幼馴染の故佐藤敏直さんを偲ぶ

62回(昭和30年卒) 石垣 藤子
 
●幼馴染の故佐藤敏直さんを偲ぶ
 2月2日鶴岡音楽祭を聴きに行ってきた。中田喜直氏の「雪の降るまちを」を記念して始まった冬の音楽祭である。今年は23回目であった。
 「郷土を愛した作曲家佐藤敏直〜その人と作品〜」というテーマのコンサートである。地元の同級生の熱い尽力の効果もあり、文化会館はほぼ満席であった。開場前から長い列が出来ていた。あちらこちらに知ってる人の顔も見受けられた。
 山形交響楽団の演奏、工藤俊幸氏の指揮で敏直作品の世界が繰り広げられた。 現代音楽の重厚な曲から、こども向けの優しい小品、室内楽、そして鶴南高、土曜会など地元の合唱団による、美しい合唱曲などたっぷりと彼の音楽に浸ることが出来た。
 山形県民会館の創立25周年記念事業としての委嘱作品「交響讃歌やまがた」が誕生する時のことも思い出された。同級生のSさんが推薦してくれて決まったのだった。いい作品が出来上がることを願って3人で祝杯をあげたものだった。昭和62年、80分もの素晴らしい曲は完成した。県民会館での感動的な初演の後で、東京サントリーホールでも演奏された。 今回はその中から2つの女声合唱曲が演奏されたのである。
 最後に演奏された市制75周年記念に作られた「はじめての町」は詩人茨木のり子氏の詩に作曲されたもので心に浸みる素晴らしい混声合唱組曲である。初演の時に指揮をした姿が思い出され胸が熱くなった。
 管弦楽、室内楽、合唱曲、ピアノ曲・・・多くの分野の曲を作っている。二小、六小、五中など地元の学校の校歌も作っているし、日本の邦楽のための曲も多く残している。
 作曲家になってからは「ビンチョクさん」と呼ばれていたようだが、中学校や高校時代には親しみをこめて「トシャ」と呼ばれていた。三井先生(三中の名物の音楽の先生)がよく「トシャは・・、トシャが・・」と可愛がっていたことを思い出す。
 65歳での逝去はあまりにも早すぎる。まだまだ優れた作品を残すことが出来たであろう才能の持ち主だった。惜しまれてならない。
 敏直さんとは朝陽第一小学校5年生の時から、鶴三中、鶴南高とずっと一緒だった。2年生時からの疎開っ子と4年生の時に外地から引き揚げてきた私とはどこか気の合うところがあったのかも知れない。夏休みの宿題の絵を描くために赤川の上流へ一緒に歩いて行ったりもした。半世紀以上も昔の懐かしい思い出である。音楽は勿論、絵も上手だったし習字も英語のスピーチも巧みだった。小学校の頃から自分で作った曲の楽譜を担任の音楽の先生に見せたりもしていた。それに鉱石ラジオを作ったりと理系の分野でも優れたものを持っていた。どの分野に進まれてもきっと才能を発揮して大成する人物だろうと思っていた。
 大学は工学部に進んだのだがやっぱり音楽の道へと方向を決めたようだった。ヴァイオリンを嗜まれた父上のDNAや三井直先生との出会いが大いに影響していることは想像に難くない。更に音楽の道に進まれた玲子さんという伴侶を得てその才能は見事に花開いたのだと考える。
 平成14年3月突然の訃報を聞いた時、私は上京出来なかった。当時湯田川の病院に入院しておられた母上を見舞い手を取り合って泣いてきた。「替われるものなら・・」としっかりとした口調で話されていた。昔のままに聡明できれいな母上だった。しかしその後急激に衰弱されたそうで自慢の息子の後を追うようにして、ちょうど2ヶ月後の同じ日に旅立たれたのである。さぞかし落胆されたことだろう。心が痛む。
 交響讃歌以来山形へも何度か訪れる機会があった。YBC企画の松尾芭蕉生誕 300年に因んだ「永遠の旅人」、文翔館でのコンサート、など。県出身の作曲家としての活躍も期待されていた。前会長の佐竹さんご夫妻や現会長の庄司さんたちと一緒に歓迎と激励の席を設けたり、コンサートの後で鶴岡から来られた三井先生やお母様も一緒の会を開催したことなどもあった。後になって思い出すのは、不整脈があり薬も服用していると聞いたことである。まさかそれが命取りになるとは予想もしなかった。残念でならない。
 早くも鬼籍に入ってしまった敏直さんの遺影とゆかりの品が鶴岡公園にある大宝館に陳列されている。作曲家なのに音が聴かれないのは残念だと同級生の有志で話し合い、市役所へ何度も交渉してくれて、それも同級生達で作製した彼の代表作の抜粋のCDをイヤホーンで聴かれるような器具一式を寄贈したのである。何時でも敏直さんの曲を聴くことが出来るようになった。
 今回の音楽祭に関しても地元の同級生 100名ほどに案内状を発送したり、チケットを売りさばいてくれたりと熱心に活動してくれたのである。我が62回生は団結の強い学年なのである。一月には恒例の東京での新年会があり60名近く集まった。友情に厚いいい同期生を持てることを誇りに思っている。有難く、嬉しい限りである。
 音楽祭のフィナーレは故中田喜直夫人の指揮による会場全員の合唱だった。「雪の降るまちを」と「早春賦」の大合唱だった。さすがは鶴岡市、素晴らしい歌声だった。音楽祭のあった翌日の2月3日に新井満氏と秋川雅史氏等のTV番組があった。「千の風になって」を聴きながら、ふと敏直さんはどんな風となって吹いているのだろうと想いを巡らせた。繊細な心優しい風になったり、時には力強く堂々とした風となって大空を吹きわたっているのだろうか。
 敏直さんが残した沢山のメロデイーが後世に長く引き継がれていくことを心から願っている。 合掌。
2008年2月13日