戊辰戦争2つの慰霊碑

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●戊辰戦争2つの慰霊碑
 庄内藩士の戊辰戦争戦没者が靖国神社には祀られていないことを、大友義助著「敵味方供養塔」(最上地域史23号)を読むまで私は知らなかった。政府は鳥羽・伏見の戦い以降、箱舘五稜郭の戦いまでの戊辰戦争の戦没者を靖国神社に合祀したが、これは官軍に限られ賊軍とされた庄内藩等の戦没者は祀られなかったという。
 10数年前に真室川町歴史民俗資料館館長の佐藤貢さんから「及位(のぞき)に個人で建てた庄内藩士の慰霊碑があるのを知っているか。関心あるなら案内する」と誘われた。「退職して閑になったらお願いする」と返事したが実行しないうちに佐藤さんは亡くなられた。
 先日、黒田藤一さん(64回卒)を誘い、「話には聞いていたがその碑は見ていない」という新庄雪の里情報館名誉館長の大友義助さんにご一緒してもらい及位の赤倉を訪ねた。真室川町歴史研究会の前会長高橋秀弥さんの案内で国道13号から山間の細道を行くこと数キロ、慰霊碑と対面した。
 戊辰戦争でこの地は戦場になり庄内藩士が戦死したとき、地元民が埋葬して自然石を置き“庄内様の墓”として祭祀してきたという。幸いにして近くに住む佐藤捷雄さんから話を聞くことが出来た。昭和50年8月の県北集中豪雨で高台にある“庄内様の墓”は崩れ落ちたが、壁面から座位の姿勢で土葬され白骨化した遺骨が姿を現した。驚いた佐藤さんはすぐに役場や近所に知らせた。同じ赤倉の佐藤良作さんは、及位は同盟軍についた新庄藩だが戦死者をこのままにしておくには忍びないと自費で慰霊碑を建立したとのこと。
 人間の背丈ほどの碑には「於戊辰の役戦没 庄内藩士の墓 1980年9月 佐藤良作建立」と刻んであった。慶応4年7月28日、塩根川赤倉越の戦いで戦死した一人の庄内藩士を祀った墓である。
 この話を伝え聞いた致道博物館館長の酒井忠一さんら8人が昭和63年9月に訪れてお参りし、地元民が長年にわたりお盆・彼岸に香華を手向けていたことに感謝し和歌にして気持ちを伝えた。
  名も知らぬ人の心に吾は泣く 赤倉越の戦死者の墓前  酒井忠一
  四世代庄内様の塚守り 祭り絶やさぬ山里の人     豊田 正
 秋田県境山間の及位は耕地が少なく昭和20年代までは炭焼き、養蚕、山菜などで生計を立てていた。近岡理一郎さん(元代議士・最上郡選出元県議)によると「及位(のぞき)はあまりの貧乏村なので最上郡から除(のぞ)け村」と揶揄されていたという。当時最上郡の所得は県民所得の60%、その最上郡から除けといわれた貧困は相当なものだった。しかし、案内してくれた高橋秀弥さんは「今のように情報化時代でなかったので他の村のことは知らなかった。貧乏は当たり前と思っていた」と語ってくれた。
 慰霊碑を建立した佐藤良作さん夫妻は亡くなり子息は福島県に住まいしているため赤倉の住まいは取り壊された。しかし、われわれが訪れた日にも村人によって花と供物が供えられていた。
 戊辰戦争の庄内藩士慰霊碑はもう一つ鶴岡市睦町の常念寺にある。これは北海道開拓使・大判官松本十郎がやはり自費で建立した。庄内藩士・戸田文之助の長男として鶴岡市に生まれた(1839年)十郎は北海道開拓使黒田清隆に登用されて北海道の開拓に尽力、「アツシ判官」と慕われた。しかしアイヌの処遇をめぐって黒田と対立、明治9年に職を投げうって郷里に帰った。
当時の鶴岡には戊辰の役の戦死者を慰める何物もなかった。それは賊軍であった庄内士族が、当時はまだ反政府的な西郷隆盛と親密な関係を持っていたため、政府をはばかる事情があった。(鶴岡市史)
 大友義助さんの著書「敵味方供養塔」によると松本十郎は帰郷草々、このタブーを破り、鶴岡市大督寺境内に戊辰戦争の庄内藩戦死者招魂碑を建立したいと元鶴ヶ岡県参事 松平親懐に願書を提出し認められた。彼は全くの自費で金峰山麓藤沢に巨石を求め、武藤旭山の揮毫を得て盛大な供養を行った。この巨碑は明治36年に常念寺に移された。
 「敵味方供養塔」では昭和9年11月1日付「山形新聞」に飽海郡南平田村(現酒田市)で、満州事変で亡くなった日中両国の兵士の供養塔を建てるので許可を県に申請した記事もとりあげている。この記事には「いかに激しく刃を交え、命をかけて争った戦争であっても、これが終わった後は、生き残ったものが合戦で亡くなった犠牲者を敵味方の区別なく葬り、供養するのが武士たちの古くからの作法であった。」とある。
 大友義助さんは「この思想の根底には、日本人には死者には敵も味方もない。ともに等しく供養しなければならないとする心性があった。この心性は明治以降、時の政治権力により、ゆがめられ、抑圧されたのではないかと思われる節がある。こんな思いでいるとき、庄内人の心は、まだ世の悪弊に染まっていなかったといわなければならない」と結んでいる。これは山形県の最北端、及位の赤倉の人々にもあてはまる賛辞ではないか。
2007年10月16日