「ニッポンの本屋 今野書店」 |
64回(昭和32年卒) 庄司英樹 | ||
「ニッポンの本屋 今野書店」 書評に聞き覚えのある書店の名前が出てきた。母校の大先輩、英語学者・評論家の渡部昇一氏(56回卒 去年4月逝去)のエッセイに紹介された、我が同級生が経営する書店ではないだろうか。 電話をした。「社長は鶴岡出身ではないですか。近所に住まいしていたあの有名な渡部昇一さんが、同郷の人が経営の書店。品揃えが良いと通っていた書店では?」「はいそうです。先代社長が鶴岡出身です。10年ほど前に他界しました」「おじいさんは山形日産自動車を立ち上げた人?」「そうです」と英治社長の返事が返ってきた。 「今野書店」の先代社長は母校で同じクラスだった今野清さん、昭和43年に東京上野で創業し、6年後に東京荻窪に引っ越した書店であった。彼がなぜ書店を立ち上げたのか。英治社長は次のように話している。「父は祖父から命令され東京・上野に出てきてからいろいろな職業についたようですが、どれも続かず‥‥。ある時『俺は本が好きだから本屋をやる!』と言い出して書店を開業したのです。まあ それまでのエピソードは長くなるので割愛しますが‥」 文藝春秋7月号の書評「BOOK倶楽部」にエッセイストの平松洋子が選者で、「ニッポンの本屋」(本の雑誌 編集部編 2,300円)をとりあげている。 「町の書店が消えてゆくスピードが恐ろしい。今年に入ってから、何十年も馴染んできた書店が立て続けに閉店し、唇を噛んできた。しかし、である。では閑古鳥が鳴いているかといえば、違う」といった書き出しで始まる。 本書は、町の書店34軒の店内風景を写真と文章で紹介するユニークな一冊だ。さすがは「本の雑誌」編集部編、「かもめブックス」の魅力を喝破。本を作る側の視線を交差させ、本書に血のぬくもりを与える。 表紙の親しみやすさに、頬がゆるむ。杉並区西荻窪「今野書店」の朝、エプロン姿の今野社長がシャッターを上げるひとコマ。今年創業50周年を迎えた。「今野書店」は、一階の売り場面積60坪ながら、コミックの次に文芸書の売上を誇る稀有な書店だ。私は開店前9時におじゃましたことがある。今野社長以下、書店員5人が大忙し。発売当日、入荷したての雑誌の付録入れ(書店側の作業と知って驚いた)、棚の空きスペースの補充、新刊書や注文書の配置換え、配達する雑誌や書籍の仕分け‥‥知恵と工夫と体力勝負、仕事の量と奥行きに頭が下がった。 既に他界したという先代社長の清さんとはクラスが一緒だった。東京上野の精養軒で開かれた同期会で卒業後に初めて再会した。4組の出席者は少なかったので彼と話をする時間が長かった。その後しばらくして彼から電話があった。「柏戸の名前の入っている浴衣地があるが、ほしくないか」という。 我々が入学したのは昭和29年、入試直前に校舎が火災に遭ったことから、焼け残った武道場を仕切って応急の教室、入学式は講堂だった。定時制の入学式も一緒で、その中に背丈の突出した生徒が一人いた。富樫剛、後の柏戸であった。やはり躰の大きかった中学の同級生が定時制に入学した。富樫の活躍を見て彼も「月の山」の四股名で角界入りしたが、十両には上がれないまま廃業した。 「柏戸の浴衣?欲しいけど家内がいなくなったので縫ってくれる人がいないから‥」と返事すると「背丈、体つきは俺とあまり変わらないようだから縫ってもらって送る」という。まもなく「清の姉です」という方から電話があり、「鏡山」の名前が染めこんである浴衣が送られてきた。お誂えと書いてあるタトウ紙を開いてびっくり!男の私の目にもはっきりと分かる縫い方・仕上げがしっかりしている。今野家の家風をうかがい知ることができた。袖を通すには畏れ多い気がして今なお大事に仕舞ったままになっている。 英治社長が母から聞いた話は「祖父が鏡山親方と一緒に写真を撮りたいと親方を訪ねた。親方が沢山反物を頂いたので、その一部を祖父に回してくれた」とのことだった。 高校時代から清さんのお父さんは地元では有名な経済人であった。山形市の県庁前(現文翔館)から南下する目抜き通りは、八日町で突きあたるT字路の羽州街道だった。その後に新産業道路として八日町から蔵王・上山に直進する道路が開設しこの新産業道路に沿って山形日産自動車が建てられていた。創業者は今野金次郎さん、清さんの父である。昭和40年初頭、その本社の向かい側に地方にしては度肝を抜く総合レジャーランドがお目見えした。新進気鋭の設計家黒川紀章の若き日の設計による巨大な施設である。 当時の黒川にとっては、まだ首都圏の仕事が少なく、思い切った表現ができるのは、土地に恵まれた地方都市であった。彼はその場を山形に求めていた。寒河江市の日東ベスト工場、寒河江市役所などを手がけて話題になっていた。 先輩同僚に引き連れられて夜の街をさまよい歩いていた頃、カウンター向かいに小奇麗なママさんが立つ店があった。そしていつも一人でカウンターにいる見かけない紳士の姿もあった。「彼があの有名な‥」と噂が立ち、その店は敬遠した記憶がある。 寒河江市役所など黒川紀章の作品に惚れ込んだ今野金次郎社長は総合レジャーランドのデザインを彼に依頼し、壮大な実験場を提供した。プール、水族館、動物園、観覧車、ゴーカート。プールを中心とするドーナツの内側縁を回廊として設計されていた。 完成を記念してこの「ハワイドリームランド」からTVの全国中継があった。リポーターは20歳前後の若き日の桂三枝、いまや落語会の重鎮の六代目桂文枝であった。テレビ制作部門に携わるようになって日が浅い私の担当はFDといわれるフロアディレクター。大きな浮袋に乗せた桂三枝を、中継車の調整室にいるチーフディレクターの指示に従ってプール内を移動して番組を進めていく役割である。2人のFDで泳ぎながら浮き袋を移動したが、三枝の思うようにはならなかった。20歳前後の若さながら既に売れっ子のタレントだったあった彼から「テレビ作りを知らない田舎者!」と叱られた。 このレジャーランドは開放的である半面、悪天候・冬期間には苦労し、冬寒く、夏は蒸し暑いという雪国を知らない有名建築家にすべてを委ねた代償は大きかった。 今野金次郎社長にお会いした記憶がある。風貌、話の内容には本田技研工業の創業者、本田宗一郎の姿に重なるものがあった。本田の名言・格言「新しいことやれば 必ずしくじる。 腹が立つ。だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる」「人を動かすことのできる人は、他人の気持ちになれる人である。その代り、他人の気持ちになれる人というのは、自分が悩む。自分が悩んだことがない人は、まず人を動かすことは出来ない」 「今野書店」には祖父金次郎・父清の経営理念のDNAが受け継がれていた。 参考 ニッポンの本屋(本の雑誌編集部編) Web 「ハワイドリームランド・消えた山形〜黄昏の風景」 Web「西荻窪 さあページをめくろう。町の本屋「今野書店」から始まる小粋な読書」 |
2018年7月19日 |