●高山樗牛と藤沢周平
鶴岡市の生んだ二人の文人にスポットライトを当てて見たいと筆を起こしました。
樗牛は旧高畑町に生まれ二歳にして高山家の養子となり、仙台の第二高等学校に入学、井上準之介が同級の友人であったといい、樗牛の号は「荘子」に因むもので高校時代から用いていたといいます。
1896年東京帝国大学哲学科を卒業、第二高等学校の教授になった。1897年校長排斥運動をきっかけに辞任。博文社に入社し『太陽』の編集主幹になった。樗牛を一躍有名にしたことに読売新聞の懸賞小説に『滝口入道』が入選、『帝国文学』『太陽』などに盛んに文芸評論を発表した。日本や中国の古典に造詣が深く、欧米の思想にも通じ、美文体を得意とし、文豪とよばれた。しかし、日本主義、ロマン主義、二一チェ主義、日蓮主義など余りに主張の変遷が激しく後世の評価は余り高くないのが惜しまれます。
小説『滝口入道』のもとになったのが、第二高等学校教授の娘さんとの手紙の交換がもとになったと考えられますが私の偏見でしょうか。
藤沢周平は鶴岡市高坂に生まれ、山形師範学校卒業後湯田川中学校に奉職を得ましたが、まもなく病魔に侵され東京都下の病院で永い闘病生活をおくり、業界紙の編集に生活の糧を得て慎ましい市井の生活を親子3人で送っておりましたが、日頃より書き貯めた短篇集の内、『暗殺の年輪』が直木賞を受賞したあたりから小説家として脚光をあびるようになりました。
山形新聞に連載された『蝉しぐれ』は主人公牧文四郎が少年期から成年期にかけて、身の回りに起こるお家騒動にいやが応でも巻き込まれて、瞬時に立場を鮮明にしなければならない時の判断にいささかの迷いもなかったのは、道場での経験が生かされたのではないでしょうか。藤沢文学の中には数多くの時代小説が見受けられますが、特にふるさとに対する想いいれが強く感じられます。
また、海坂藩の名前の由来となったのは高坂からの坂道と遠くに見える庄内浜の原風景ではないかと、私の生まれて幼年期を過ごした旧高畑町に纏わる人、作品だったことと重ねあわせて考えております。
二人の評価が別れるのは明治、昭和に生きた二人の時代背景がいろ濃く投影されているような感じがしてなりません。
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