上野公園の西郷隆盛銅像設置余話

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 NHKの大河ドラマ「西郷どん」は、西郷の城山での戦死と大久保が清水谷で凶刃に斃れたシーンで終了しました。この西南戦争の結果、以降10余年、西郷隆盛は「逆賊」とされるのですが、明治22年(1889)大日本帝国憲法発布に伴う恩赦によって「逆賊」の汚名が解かれました。これをきっかけにして吉井友實ら薩摩藩出身者が中心となって上野公園における西郷隆盛の銅像設置計画が始まったと理解していましたが、『ノート・西郷隆盛像―Wikipedia』に、

明治16年(1883)8月に鹿児島県人及びその他の有志が発起人となり、第1回目の建立計画がなされ、福澤諭吉が頼まれて発起総代人となり、『時事新報』の明治16年8月25日号に「南洲西郷隆盛翁銅像石碑建設主意」を掲載したが、この時はついに建立の運びに至らず、後年になって上野公園内に西郷像が建てられたのである(『福澤諭吉全集』第19巻796〜797ページ参照)。

とあり、冒頭の私が知る計画は第2回目の計画であることが分かりました。
 この第2回目の建立計画は、明治22年(1889)2月11日に大日本帝国憲法が発布され、西郷が正三位を贈られたのを記念して芝公園弥生社において祭典を執行して、その祭典で吉井友實(薩摩)が発起人となって西郷銅像の建立を提案してなされたものだったのです。そして、この第1回目の計画と第2回目の計画とは全く無関係だったと考えられています。

 ところで、平成30年(2018)7月28日から9月5日まで鶴岡市の致道博物館において「明治維新150"西郷隆盛と庄内"」なる企画展が開催され、ここに第2回目当時の事情を知り得る資料が展示されていましたので、これに基づき第2回目の建立計画の内容と結果について以下の通り紹介してみたいとおもいます。

紀念銅像建設趣意書
 西郷隆盛氏夙ニ(つとに;ずっと以前から)勤王ノ大志ヲ懐(いだ)キ國事ニ奔走シテ屡(しばしば)麑海(げいかい;鹿児島の海)ノ波濤南島ノ炎瘴(えんしょう;南方地方の熱く湿った気候のこと。)性命ヲ犠牲ニシテ顧(かえり)ミズ遂ニ王政復古ノ偉業を翼成(よくせい;助けてことを成し遂げること。)シ維新ノ元勲タリ 朝廷擢(ぬきんで)テ枢機二列(重要な政務に参画すること。)シ大将二陞任(しょうにんす;役職につけるた。)ス 恩遇隆渥(おんぐうりゅうあく;情は深くねんごろであること。)聲名顕著児童走卒(そうそつ;走り使いするしもべ)ト雖モ之ヲ識ラザルナシ且(かつ)其の器宇(う;朝廷の意。)ノ恢弘(かいこう;事業や制度を推し進めること。)ナル胸襟(胸中)ノ磊落(らいらく;度量が広いの意味。)タル實二蓋世(がいせい;功績や名声などが大きいこと。)ノ偉人ナリ 惜カナ晩節(晩年)終エズ 身ヲ鋒鏑(武器の意味。)二殞(いん;落命。)ス 吾儕(わがともがら;吾仲間の意。)或ハ共二国事ヲ議シ或ハ同ク艱苦ヲ嘗メ親灸追随(しんきゅうついじゅう;親しく接して感化され従ってきたの意。)二久ク 氏ノ聲音笑貌(せいいんしょうぼう;声色や笑い顔の意。)今猶歴々目前二在リ 今般朝廷其舊勲(きゅうくん;古い勲功の意。)ヲ録セラレ贈位ノ恩命アリ 吾儕聖旨(天皇のぽ考えの意。)ヲ拝シ感泣措ク能ワズ(かんきゅうおくあたわず;感激のあまり泣かずにおれないの意。) 爰(ここ)二相謀(あいはかり)一地ヲトシ 氏ノ遺像ヲ設置シ以て紀念トセント欲ス 我儕ト同感ノ諸君ハ左ノ條?(条項)二依リ賛助アランコトヲ希望ス
  明治22年12月    東京府芝区芝公園地16号彌生社構内西郷隆盛紀念銅像建設事務所
【注】 ( )内は筆者が加筆した。
発起人  伊藤博文(長州)・井上 馨(長州)・岩倉具定(山城)・板垣退助(土佐)・伊集院兼寛(薩摩)・伊丹重賢(山城)・石井省一郎(小倉)・仁禮景範(薩摩)・木田親雄(薩摩)・大隈重信(佐賀)・大木喬任(佐賀)・大迫貞清(薩摩)・折田平内(薩摩)・大村純雄(大村)・渡邉 昇(大村)・渡邉 清(大村)・勝 安房(江戸)・川村純義(薩摩)・樺山資紀(かばやますけのり)(薩摩)・海江田信義(薩摩)・河田景與(鳥取)・吉井友實(薩摩)・高島鞍之助(薩摩)・谷 干城(土佐)・高崎五六(薩摩)・副島種臣(佐賀)・長岡護美(肥後)・野津道實(薩摩)・黒田清隆(薩摩)・黒田長成(筑前福岡)・黒田清綱(薩摩)・九鬼隆一(摂津)・山縣有朋(長州)・山田顕義(長州)・松平慶永(越前福井)・松方正義(薩摩)・松平正直(越前福井)・後藤象二郎(土佐)・榎本武揚(武蔵)・寺島宗則(薩摩)・三條實美(山城京都)・酒井忠篤(ただずみ)(荘内)・酒井忠宝(ただみち)(荘内)・佐々木高行(土佐)・税所 篤(薩摩)・吉川経健(周防岩国)・島津忠義(薩摩)・島津忠量(佐土原)・品川彌二郎(長州)・土方久元(土佐)・毛利元徳(長州)
委 員  樺山資紀(薩摩)・九鬼隆一(摂津)・川上操六(薩摩)・小牧昌業(薩摩)」・河島 醇(薩摩)・児玉利國(薩摩)・柴山景綱(薩摩)・得能道昌(薩摩)・篠原國清(薩摩)・山下房親(薩摩)・谷元道之(薩摩)・河野圭一郎(薩摩)・種田誠一(薩摩)・伊集院兼常(薩摩)・東郷翁介(薩摩)・肥田景之(日向都城)・水間良輔(薩摩)・三矢藤太郎(正元)(荘内)
遺像建設并(ならびに)募金手續
1 遺像ハ上野公園地内二數丈ノ高サ二石ヲ畳ミ其上ニ翁ノ乗馬シタル銅像ヲ安置スベシ 但シ建設ノ位置体裁ヲ変更スル時ハ発起人及委員ノ協議ヲ以テ決定ス
1 有志者ハ其義援金額并住所姓名ヲ明記シ事務所ニ御申シ込ミアルベシ
1 義援金申シ込ミ期限ハ明治23年12月迄トス
1 義捐者ノ都合ニヨリ期限迄ニ月賦若クハ数回ニ分テ拂ムモ差支ナシ
1 義援金ハ左ノ銀行へ宛拂込ノ上其領収証ヲ事務所へ投稿アラバ事務所ヨリ更ニ領収書ヲ出スべシ
   三井銀行本店及各地支店 第五国立銀行本支店(現三井住友銀行) 第147国立銀行本支店(現北陸銀行)
1 義捐者ノ都合ヲ以テ銀行へ拂込マザル諸君ハ直ニ事務所へ郵便為替又ハ正金ニテ御投奇アルモ差支ナシ
1 遺像落成ノ上ハ義援金額内譯決算書其他重要ノ件ハ新聞紙ニ載セ報告スベシ
1 義捐者の姓名金額ハ時々府下ノ新聞紙ニ載セ報告スベシ
1 義集金額ノ幾分ヲ以テ維持法ヲ設ケ其筋へ委託シ修繕保存ノ用ニ充ツベシ
1 義捐者の姓名金額ハ記録ニ載セ其筋へ委託シ遺像ト共ニ永ク不朽ニ傳ウベシ
【注】( )内は筆者が加筆した。

 以上の趣意書、発起人には薩長土肥を中心に明治維新で活躍した錚々たる人物49名の名を見ることができますが、いわゆる賊軍と称される荘内から酒井兄弟が発起人に名を連ねると共に、委員としても三矢藤太郎が加わっていたことは誠に奇態なことです。
 ところでもう一つ、発起人であり建設委員長である樺山資紀が発起人の一人である酒井忠篤に宛てた手紙が存在しましたが、それは次のような内容でした。

去る8月22日故西郷翁紀念銅像建設につき宮内省より金5百円下賜相成り候。
 銅像建設の場所 皇城正門外に建設の事に許可相成り候処、ご都合有り之取り消し相成り、従前の見込み通り上野公園地内に建設の事に許可相成り候有及ご通知候也
  9月19日                    故西郷隆盛紀念銅像建設委員長 樺山資紀
酒井忠篤殿

これに関連して、同上の樺山資紀の伝記『父、樺山資紀伝記・樺山資紀伝記宋書44』にも、設置場所について次のような記述があるといいます(『レファレンス事例詳細・東京都江戸東京博物館図書室』)。

 設置場所については、宮城前の広場の楠公銅像辺りの説があったが、衆議の結果上野辺りと決まった。上野は彰義隊との黒門口の戦で薩摩兵が奮戦したゆかりの土地である。そこで三枚橋のあたりにするか不忍の池のほとりにするか、陸軍陣地のあった雁鍋橋付近にするか等、いろいろ議論があった末に、結局現在の場所(山王台)になった。

 以上のようなことで、明治22年12月の銅像建設趣意書には、建設場所が「上野」と明記されていますが、それまでには建設地について宮城前の広場とされ、いったん許可を得たが、これが取り消されたことがわかります(後述の除幕式における樺山資紀銅像建設委員長報告文参照)。前述の樺山資紀の酒井忠篤宛書簡によるとその理由は、「ご都合有り」とのみ書かれていますが、『レファレンス事例詳細・東京都江戸東京博物館図書室』に、明治29年(1896)5月15日の読売新聞記事として、

 (西南戦争において)いつたん朝敵となりし翁の事とて、皇城門外も恐れ多しなどの議論ありしが、今回いよいよ上野の山王台へ建てる事と定まりたるよし。

 とあるように、宮城前の広場への建立がダメだった理由は、これが真相のように思えます。昭和12年(1937)、鹿児島市立美術館前庭に建てられた銅像は、陸軍大将の軍装で直立不動の姿勢ですが、これは上野の銅像の名誉回復の気持ちがあったのかもしれません(2009年3月1日付投稿、拙稿『西郷隆盛の同窓のモデルは山形県人』参照してください。)。
 それから、明治22年12月の銅像建設趣意書には、「翁ノ乗馬シタル銅像ヲ安置スベシ」とあって当初は騎乗の銅像で計画されましたが、資金の関係で断念し、代わりに陸軍大将の正装をした立像で計画されたのですが、これは明治政府の正装を着せることにも反発するものがおり、結局現在の浴衣姿に犬を連れた銅像になったようです(後述の除幕式における樺山資紀銅像建設委員長報告文参照)。これについては、公開の際に招かれた糸子夫人が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」といった趣旨の言葉を漏らしたといいます。この発言については、「銅像の顔が本人に似ていない」とする説が多いのですが、昭和50年(1975)代に鹿児島県下で小学生に無料配布されていた西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、「亡夫は多くの人間の前では正装ではなく、普段着ででるような礼儀をわきまえない人間ではない」という文脈で解説しているとのことです(Wikipedia・西郷隆盛像)。
西郷隆盛銅像は、高村光雲が原型を作り(ただし傍らの犬「つん」は、光雲に木彫を学び、宮城前広場の楠公銅像が代表作である後藤貞行)、鋳造は岡崎雪聲(おかざき せっせい)、台座工事は、明治期建築の第一人者・辰野金吾の弟子で建築家の塚本 靖が主任に当たり、東京美術学校に委託して制作され、明治30年(1,897)に完成し、翌明治31年(1898)2月18日に除幕式が挙行されました。除幕式は川村純義伯爵(没後海軍大将)が除幕委員長となり、時の総理大臣、山縣有朋、西郷従道内務大臣など800余名が参式し、樺山資紀(海軍大臣、海軍大将)の報告から始まりました(西郷隆盛に学ぶ 敬天愛人フォーラム21「世界は一つ」より)。

樺山資紀銅像建設委員長報告文
 贈正三位西郷隆盛君の銅像成るを告げ本日除幕式を行うにあたり、建設の顛末を述べ諸君の清聴を煩わさんと欲す。明治22年2月11日憲法発布の祭典が行われるに際し、朝廷君の手柄に対して特に正三位を贈られる。朝廷の思し召しに皆感激しない者は無く、芝公園弥生社において祭典を執行して故吉井友實君、主として君の遺像を建設することを提案して、参会者一同皆賛成して銅像建設委員会を設ける事にして樺山資紀にその委員長を委嘱され、その年11月趣意書を作成して融資者の賛同を求める。爾来続々四方寄付の申し込みあり、又宮内省より特に500円を下賜せられ、前後寄付者2万5千余人、金額32,000余円に至り、建築工事一切を男爵九鬼隆一君と謀り、東京美術学校に委託して校長及び校員皆終始懇篤に取り扱われ、その工事費は25,950円也。建築の地は最初宮城外の広場に許可を得たりしたが、都合ありてこれを撤回して、更に今の地に定めて許可を得る。銅像の設計は当初苦心を極め,その為に延び延びになったが、ついに今の姿に決定した。之即ち君が平生好む超凡、脱俗の趣を示したり。模型彫刻・高村光雲氏、鋳造・岡崎雪聲氏、台座工事・塚本 靖氏が主任あたる。建設の概略上に述べるの如し。資紀今日の結果を見るには、宮内省の恩賜と有志者多数の寄付ありて費用に窮する事無く、且つ工事に関し諸君の容易懇切技巧成熟により成功に至る。誠に感激に堪えざるなり。若しそれ金員収支の詳細に至りては精算をしたる上更に明細書を報告す。目下の計算によれば若干の余剰金が生ずる見込みあり。この余剰金は慈善事業に寄付することを望む。之君が平生慈悲の志を身に付けており、以てこの処分をなさんとするなり。寄付者諸君のあらかじめの了解をいただける様併せて此処に希望を述べる。

 銅像は、樺山銅像建設委員長報告にある通り、宮内省より500円を下賜され、さらに全国の有志の寄付金により、総工費25,950円で建立されましたが、庄内からは鶴岡264人、酒田50人、松嶺30人、合計344人の有志が4,231円35銭を寄付しました(この金額は全体の寄付額の約13パーセント、工事費の約17パーセントにあたります)。
 西郷隆盛銅像は、身長370.1センチメートル、胸囲256.7センチメートル、足55.1センチメートルあり、正面から写した写真では頭部が大きく見えますが、これは像の足元から見上げた場合、遠近法で適正に見えるよう計算されているためで、実際の西郷の体型がこのようであったものではありません(Wikipedia・西郷隆盛像)。
 ところで、インターネットで関連項目を検索中、東京の上野における銅像設置の趣意書が出る1年前に京都でも同様の話が起きていたことを京都新聞が伝えていましたので、その内容を全文紹介してみると次の通りです(ただし写真などは省略しました。)。

【2018年(平成30)1月22日付京都新聞朝刊記事】
明治維新150年 西郷の銅像京に構想 東山・霊山歴史館で史料見つかる
 明治維新の立役者、西郷隆盛の銅像が京都に立っていたかもしれない。「幻の西郷像」の構想があったことを示す新資料が、京都市東山区の霊山(りょうぜん)歴史館で見つかった。明治時代に東京・上野で西郷銅像が除幕する10年も前に、清水寺(同区)の参道沿いに西郷像の建立計画が持ち上がっていたことがわかる史料で、京都での西郷の人気ぶりがうかがえる。
東京・上野の序幕10年前 清水寺参道沿い
 史料は「西郷隆盛翁記念碑建設目論見ニ関スル書類」。清水寺寺侍で志士だった近藤正慎(こんどう しょうしん)の末裔から同館に寄贈された。
 1888年(明治21)に京都で西郷像を建てる計画を記した書簡で、植田楽斎という人物が発起人となっていた。また、当時の建築家・河合浩蔵が設計した軍服、騎乗姿の西郷像のイメージ図もあった。77年(同10)に西南戦争で西郷が自刃して10年前後という早い段階で銅像建立の運動が京都で起きていたことがわかる。
 史料を読み解いた同館の木村幸比古副館長(69)によると、西郷像の建設予定地は、現在の清水坂観光駐車場辺り。薩摩藩士の樺山資紀や綾部藩士の九鬼隆一の呼掛けに、西郷の弟・従道(つぐみち)も賛同したが、発起人の植田が亡くなり、立ち消えになったという。
 植田は、幕末に薩摩藩と親密だった公家の嵯峨(正親町三條;おおぎまちさんじょう)実愛(さねなる)の近親者。『嵯峨実愛日記』によると、実愛は薩摩藩の大久保利通や小松帯刀と頻繁に面談しており、西郷ともつながりがあった。
 木村副館長は、「西郷を慕って植田が提唱したとみられ、公家から西郷への信頼を示している。京都の復興と西郷の復権と合わせて盛り上がった運動と考えられる。立派な像を見れば、西郷の妻イトも納得しただろう」と話している。
 書類とイメージ図は、同館で3月18日まで開催中の「大西郷展」(第1期)で展示している。 (仲屋 聡)
2018年12月30日