(うんれい・生没年嶺不詳)に描かせた木版画で、文久年間(1861〜1863年)に発行され、絵に俳句や和歌が書き添えられ、酒田土産として用いられたものということです。

《大泉八景和歌について》
 居駒教授の著書には、鶴岡にかかわる八景の紹介がなかったので、あれこれ文献を漁ってみたところ、『大泉叢誌(たいせんそうし)第一集及び第三集』に「大泉八景和歌」の記載があることを知りました。
 大泉叢誌』は、江戸時代後期に庄内藩士坂尾宗吾(さかお そうご;宝暦13(1763)〜嘉永4(1851))・万年(ながとし;天明6(1786)〜文久3(1863))・清風(きよかぜ;文化5(1808)〜弘化2(1845))と、父子3代にわたって編纂されたもので、"郷土の歴史と文化、民俗を知る必携の一冊"とも"江戸時代の庄内百科叢書"ともいえる古書の集大成です。全139巻あり、そのうち重要な事項を収めた巻を適宜選び、鶴岡市文化資源調査保存事業の一環として、鶴岡市教育委員会からの助成により、公益財団法人致道博物館が編集・発行しており、平成29年現在、第四集まで刊行されています。
 その第一集の133頁から134頁及び第三集の284頁から286頁にかけて当該八景和歌にかんする記述がありましたので、以下に紹介することにします。
 一集には「此の巻の本書は予が家の蔵なり。重行ハ今の長山伝兵衛が先祖にテ、当今の長山小路に住居の人也」と、第三集には「加筆(坂尾氏所蔵也) 長山重行・正盛 長山伝兵衛祖也。昔ハ今ノ長山小路ニ住居セン故、今ニ其跡あり」とあり、また、いずれにも「河瀬菅雄添削」と記載されています。
大泉八景和歌
 最上川夜雨
    雨ふれバ夜渡る月も稲ふねものぼりかねたる最上川かな
    最上川柳の糸の夜の雨につなぎかねたる岸のいなぶね
 袖浦夕照
    夕日影さすや入り江の浪の面(も)にくれないにおう袖の浦風
    しら波もあらぬ色にぞ寄りかえる夕日をたゝむ袖の浦かぜ
  浜中落雁
    我影を友とや見つるはま中の真砂に下る雁の一行
    浜中におりゐる雁の玉づさ(筆者注記:玉章;手紙・便り)ハいく夜へだつる便(たより)なるらん
  加茂帰帆
    浪にきへなぎさに見えて水鳥の加茂のすさきに帰る釣舟
    吹送る加茂のうら風たかけれバ雲路を帰る波のつり舟
  鳥海暮雪
    鳥のうミにたつしら浪と見ゆるかな夕べハ雪を空にまがえて
    ふく風に雲の浪たつ鳥の海の夕ぐれをそき峯の白雪
  羽黒晩鐘
    羽黒山みねのあらしにさそわれてふもとに送るいりあいの鐘(筆者注記:夕暮れの鐘)
    淋しさも月待ほどハ慰ミぬはぐろの山の夕ぐれのかね
  月山秋月
    秋といえバ空もひとつに月の山名さへうれしくすめる夜半哉(よわかな)
    いつハあれど空の名残ハ秋の夜の光り明け行(ゆく)月の山のは
  金峯晴嵐
    金がみねあをげバ高き山風に浮世の雲のはれぬ日ハなし
    くまもなく光りを添ふる金が峯ハあらしの風や磨くなるらん
  (以下の「名所古歌」は省略)
 以上が「大泉八景和歌」ですが、「近江八景」や「富並八景」などとは異なり、一つの景に対して2首づつ和歌が詠まれています。これは、重行、正盛がそれぞれ1首ずつ詠んだものです。それと、上記の「袖浦夕照」に関してですが、『大泉叢誌』第一集において袖の浦については、「南ハ田川郡、北ハ飽海郡也。最上川の海へ入る所を銚子口といふ。此両端のまさご地、左右へ指出たるハ両袖に似たり。仍て名とす。」とあり、別項「山控(大泉百談)抄」の「地之部」には、「袖の浦船渡し,間敷八百間余あり。但し俗、袖の浦とハ唱へずして宮の浦といふ。」とありますので、ここでいう「袖の浦」は、現在の最上川河口の「宮の浦」を指すのだと思います。

《大泉八景和歌の詩題について
 「大泉八景和歌」でも「近江八景」と同様に夜雨、夕照、帰帆、落雁、暮雪、晩鐘、秋月、晴嵐を詩題として八景を選定し、詩題にふさわしい対象として、鳥海、羽黒、月山、金峰の山々、水景としては、大河の最上川、河口の袖浦(宮の浦)の2か所、それに砂浜として浜中、岩礁地帯にある港として加茂港が名勝地として選定され、それぞれ2首の和歌が詠まれています。ただ、『大泉叢誌』には、これ以上の記述がないので、次の事柄について承知したく、鶴岡市立郷土資料館の秋保 良さん(昭和43年卒)にお尋ねすることにしました。
@ 大泉八景和歌はいつ頃詠まれたものか。
A またどのような目的で読まれたものか。
B 作者重行と並列に掛れている正盛とはどのような人物か。
C 添削者として名前がある河瀬菅雄と重行はどのような経緯で知り合い、この和歌のどの部分を添削したものか。
D 以上にかかわる史料がればお願いしたい。
 これに対して10日ほどして回答をいただきましたので、これと手持ちの『新編 庄内人名辞典』や『大泉俳諧叢書』などを基に『大泉八景和歌』について纏めてみることにします。

《長山重行について》
『新編 庄内人名辞典』や『大泉俳諧叢書』や『玄々堂叢書 巻1』などによれば、長山重行は、庄内藩士で、本名を長山五郎右衛門重行といい、重行は俳号であるとなっています。重行の祖先(祖父)は伝兵衛といい、父もまた伝兵衛といいました。祖父の伝兵衛は最上浪人でしたが、庄内に入部した酒井忠勝に禄150石で召し抱えられ、荒町裏の曹洞宗證玉山大昌寺の脇小路に居住したといいます。俗に長山小路といわれるところです。
 重行の出生の年月が不詳ですが、延宝6(1678)年ごろ中間支配(ちゅうげんしはい)、貞享4(1687)年から元禄7(1694)年まで大工改め役、その後京田通代官(農官)を勤めたとあります。また、初めは和歌を学びましたが、後に俳諧に転じたとあります。それは、江戸深川の芭蕉庵の側の小名木川沿いに庄内藩の下屋敷があり、重行はそこに勤務していた関係で芭蕉の門下生となったからです。
 ところで、芭蕉が江戸へ下ったのは延宝3(1675)年で、当時は「桃青」と名乗り、延宝6(1678)年になって桃青は宗匠(師匠)となって職業的な俳諧師となったといわれています。そして、芭蕉が深川に居を移したのは、延宝8(1680)年ですが、天和2(1682)年12月に芭蕉庵焼失のため翌年5月まで甲斐谷に流寓し、貞享元(1684)年8月から翌年4月までは「のざらし紀行」の旅で再度江戸深川を留守にしています。西行500回忌に当たる元禄2(1689)年には、「奥の細道」の旅に出ますので、これらの芭蕉の足跡から見て、重行が芭蕉の門人となり、俳諧を学んだのは延宝6(1678)以降の天和(1681〜)、貞享(1684〜)、元禄(1688〜)、宝永元(1704)〜、宝永4(1707)年の間だと推定できます。なお、重行が芭蕉の門人となり、俳諧を学んだ縁で、元禄2(1689)年6月、芭蕉が奥の細道行脚で来鶴した際、自宅に招いて3泊させ、同好の人々と俳諧を楽しみました。「めずらしや山をいで羽の初茄子」の句はその折の芭蕉の句として有名です。

《長山正盛について》
 重行と共に『大泉八景和歌」に名を連ねている「正盛」についてですが、庄内藩士の安倍親任(あべ ちかとう;文化9(1812)〜明治11(1878)の『筆餘附録 巻5」に、「大泉八景」として上記の16首の和歌が載っていますが、ここでも「長山重行」の脇に「正盛」とあるのみで特に彼について説明はしていません。ところが、『大泉俳諧叢書 巻1』の「於保伊津美 巻1」の芳風舎古梅編、玄々堂主人補による「大泉風土古今略伝」の「重行」の項の末尾に、「子定八郎、俳名竹行、俳諧を能くす。延享12(1744】に没す。」とあり、また、「長山重行の周辺」では、「子息定八(俳号竹行・竹江)は延享2,3年頃に死去しているようである。法号、覚外了元居士。」とあって、「定八郎」と「定八」、死去の時期が「延享12」と「延享2,3年頃」との違いがあるものの、俳名(俳号)が一致するところを勘案すると重行の子息の定八郎(あるいは定八)の実名かと思われます。更に、「長山重行の周辺」には、「重行が与力町に何時迄住んでいたかは明らかではないが、「元禄9年鶴岡城下大絵図」によると、元禄(1696)年には、子息定八(貞八、定八郎)の名前で家中新町(の大督寺裏の)経蔵小路に移ってきている。」とあり、『新編 庄内人名辞典』にも「重行の子貞八も俳句をたしなみ竹行と称した」とあるので、「正盛」は重行の子息であることはまず間違いないと思います。
 ただ、彼が和歌を詠んだ史料は発見されず、『酒田市立光丘文庫俳書解題』と「長山重行の周辺」に竹行の作品として、「瀬まくらに船ゆらせて涼哉」(三日月日記、享保15)、「染まる山は残る暑さの別れから」(袖土産)、「日和にも散りて悲しき柳かな」(名の筐、享保18)の三つの俳句が紹介されています。
 それなのに「大泉八景和歌」の作者として、重行、竹行の本名と思われる正盛の名前が連記されているのはなぜでしょうか。恐らく父と同様に当初は和歌を学んでいて、後に和歌に転じたものと考えられ、八景ごとにそれぞれ2首の和歌が詠まれているのは、父と子、すなわち重行と正盛が同一場所について一首ずつ詠んだものと思われるのです。
《河瀬菅雄について》
 『大泉叢誌』掲載の「大泉八景和歌」は河瀬菅雄が添削したとあるのですが、この河瀬菅雄という人は、『朝日日本歴史人物事典』の解説によると、生年が正保4(1647)年、没年が享保10(1725)年となっており、号を酔露と称しました。京の人で元禄期前後の京阪の地下歌人(じげかじん・筆者注記:庶民歌人の意)として代表的な存在でした。特に天和2(1682)年刊の『ふもとの塵』は有名無名の当代歌人の詠を配列した類題選集(筆者注記:和歌、連歌、俳諧を主題や季題などで分類したもの)として意義があり、菅雄の指導者としての面目を知りうるとされ、また、『増補和歌道導』、『まさな草』(元禄3(1690)年)などの実用的歌学書も広く迎えられました。未完の歌学秘伝書の類も多く、歌集は『酔露軒和歌集』があります。同様の説明は『和歌・俳諧人名辞典』にもありましたが、重行との関係や大泉和歌八景における河瀬の添削個所などは史料がなく解明できませんでした。
 河瀬菅雄は、元禄期前後の京阪の地下歌人だということなので、重行が江戸勤務中に添削を受けたのではないかと思われるのですが、その際、重行が京まで出向いたのかあるいは菅雄が江戸まで来たものか、はたまた書簡の往来で済ませたのか、この辺のところも解明が不可能でした。

《大泉八景和歌はいつ頃どのような目的で詠まれたのかについて》
 郷土資料館の資料によれば、『大泉八景和歌」は、『落葉掻』(阿部正巳資料203)にも載っているそうですが、成立年代は記されていないそうです。畠山カツ子著の「長山重行の周辺」(『方寸 第8号』(昭和63年11月10日発行)には、「寛文7(1667)年刊行の『続山井』には、「貞徳、守武、一笑、伊賀の蝉吟、松尾宗房(芭蕉)と共に未覚、重行の名がある。また、延宝9(1681)年刊「東日記」、天和2(1682)年刊「松島眺望集」には、清風、風流、未覚、玄順、重行はじめ、山形県内の俳人の名が多くみられる。」とあって、『続山井』の「菊の淵に人魚も踊る酒宴哉」という重行の作品が初見で、また、『酒田市立光丘文庫俳書解題(筆者加筆;「解題」とは、特定の図書についての説明のことです。)』の「於保伊津美 巻1」に「姓長山、仮名五郎右衛門、藩中歌人也、…東都在勤の折、深川芭蕉庵に遊ひし所縁によって翁奥行脚(おくの細道この紀行也)の節・・・』とあって、俳人であることを説明し、俳句を紹介しているのですが、俳諧を始める前の時期に和歌を学んだとあるものの、重行の和歌についての記述はどの資料にも見当たりませんでした。
 先に、《日本における八景について》の(注1)でも述べましたが、『富並八景の文化史 故郷の発見・郷土の発見』でも「近江八景」は、その八か所を選定し、水墨画に和歌の賛を題したのは(水墨画に和歌を添えたのは)、三藐院近衛信尹公とされており、江戸時代前期には人々の広く知る所となっていた。」とあります。従って、「大泉八景和歌」の作者の長山重行も江戸前期に藩の下屋敷勤務の経験があるところから、江戸在勤中に「近江八景」のことを熟知しておったものと考えられるのです。
 その目的ですが、『大泉叢誌 巻18』の解題に「芭蕉の門人で、和歌をもよくした長山重行が、庄内の名所を近江八景になぞらえて詠んだ和歌である。併せて、庄内の歌枕を詠んだ平安・鎌倉期の公家の「名所古歌」を収録する。」とあって、やはり「近江八景」の影響を深く受けて「大泉八景和歌」を詠んだことがわかります。
 「大泉八景和歌」を添削した河瀬菅雄は、生年が正保4(1647)年、没年が享保10(1725)年であり、前述のとおり「天和2(1682)年刊の『ふもとの塵』は有名無名の当代歌人の詠を配列した類題選集(筆者注記:「類題選集」とは、和歌、連歌、俳諧を主題や季題などで分類したもの)として意義があり、菅雄の指導者としての面目を知りうるとされ、また、『増補和歌道導』、『まさな草』(元禄3(1690)年)などの実用的歌学書も広く迎えられた。」とあること、また、重行が没するのは、宝永4(1707)ですから、これらのことを勘案して「大泉八景和歌」が詠まれ、添削を受けた時期は、延宝(1673〜)、天和(1681〜)、貞享(1684〜)、元禄(1688〜)、宝永元(1704)〜、宝永4(1707)年の間ではないかと推定されますが、残念ながら特定することは叶いませんでした。

《大泉について》
 ところで、「大泉八景和歌」の「大泉」についてですが、山形県のホームページでは次のように説明していますので、これから「大泉八景和歌」は、「庄内八景和歌」と読み替えてもいいと思います。
 山形県の日本海に面した地域一帯を称する「庄内」または「荘内」という地名の起こりは、中世この地域にあった、「遊佐」、「大泉」、「櫛引」の三大荘園のうちで最も栄えた「大泉荘」に由来するのが定説と言われ、この「荘園の内側」、すなわち「大泉荘」をもって、「庄内」と呼ぶようになりました。
 平安時代の末期、赤川流域一帯は「大泉荘」と呼ばれ、後白河法皇の所有する荘園でした。その後、鎌倉時代から室町時代にかけ武藤氏が地頭となり、天正年間(16世紀半ば)あたりから「庄内」という呼び名が定着したと考えられています。

《まとめ》
 色々な資料に当たってみましたが、「大泉八景和歌」の作成時期を明確に特定できませんでした。また、和歌を添削した河瀬菅雄と重行がどこで出会い、どのような経緯で、どこを添削したのか、なども解明することが出来ませんでした。作者として並列に記されている「正盛」なる人物については、重行の子息に間違いないと思われますが、大泉八景和歌以外に重行や正盛が詠んだ和歌を見つけ出すことが出来ませんでした。更に、この和歌に水墨画とか版画などが添えられていたのか、どうかも解明できませんでした。
 以上のように解明不十分なところもありますが、庄内には「大泉八景和歌」とほぼ同時期に「狩川八景(俳諧)」が存在したこと、今回は調査をしませんでしたが、類似のものとして禅仲和尚の「苗津八景」というようなものもあることを知り得ることができました。
 終わりに拙稿を纏めるに当たって、鶴岡市立郷土資料館の秋保 良さん(昭和43年卒)から数多くの教示と資料の提供をいただきました。この場をお借りして衷心より御礼申し上げます。

《追記 長谷堂八景(俳軸)について》
 当該拙稿脱稿後、村山民俗学会会長をされておられる野口一雄先生からのご教示をいただき、山形市長谷堂に「長谷堂八景(俳軸)」(明和3年(1766年))があることを知りました。そこで、会報『村山民俗学会』(2012.11.1)より抜粋してその内容を紹介します(軸は、長谷堂城、菅沢丘陵,本沢川と本沢川に沿った本沢集落が描かれており,その画の上部に以下の長谷堂八景序と句が縦書きに記載されています。)。
長谷堂八景 序 此里なる長澤氏幽吟老人、此御山を尊信するの餘り、辺近き佳境を近江の八の眺に擬して大悲閣(筆者注記:観音堂のこと)に奉納せん事を思ひ立たれしが,其事成らずして世を去られしなり、埋木の人しれず星霜を経たりしを、其子なる亀友のぬし、其父の志を継ぎてふたたび詞林(筆者注記:詩人の仲間のこと)の友をすすめ、つゐに一輪の主とハなりぬ、されバ城山の秋の月ハ元より石山の光をわかつて、須川の水に宿らんにハ、爰も琵琶湖の波静かに大森の風の便にハ三井寺の鐘のひびきも遠からず、恵日の夕照諸閣を破し、甘露の法雨の夜のミならで蒼生をめぐミ給ざらんやと、我も法楽の野章をつづけ侍るが、此よしを端書せよと亀友子が求めに応じて拙き筆をとることしかり
明和丙戌春三月  淡井舎風五○印
法楽 誰たのめ蝶鳥も此花の陰  風五
八景
城山秋月 城跡の名のミゆかしや松の月  以川
清源寺晩鐘 大森や若葉をもれて暮のかね  露英
龍山青嵐 凩(筆者注記:こがらし)の跡のけしきや瀧のやま  亀友
祐善夕照 ゆふぜんに染めて夕日の紅葉かな  東籬
窪手落雁 峯幾つこへてくぼてに落る雁  京亮
四森暮雪 市人の戻りやいつもくれの雪   保清
西養寺夜雨 涼しさや是も他力の夜の雨  古人幽人
須川帰帆 稲刈や穂にほを積てわたし舟  仝
大尾
        亀友の主亡父の志を継て此一軸を思ひたゝれしが、其功成りてすでに大悲閣に掛けんとして、後に句を乞へるに、廃れるを興す至孝深く感じて侍りて
夜さくらや有難の月の光添ひ   雨聲庵 山皓
(注) 「法楽」とは、神仏に奉納する和歌などのことで、「大尾(だいび)」とは、終わりの意味です。

2018年3月23日