南洲翁遺訓」薩摩藩邸焼き討ち事件

66回(昭和34年卒) 加賀山隆士
 
 西郷隆盛が芝三田の薩摩藩邸に浪人を集めて、江戸市中の治安を混乱させた。
 庄内藩は、江戸の警備組織新徴組を預かり、江戸の警備を担当していたため1,867年12月25日に庄内藩を中心とする旧幕府側が薩摩藩邸を焼き討ちする事件に発展した。
東北戦争
 1868年5月15日、西郷が率いる薩長軍は上野戦争で彰義隊を破ったが、会津藩は抗戦を続け東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んだ。同年8月23日に東北戦争は鶴ケ城の攻撃で戦塵の火蓋が切られ、9月22日に会津藩は降伏し、庄内藩は官軍を撃退したものの、奥羽越列藩同盟の崩壊に伴い戦闘を継続出来なくなり、9月26日に降伏した。
 庄内藩士は降伏に伴い、薩摩藩邸焼き討ち事件や東北戦争における戦闘を咎められて激しい処分が下されるものと覚悟していた所、予想外に寛大な処置が施された。この寛大な処置は、西郷の指示によるものと、伝わると西郷の名声が庄内に広まった。
旧庄内藩士の鹿児島訪問
 1870年11月7日、酒井忠篤は旧藩士などから成る78名を従えて、また出羽松山藩の15名も別に鹿児島に入り、合計93名は4ケ月滞在し、軍事教練を受けた。
 西郷は1873年の征韓論に破れ下野し、同年11月10日鹿児島に帰った。旧庄内藩士の酒井了恒は伊藤貴継や栗田元輔と共に鹿児島を訪れ、西郷から征韓論について話を聞いた。また、赤沢経言や三矢藤太郎も鹿児島を訪れ、西郷から話を聞いている。
西郷の名誉回復
 1889年2月11日、大日本帝国憲法が公布されると、西南戦争で剥奪された官位が西郷に戻され名誉が回復された。この機会に菅実秀は赤沢経言や三矢藤太郎に命じて、西郷生前の言葉や教えを集めて遺訓を発行することになった。
三矢本
 1890年1月18日に三矢藤太郎を編纂兼発行人とし、東京の小林真太郎を印刷人として、41条からなる「南洲翁遺訓」と題して、秀英社より約1,000部印刷されたものです。その初版本が鶴岡市の致道博物館に収蔵されています。
 今年は明治維新より150年経ち、いろいろの所でイベント等が開催されておりますので、先人の徳を忍ぶのも一考かなと思う昨今です。
2018年09月4日