常念寺の日本最古の「塔時計」について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 6月10日は「時の記念日」です。今年も6月12日の山形新聞は次のような記事を掲載しました。
 刻み続けて138年 日本最古の大時計 園児が見学・鶴岡
 「時の記念日」(10日)にちなみ、鶴岡市の常念寺保育園(渡辺嶺子園長)の園児が11日、園に隣接する常念寺(渡辺成就住職)で138年の時を刻む日本最古の大時計を見学し、時間や物の大切さを学んだ。
 0〜6歳児の計156人が寺を訪問。渡辺住職から時計の歴史について聞いた後、横の扉から内部を見たり、触ったりして楽しんだ。年長の小林結羽里ちゃん(6)は「自分よりも大きい時計でびっくりした。とても昔から動いていてすごい」と話していた。
 大時計は高さ約2メートル、文字盤の直径約1メートル。1880(明治13)年、当時国内最高の時計技術者と言われた金田市兵衛とその弟子が作った。旧西田川郡役所の時計塔に使われていたが、振り子が風の影響で止まることが多く、常念寺に譲渡された。 
 記事にある西田川郡役所は、1881(明治14)年5月に落成、この年9月明治天皇御巡幸があって「行在所」となりました。設計・施工は大工棟梁高橋兼吉と石井竹次郎が当たり、バルコニー、時計塔がついた木造2階、両翼1階建てで高さ20メートルのルネッサンス様式を取り入れた擬洋風建築です。
 1969(昭和44)年に国の重要文化財に指定されたのですが、現地での保存が困難なことから1972(昭和47)年9月に致道博物館の敷地内に移築されています。1922(大正11)年まで使用されましたが、郡役所廃止後は鶴岡市に移管され、田川地方組合病院事務所、西田川郡農会、鶴岡市農会などに使用された後、1943(昭和18)年から1969(昭和44)年まで山形県田川地方事務所として利用され、地域行政の核として機能しました。
 建設当時の塔時計は、1780(明治13)年に当時国内で最高の時計技術者と言われた金田市兵衛とその弟子である木部正直が共同作成したもので、国内最古のものといわれています。しかし、日本海からの強風が吹く当地では、振り子に負荷がかかり、そのたびに振り子が止まるために取り外され、1885(明治18)年ごろ常念寺に移されました。
 西田川郡役所に取り付けられたこの時計は、1881(明治14)年上野公園で開催された「第2回内国勧業博覧会」に金田が出品し入賞(進歩2等賞牌)したもので、その後、金田の指示により木部が東京からこの時計を運んで、当該郡役所の時計塔に据え付けたといいます。この木部正直(きべ まさなお)について、どのような人物なのかを『新編 庄内人名辞典』で調べたところ、次のように記述していました。
 生没年は不詳。飛騨高山の人で、はじめ櫓時計師を業とする。明治維新後東京に出て日本橋の宮内省時計御用達金田市兵衛の弟子となり洋式時計製作の技法を学んだ。明治13(1880)年5月明治天皇の東北巡幸に先がけ金田から派遣されて来鶴、馬場町に新築の西田川郡役所楼に最新式塔時計を取り付ける作業を指導する。正直は卓越した技術をもち、時計の分解修理に灰汁汁(あくじる)を使っていたこれまでの方法を改めて揮発油の使用を普及させたといわれる。また、小池藤次郎(筆者注記:薬舗ゑびす屋店主)らに勧められて、生活の保証を条件として鶴岡に定住し木部家の婿養子に入る。その後、三日町に木部時計店を開いたが、名人気質のため商売振るわず、明治24(1891)年ごろ東京に去ったといわれる。
 ところで、北石照蔵という人の「お気楽極楽」の記事によると、常念寺に移ってきてからの大時計は通夜を問わず時鐘を合図に時を知らせていましたが、第2次世界大戦終戦後に故障により止まってしまいました。そして、修理をする人がおらず、そのまま止まったままの状態で置かれていましたが、昭和58(1983)年3月、鶴岡市日吉町で「アラキ時計店」を営んでいた荒木克俊さん(当時35歳)は、ある人物からその腕を見込まれ、この時計の修理を依頼されます。
 荒木さんは1ケ月近く寺に通い、修理に専念したそうですが、やがて錆の落とされた機械の一部から作者や製作年月日を示した刻印を発見します。それには、「I・KANEDAによってつくられた。日本の東京で、2540―5月」と英語で記載されており、これによって作製の経緯がはっきりと証明されました。
 そして、「日本古時計保存協会」に照会したところ、この時計は皇紀2540(明治13)年、金田市兵衛の作であることが立証されたのです。因みに「皇紀」というのは「神武天皇即位紀元」といい、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法のことをいいます。西暦よりも古く紀元前660年が皇紀元年となります。
 しかし、荒木さんが亡くなった後は、維持管理することが出来ず再度止まってしまいましたが、2004(平成16)年より、札幌時計台に次いで2番目に古い旧山形県庁(現文翔館)の時計塔の管理をしている山形市三日町の桝谷時計店主・桝谷二郎さんの修理によって再び動き始め現在に至っています。
 このあたりの経緯については『聞き書き 文翔館 時計塔ものがたり』において桝谷さんが次のように 述べています(一部省略)。
常念寺の時計
 ・・・(西田川郡役所にあった時計は)文翔館の時計よりやや小さめで、文字盤の直径が90センチメートルで一面ものです。今は鶴岡市の常念寺という寺にあります。常念寺は大きな寺で、鐘つき堂もあり、戦時中までは時報を知らせていたようです。普通の所には大きすぎて置けないので、その寺で引き取ったのでしょう。鶴岡市内のある時計店で手入れをしていたようです。
 ある日私のところに電話があり、「文翔館と同じ型の時計だが直していただけないか」と言うことでした。・・・依頼があって私が出向いて分解修理をしたら直ったんです。現在ではちゃんと動いています。・・・
 また、その時計は日本人が作った塔時計です。製作した人は金田市兵衛という人です。昔は時計屋とは言わないで、時計師といいました。その時計には、作った年号が記されてありました。今の西暦ではなく皇紀で記してあるんです。どうやら明治10年頃作られたようです。住職は、それを見て、はじめはなんだかわからなかったということです。
 そんなエピソードがありました。
 以上のような経緯があったことにより鶴岡市は、この時計を昭和59(1984)年6月1日に、鶴岡市指定有形文化財「歴史資料の部・旧西田川郡役所 塔時計」として指定しました。
 更に、「日本古時計保存協会会」会長の戸田如彦(とだ ゆきひこ)氏によると、江戸から明治に入ると和時計師は、幕府のお抱え時計師の任を解かれ、自らの力で生計を立てなければならず、転職に躍起となっていたそうです。
 これらの人々の中には大野規周、田中精助、水野伊和造、大野徳三郎、小林伝次郎、小島房次郎等がおり、明治期に日本で西洋時計を製造したのですが、他に金田市兵衛、金子元助なども、西洋時計製造を志し、明治初期の時計製造に足跡を残したのですが、彼らはそれぞれ進む方向が少し違っていました。
 大野規周、田中精助、小林伝次郎は懐中時計のような小さな時計の技術を海外で習得して帰国しており、これの技術を多くの人に伝授していますが、西洋時計(柱時計のことで、通称ボンボン時計)の製造には関わっておらず、水野伊和造、大野徳三郎、金田市兵衛、金子元助、小島房次郎は、西洋時計の製造に大きく関わっていました。
 更にまた、西洋時計の製造に打ち込むものと、一方、小林伝次郎、大野徳三郎、金田市兵衛のように時計商として日本の西洋時計の販売に寄与するとともに自ら店舗を立ち上げ、海外から西洋時計を輸入し、時計商として成功を収めようとするものも現れます。
 いずれにせよ、彼らは、次代が大きく変わる中、片や時計製造,片や時計販売と進む分野が異なったものの、それぞれが活躍し、変動の時期を逞しく生き、後世に大きな足跡を残したのです。
 明治時代に金田市兵衛が創業した東京・秋葉原の「京屋時計店」本店には、巨大な時計台があって「外神田大時計」と呼ばれ、毎時15分には1回鐘が鳴り、30分には2回、45分には3回、00分には4回時を知らせていたそうです。その後、京屋時計店は銀座の支店にも時計台を設置しましたが、明治の後期、二代目が手を出した銅山事業に失敗し、川崎銀行に売却され、川崎銀行神田支店の建設工事でその時計台も姿を消したそうです。
 1871(明治4)年、岩倉使節団に参加して欧米を視察して帰国した大久保利通は、日本と欧米との産業の格差を目のあたりにし、強兵よりまず富国に力をいれるべし、として殖産興業策に乗り出します。その一つが前述の「内国勧業博覧会」で、この博覧会は5回開催されていますが、金田市兵衛は、会場表門上に櫓型の塔時計を出品して受賞し、前述のように第2回にも塔時計を出品して第1回と同様受賞をしておりますが、この櫓時計は当時の錦絵にも描かれています。
 最後に本稿を纏めるに当たっては、常念寺住職渡辺成就さん(第56回(昭和24年)卒)、加賀山隆士さん(第66回(昭和34年卒))に種々教示を頂戴したほか、『図説 鶴岡のあゆみ』:西田川郡役所、『新編 庄内人名辞典』、『山形の木の文化』(最上村山流域林業活性化センター)、財団法人山形県生涯学習文化財団作成:『聞き書き文翔館 時計塔ものがたり』、鶴岡市ホームページ:鶴岡市指定の文化財、山形県鶴岡市観光連盟ホームページ:致道博物館、公益財団法人致道館ホームページ:旧西田川郡役所文化遺産オンライン、ニコニコ大百科:神田旅籠町とは、どら焼き親父写真館の記事、北石照蔵のお気楽極楽2010年6月、よみがえり「昨日は時の記念日」及び「今日は時の記念日1・2」の記事、日本古時計保存協会ホームページ:明治の時計製造者、内計塔(東京)等を参考にしました。
2018年06月19日