明治の初め、庄内藩領であった川北の飽海郡が羽前国から消えた

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 明治元年12月7日(1869年1月19日)、明治維新政府は、出羽の国を羽前と羽後の二国に、陸奥の国を陸奥、陸中、陸前、 磐城、岩代の五国に分割しました(その後、ほぼこれに基づき現在の青森県、岩手県、秋田県、宮城県、山形県、福島県が誕生します。)。
 右の図は、その分割状況を『旺文社国語辞典』に掲載のものから撮ったものです(黄色で示した陸中国の左上の部分は、後の現岩手県に、同じく右下の部分も現岩手県に、陸前国の下の部分は、現宮城県に、羽後国の右上の部分にある陸中国は、現秋田県に、羽後国の左下の部分は現山形県に属する地域となったことを示します。)
 戊辰戦争の時、薩長が特に敵の元凶と目したのは、薩長と敵対した会津、庄内と、奥羽越列藩同盟の中心として、この両藩を支えようとた仙台、米沢の四藩でした。
 そこで、陸奥と出羽の両国の中ほどにある庄内と仙台の穀倉地帯を分割するために、仙台藩の北部の豊かな地域を陸中に入れ、南端部を磐城に割き、庄内藩の庄内平野を最上川で二分したのです(左の写真で見る通り、庄内平野の分割状況は、明治14年(1881)5月に内務省地理局が発行した「大日本府県分轄図[新潟・福島・宮城・山形四県図]」でもまだ飽海郡は羽後国に編入されたままです。)。
 つまり、仙台藩からは、北部の文化や経済の拠点であった水沢と一関、及び奥羽越列藩同盟の首都的役割を果たした白石を引き裂き、庄内藩からは庄内藩の命ともいうべき港町酒田を奪ったのです。この時、仙台藩領のうち磐城国となった白石に、南部藩を減封のうえ転封させたのは、藩処断と国分割とが対応していることを示す傍証ともいえます。 また、会津藩は、領地そのものを没収され、明治2年、松平容保(まつだいら かたもり)の長男・容大(かたはる)が、猪苗代か斗南かの自己選択の結果、南部藩が白石に移されたあとの下北半島の斗南(三沢市の北方)3万石の藩として移封されました。然しそこは寒冷地の過酷な条件のところで、人々は苦しい生活を強いられました。その後廃藩置県により斗南県となったものの、その後青森県に編入され、僅か2年足らずで斗南県は消滅しています。一方、米沢藩は出羽の国の端に位置していたので、この分割には影響されませんでした。
 なお、南部藩の場合は一度白石に移ってから嘆願して70万両の償金を払い、また、盛岡に戻ったので疲弊も激しく、廃藩置県を待たずに廃藩に追い込まれました。この往復は過酷で、多くの悲劇を生みました。
【注】  転封を命じられたのは庄内藩も同じですが、庄内藩の場合は、一部の人々が鶴岡の家屋敷を処分して磐城に移り、再度鶴岡に戻ったので、これらの人々は悲惨な目にあいました。なお、明治初期の庄内藩の動向を、平成30年9月13日、阿部博行氏(73回(昭和41年3月卒))講義録、『新編 庄内史年表』、『凌霜史』を参考にしてまとめてみると辞表のようになります。
年  月  日 事                    項
明治元年9月29日

12月 7日

12月15日

12月25日
酒田に民生局設置される。
出羽国を羽前国と羽後国に分割する。
庄内藩主忠篤、城地召し仕上げのうえ謹慎を命じられる。
謹慎となった忠篤に代わって弟徳之助(後の忠宝)が相続を認められる(5万石を削られ、12万石が下賜される。)。
会津12万石へ転封を命ぜられ(翌年5月4日撤回)、旧領地は飽海郡を秋田藩に、田川郡を新発田藩に引き渡すよう命じられる。
明治2年1月29日

6月15日


7月22日


7月24日

8月 5日

9月29日
酒田民生局長官に西岡周碩に任じられる。
庄内藩が磐城平へ転封を命ぜられ、300人の家臣と家族約1万人が移転を始める。
70万両(1石4円として想定して、70万両は175,000石となり、庄内120万石の1.46倍相当の石数に値する)の献金を条件に転封は正式に取りやめとなる。
忠宝が庄内藩知事に任命される。
酒田民生局が廃止となり酒田県(第1次)が設置される。熊本藩士津田三郎が権知事、西岡周碩が大参事に任命される。
庄内藩を大泉藩と改名する(川南301村を統治する。)。
明治4年7月14日
11月2日
廃藩置県の詔書が出され、大泉藩を大泉県と改称する。
大泉県、松嶺県、山形県酒田出張所管轄地が併合して酒田県(第2次)が成立し、飽海郡が管轄地となる(参事に松平親懐、権参事に菅實秀が任命される。)。
 そして、この国の分断と後の府県の設置が連動するはずであったことは、次の太政官布告の中から読み取ることができるとともに、文言の使い方は東北を侮蔑的に見ていることがわかります。
 奥羽ノ二国ハ東陬(とうそう;東の隅の意味。)二僻在シ曠漠遼遠(こうばくりょうえん;果てしなく広く遥かに遠くの意味。)シテ古来ヨリ王化覃治(おうかたんち;君主の優れた統治の意味。)セス、故ヲ以テ新二府縣ヲ設置シ廣ク教化ヲ布(し)キ、風ヲ移シ俗ヲ易(か)ヘ、厚ク其ノ民ヲ撫育セントス、因テ陸奥国ヲ割テ磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥ノ五國ト為シ、出羽国を割テ羽前、羽後ノ二國と為ス
【注】 ( )内は筆者が加筆しました。
 その後の経過は必ずしもその意図の通りにはならなかったものの、結局、仙台藩北部は岩手県になりました。すなわち、不自然な旧国の分割とは、あまり関りの無い形で県境の変更が続きましたが、1876年(明治9)にはほぼ現在の県境が確定し、結果として奥羽と出羽の分割の形の東北六県となりました(分割は7ケ国ですが、磐城、岩代は後に合併して福島県となります。)。
 その後、不自然な県境はかなり是正されたものの、岩手県と宮城県の県境はやはり不自然な形に残りました。古来、一連の地域であり、地形的にも連続する東西磐井と栗原、登米との間に国境、更には、その後の県境が引かれたのは明治維新政府による仙台藩に対する敵意に満ちた処置によるものでした。同様に、庄内藩領域の最上川以北の飽海郡(旧八幡町、松山町、平田町を併合した現酒田市の大部分と遊佐町のいわゆる川北地域)の区域が、羽後国に所属することになり、1871年12月13日(明治4年11月2日)の第一次府県統合に関わる太政官布告によって大泉県、松嶺県、山形県酒田出張所管轄地が併合して酒田県(第2次)が誕生するまでその姿を消すことになったのです。
 ところで、2018年(平成30)10月24日の山形新聞「気炎」に「戊辰戦争150年」という記事があり、その末尾を筆者は次のように結んでいました。考えさせられる一文ですので紹介しておきます。
  ・・・・・戦争はいつも西からやってくる。平安時代初期の蝦夷征伐以来、前九年・後3年の役,奥州征伐、奥州仕置きと、西の権力の威光を誇示するために奥羽を征伐した。戊辰戦争も征伐だった。 奥羽を征伐した長州・薩摩の政権は、それ以降も太平洋戦争で敗北するまでの77年間、東北の若者を戦争に駆り出し,数多(あまた)の命を奪い取った。明治150年を祝う気分には私はなれない。(河北蒼生)
 【注】 本拙稿を作成するに当たっては、岩手大学教育学部研究年報第54号巻第1号(1994.10)131〜144、『地名「三陸地方」の起源に関する地理学的ならびに社会学的問題 地名「三陸」をめぐる社会科教育論(第1報)』(米地文夫・今泉芳邦(1994年6月30に受理)や『江戸300藩最後の藩主』(八幡和郎著、2004年5月(株)光文社5発行)を参照しました。
2018年10月28日