「庄内 自然と人文」  相良守峯

転載するにあたって相良家、山形新聞社から許諾を得ています。
 
 山形の名のように、奥羽の中心山形盆地には蔵王山脈が横たわり、また県の西部、庄内平野の背景には月山、湯殿山、羽黒山のいわゆる出羽三山が睥睨して遥かに西方日本海を遠望し、また北方秋田県との境には、さながら富士山を偲ばせる鳥海山が聳え立ち、さらに県の南境には朝日岳、南東境には吾妻山が横たわるという具合に、三方の県境には高い山々が聳えており、西方にだけ広い日本海が横たわるという地勢に県境が区切られている関係上、県人の活動範囲も自ずから区切られ、農産物なども上質の物と限られているとは言いながら、米産ばかりに局限される恨みがあると言えよう。

 しかし上記の山々はいずれも高峯を頂き、霊界の蔭濃く登山者の魂を引きつける霊山であるが、山形県の自然にして異境の旅人の心を引きつけるものはひとり山々だけでなく、それぞれの山陰にこんこんと湧き出て病み疲れた旅人の心身を癒してくれる温泉も至るところに見出される。主要な温泉を挙げれば庄内にはあつみ温海温泉、湯野浜、湯田川、また山形盆地には上の山、赤湯、赤倉、米沢には五色温泉その他。

 上記の山岳と対をなす大河にも欠かず、県の南境の辺りから蜿蜒と北上する最上川がやがて急流の大河となって庄内平野を貫き、西方日本海に入って酒田港に没する。これが県下を貫流して景観の美を添え、また山野に灌漑を施して農林の肥沃を助けることを大なる唯一の大河である。今上陛下が大正十四年に摂政として山形県に行啓の折、左の御製を賜ったという。

 山形県民歌「河水清」
         広き野を流れゆけども最上川
                海に入るまでにごりざりけり

 右のような地勢に基づいて、夏は暑く冬は雪の深い気候の下に、山形県は敢えて暮らしよい天地を恵まれてはいなかったのに、よく現今の山形県文化を予見させるところの行政機構が早くも生誕し、その行政の中心となった首府は県を四地区に分割した一つ、庄内に置かれたが、他の三地区は最上、村山、置賜であった。

 しかし室町時代から近世初頭までに当時勢力を張っていた村山地方の最上氏と庄内地方の武藤氏との激しい葛藤に明け暮れて、ついに最上氏が置賜以外の全域を占領するに至ったが、それも長きに至らず、江戸時代には庄内は酒井氏、置賜は上杉氏、最上は戸沢氏、他は小藩や幕領が群立し、上記の四地域も更に分裂するに至った。この状態が続くこと約二百五十年、幕末に至って全地域は戊辰戦争に巻き込まれ、大体親幕側に立つものが多かったけれども、結局山形県の諸藩は政府側に屈服した。この終戦の際、政府軍の総司令西郷隆盛の庄内側に対する取り扱いが極めて寛大であったのに傾倒した庄内士族は、深く彼を崇敬し、これが縁となって昭和四十四年以後、今日に至るもなお鹿児島市と鶴岡市とは兄弟都市の縁を結ぶこととなった。

 現今の山形県が生誕したのは明治八年八月である。なお戊辰の役が終ったのは明治六年のことだが、庄内藩主(のち伯爵)であった酒井忠篤(ただずみ)は隆盛に督励されてドイツに留学した。彼自身はプロイセンの陸軍に入学し、帯同した弟忠宝(ただみち)は大学で法学を研究したが、明治十年に隆盛が戦死したため、明治十二年、この兄弟も帰国隠棲した。

 凡そ山形県方の住民は辛抱強く温厚で優れた人物が少なからず輩出している。その中で数人を摘出すれば、最上義光、出羽の太守、山形城主となる。

 北楯大学、庄内狩川の城主、用水堰を開削し、灌漑して大功をたてた。

 清川八郎、幼名を齋藤正明と言い、十八歳にして江戸に出て文武両道を学び、自ら塾を開いたが、山岡鉄舟等と共に尊皇攘夷の志をたて、東奔西走したが、幕府の刺客に暗殺された。

 菅実秀(すげ さねひで 1830年生れ)、庄内藩の重臣、維新の指導者。藩の動静を指麾(しき)し、旧藩士の生活を救うため松ヶ岡の開墾に努力。また、西郷隆盛と肝胆相照らし、西南の役にあたっては去就を誤ることなく、庄内の危険を救った功績は大きい。

 一方また文人としては高山樗牛(1871年生れ)があり、鶴岡市出身で、二歳にして伯父高山氏の養子となる。東京帝大を卒業したが、学生時代の応募小説「瀧口入道」が首席当選して一躍文名を馳せる。博文館に入社、雑誌「太陽」で文芸批評に健筆を揮った。浪漫主義からニーチェ主義に、さらに日蓮の宗教思想に移るなど転々としたが、その文才の秀麗なことは一世を風靡するものがあり、晩年には文学博士の学位を受けた。

 さらに鶴岡市出身の陸軍軍人としては陸軍中将、関東軍参謀として石原莞爾(かんじ 1886年生れ)があり、満州国の建設に尽瘁(じんすい)したが、日中戦争では「不拡大」を主張したが入れられず、東条英機と鋭角的に対立し、そのため中将のまま予備役編入となって飽海郡に帰郷の身となったが、独自の理念に基づき東亜連盟運動を鼓吹し、また終戦に際しては極東国際軍事裁判酒田臨時法廷に証人として出廷し、自説の正当性を力説した。その後は自己の戦争論を日蓮の理念を中心として戦争絶滅を説く「世界最終戦論」その他多くの著述を残している。

 齋藤茂吉(1882年生れ)、蔵王山麓の農家に三男として生れ、長じて医師齋藤家の養子となり、東京帝大医学部を卒業したが、精神病医を志しながら少年時代から興味を持っていた和歌の道に進んで正岡子規及び伊藤左千夫に師事し、短歌雑誌「アララギ」を刊行すると共に歌集「赤光」(1913)を出版し、歌壇に新風を吹き込んだものとして広く大きな影響を及ぼした。その後も精神病院を経営すると共に、歌道の大家として江湖に重きを成し、芸術会員となり、さらに学士院賞、文化勲章をも受けた。

 水陸の明媚なるわれらの山形県は、人文の行路にも恵を与えているのか、世にすぐれた人材を産すること少なからず、世に紹介したい人物は上記以外多々あるが、紙数がここに尽きたので、山形県の物財人財のなお豊かならんことを祈りつつ筆を擱くこととする。

 ともかく古き山形県人はよく自己の生活圏を切りひらいて、自分の個性に適した環境乃至文化を創造したものと思われる。このようにして造られた文化は、まず、紀元一世紀以前に、インド又は中国から波及したものと思われる稲の栽培を始めとし、和銅五年に出羽の国に及ぶ西南からの文化の北上は、この地方を急速に開発させて歴史時代の黎明を迎えることとなったものであろう。