“庄内の百科事典”森敦著「われ逝くもののごとく」

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●“庄内の百科事典”森敦著「われ逝くもののごとく」
 「われ逝くもののごとく」は庄内の地誌、衣食住、交通、性、経済、信仰を網羅した“庄内の百科事典”形式の作品で、その構造は世界的に比類のない前衛的小説と評価しているのは山形大学で近代文学を研究している中村三春教授。
 羽越本線が日本海を離れて、庄内平野に入ろうとするとき、なおその眺望を遮ろうとするように、左手に荒倉山が見え、それに連亙する高館山が見えて来ます。
 こうした書き出しで始まる「われ逝くもののごとく」(昭和62年 第40回野間文芸賞受賞)は加茂・庄内一円が舞台、旧朝日村・注連寺が舞台の「月山」(昭和49年 第70回芥川賞受賞)の著者森敦が3年の歳月をかけて完成した長編作品です。
 だだ(父親)、がが(母親)、みぞけない(哀れ)、ほろけた(呆けた)、このじょ(この間)、こうで(沢山)、そんま(すぐ)、でって(てんで)、おぼげた(びっくりした)、やっこ(乞食)等々忘れていた庄内の方言が相次いででてきます。飽海郡北俣村(酒田市平田)出身の暘と結婚、昭和24年から39年まで吹浦・酒田・狩川・鶴岡・大山・湯野浜・加茂などを放浪したとは言え、庄内の方言を知悉して農村と市街地を使い分けているのには驚かされます。その面白さに惹き込まれて筋を追って読んでいくほどに不可思議な世界に誘い込まれていきます。全体像が霧につつまれ私には“本然の姿”は見えるようで見えないのです。
 8月25日に鶴岡市大網の注連寺(旧朝日村)で「森敦文学保存会」(代表、春山進氏 73回昭和41年卒 酒田西高校長)主催の第一回「森敦文学を語り合う会」が開かれました。創作活動を支え、後に養女となり「森敦との対話」の著作もある作家の富子さんは「庄内を徘徊している途中遭難しかかり、自分も行き倒れのやっこになるところだったと話していました。庄内平野にどっぷり浸かり、多くの人に話を聞いており、庄内なくしては森文学の世界はあり得なかった」と語りました。
 また山大の中村三春教授は<「われ逝くもののごとく」の構造>と題して講演しました。中村教授は、森敦が最大の意気込みをかけて「死とともにある生」と「幾何学や密教思想、庄内地誌」の両方を描いた比類なき小説で、世界文芸的な視野から見ても、極めて前衛的な作品です。評価しなければならないのは「われ逝くもののごとく」の構造と結びました。そして「この小説が海外に紹介されていたらノーベル賞候補に挙げられていたでしょう。これからでも遅くはありません。翻訳する人の現れることを望みます」と森敦文学の研究者が増えることを呼びかけました。
 第一回「森敦文学を語り合う会」の直後に米国の日本文学研究家、コロンビア大学名誉教授のエドワード・サイデンステッカーさんの死去が報じられました。「川端康成のノーベル賞受賞は、サイデンステッカーさんの翻訳なしではありえなかった」(朝日新聞8月28日)との記事がありました。庄内を舞台にした森敦の作品の真価を世界に伝える日本文化の核心がわかる研究者、第二のサイデンステッカーさんの出現を期待しています。
2007年9月1日