洋風建築の棟梁 高橋 兼吉の家

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●洋風建築の棟梁 高橋 兼吉の家
 鶴岡に和洋折衷の洋風建築の建物を数多く残した大工の棟梁高橋兼吉。私の母方の祖父母が高橋兼吉の家を買い求めて数十年この家に住み続けましたが老朽化がひどく、昭和54年に新築のために解体しました。この際に私の従弟の現当主が語った言葉が「棟札は棟梁の家にしては実に粗末なもので、みかん箱の蓋(ふた)」との表現。“鶴岡のシンボルをつくった男”などと鶴岡市広報等に紹介されている棟梁の家なので立派な棟札と期待していましたが、みかん木箱のようなザラ板で、まさに紺屋の白袴、大工の掘立て、医者の不養生の類でしょうか。
 高橋兼吉(弘化2年1845〜明治27年1894)は朝暘学校をはじめ旧鶴岡警察署庁舎、清川学校、鶴岡裁判所、東田川郡役所、西田川郡役所、大山尋常小学校、鶴岡町役場、山居倉庫、松ヶ岡蚕室、荘内神社、由豆佐売神社、善宝寺五重塔など庄内を象徴する建築に携わってきたといわれています。酒井家の抱え棟梁、小林清右衛門と同じ大工町(現陽光町)の大工職人、高橋半右衛門の次男として生まれました。職人見習いのあと横浜に出て洋風建築の工法を学び帰郷してその技を庄内で開花させました。豪放らい落な性格が災いしたのか晩年は知人の連帯保証などして負債の整理に追われて茶室を売却、死後には居宅も処分されました。
 明治35年に買い求めたのが私の母方の祖父母でした。両親が共働きだったことから私は生後6月から祖父母の家に預けられて育ち、親元に帰るため小学校4年に転校するまでこの家で過ごしました。敷地・建物は比較的に広いものでしたが、屋根は杉皮葺きに石を置いたもので、建具も質素でした。ただ、家の前には梅の古木があり、また茶庭があったと思わせる踏み石や蹲(つくばい)、茶室に至る通り道の名残がありました。さらに小さな堰を挟んで総穏寺があり、ケヤキなどの大木が茂り築山には形のよい赤松がありました。終戦直後には、田んぼにはせ架けしてあった麦の穂の皮をむき、この赤松から松脂(まつやに)をとって噛んではガムになったと喜んでいたものでした。総穏寺は新国劇、長谷川伸の戯曲「総穏寺の仇討ち」や直木賞作家藤沢周平作品「又蔵の火」の舞台になったお寺です。いまは鬱蒼とした林や築山はなくなりましたが、当時はこの総穏寺の庭園、築山を借景として茶事を催したことがしのばれる庭でした。
 高橋兼吉は財をなし富を掌中に得て茶室を作ったのかと思い浮かべたのですが、これは間違いでした。当時、全国的に棟梁の間では「大工は茶の飲み方ぐらいわからないとだめだ」という風潮が広がっていたとのことです。庭、お茶、人とのつき合いで教養を高め技を磨いたのでしょう。
 祖父母の家は酒井家から代々 150石の禄を受ける医師、維新後は職業軍人で貧しかったために家を買い求めてからは改修などしないで当時のままで住んでいました。物置には使い古した大工道具が数多くありました。その中には何に使うのかわからない道具もありました。用材に線を引く墨壷(すみつぼ)、材料に平行に浅い溝を引いて鋸(のこぎり)を入れる線を正確にする道具の毛引き、直角に曲がった定規の曲尺(さしがね)などでした。祖父母の家にしては似合わない道具があると不思議に思いながら、おもちゃのない時代にこれらで遊んだものです。致道博物館には彼の設計道具が残されてあるとのこと。今になって思うに高橋兼吉は使い古して不要になった道具類をそのままにして家を手放したのではないかと思いをめぐらしています。
 昭和20年8月15日の正午にラジオの前に呆然として立ち尽くしていた祖父母に「戦争に負けた。戦争は終わった」と聞いたのもこの家でした。8月10日に面野山の生家で2歳の妹と2人だけのときに戦闘爆撃機グラマンF6が旋回して西郷小学校を機銃掃射しているのを目撃しました。恐怖の体験の5日後だけに6歳の幼心ながら「これで死ななくてもいい日が来た」とほっとした気持ちになり、蝉とりに総穏寺の林に駆け込んだ記憶が鮮明に残っています。
 日本を代表するバンドリーダーでジャズ・テナーサックス奏者高橋達也氏(追記2月29日死去、76歳。64年結成のジャズバンド<東京ユニオン>のリーダー。89年解散後はソロ活動していた)も高校時代まで両親・姉妹と隣に住まいして「タツロウはん」と呼んでいました。私は「ゴロちゃ」といって弟の悟郎さん(67回卒)と遊び友達で、玄関を入るとラッパのある蓄音機があってレコードが流れている音楽一家でした。夜になると彼の演奏するサックスの音色が総穏寺の林にこだますることもありました。
 高橋兼吉は当時の大工としては珍しく設計図を書いてから仕事にとりかかるなど繊細な面と、屋根の妻飾りは強烈な個性を主張する独自の装飾を施す仕事ぶりだったといわれています。豪放らい落な性格と繊細な神経をあわせ持っていた高橋兼吉が仕事に疲れたとき、あるいは建築の構想を練るときに眺めた庭と総穏寺の風景、時空を超えて子どもの頃に体験したことは私にとって感慨深いものがあります。
 庄内の文明開化と洋風建築を担いながら紺屋の白袴、大工の掘立ての類だった棟梁高橋兼吉の家に住まいし、彼と同じ景色を眺めた一人として齢を重ねるにつれて洋風建築の数々は肉親が建てたように身近に感じられてきます。
(高橋兼吉については鶴岡市観光連盟の「文明開化の名棟梁 高橋兼吉」を参考にしました http://www.tsuruokakanko.com/ca02/takahashi.html )
2008年1月25日