日本画家星川清雄(画号:輝洋)とその絵

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●日本画家星川清雄(画号:輝洋)とその絵
 先月26日(火)から今月16日(火)までの間、鶴岡市の致道博物館において "星川清雄・清彦「日本画と水彩画展」" が開催されています。日本画と水彩画の展覧会であること、親子展であること、さらには星川清雄なる画家が将来を嘱望されながら余りにも若くして亡くなったために広く世間に知れ渡っていないことから、この展覧会は特異な催しであるといえましょう。そこで、私が星川清雄・清彦と縁があるところから、清彦のことはさておき、鶴翔同窓会の大先輩に当たる清雄の経歴とその絵についての一文を認めてみようと思いたった次第であります。
 そもそも今回の二人展は、清彦が所有する父清雄の遺作9点を致道博物館に寄贈したことに始まり、清彦も水彩画を描くところから、博物館長理事の酒井忠久さん (72回昭和40年卆) や学芸部長の酒井英一さん(第78回昭和46年卆)の尽力により二人展として実現したものであります。
 星川清雄は、私の母(佐喜)の長兄に当たる人なので、私から見れば伯父にあたる人物です。余りにも年に隔たりがありますので、本人とは直接会ったことはありませんが、幼少時よりその人となりについて父母から話を聞いておったところです。
 清雄の全体像を把握していただくために最初にその略歴を紹介したいと思います。
 清雄は明治27(1894)年、鶴岡市鳥居町の国文学者で医師の清民と母徳江との長男として生まれ、荘内中学校では相良守峯(ドイツ文学者、鶴岡市名誉市民)、根上富治(羽峰) (東京美術学校卆、日本画家 )、林 茂助(理学博士、元鶴岡高等専門学校校長)の諸氏と机を並べていました。幼少より絵を好み中学に入学するや大いにその才能を発揮して、校内の美術クラブであった「尚美会」を盛り立てて活躍し、大正2(1913)年3月に卒業(第21回)、4月には東京美術学校(現東京藝術大学)日本画科に首席で入学、同7(1918)年3月に卒業しました。卒業制作の「春」は首位を獲得し、同校買い上げとなりました。
 東京美術学校在学中、本郷洋画研究所で人体デッサンを勉強すると共に早くから日本画に洋画の手法を導入した結城素明に師事し、卒業後は素明主宰の「宸光会」に入り、作家活動に入りました。また、東京美術学校在学中より短歌にも親しみ卒業後も「アララギ」に属していたようです (室生犀星から斉藤茂吉に紹介され、後に伊藤左千夫に師事していたということです。なお、室生犀星とは下宿が同じで、後に犀星が「ある画家の死」という題で清雄のことを書いた一編を残しています。)
 東京美術学校卒業後は、生活のこともあってか「実業之日本社」に入社し、少年少女雑誌の表紙絵や口絵を描いていました。大正10(1921)年5月、青森市の西舘氏の長女栄子と結婚します (西舘氏は津軽藩の家老の家柄で、栄子は当時東京の津軽邸で津軽の子女の絵のお相手をしながら自らも日本画を勉強していました。常に院展に出品、受賞したこともありました。)。 そして、この年の10月、東京において平和博覧会が開催された折、「春禽」を出品しました。そのときは金牌該当がおらず、「春禽」と伊東深水の「指」という作品とが競い、結果、「指」が銀牌、「春禽」が銅牌を受賞しています。
 翌大正11(1922)年6月、長男清彦を儲け、秋の帝展に「童女三人」を出品して入選、ここで画壇での地位の第一歩を固めることとなります。
 しかし、翌大正12(1923)年5月、郷里鶴岡の母が逝去、同年7月には、愛妻栄子とも産後の肥立ちが悪く死別する羽目になりました。まさに、この年は清雄の家庭に憂慮の影が覆ったのであります。打ち続く心労のために清雄もまた健康を害したので、家人は上京を止め、静養を奨めたのですが、妻の納骨を済ませると差し控えている帝展への出品の準備と恩師素明の渡仏に伴う留守のために門人の指導があったため、家人の奨めを断り上京したのです。
 ところが、病には勝てず、病気を一日でも早く治そうと8月に病院に入院したのですが、ここが悲運の始まりとなり、大正12(1923)年9月1日、午前11時58分、44万7千 123戸が焼失、9万9千 331人が死亡した関東大震災のために、清雄は僅か30歳(満29歳)をもってこの世を去ったのです。
 次に、略歴との関連でこの度の二人展に出された「春」、「童女三人」、「春禽」について若干説明したいと思います。とはいうものの、私には画才は勿論絵を論評する才能もまったくありませんが、幸いなことに、主として庄内の美術愛好者らで組織する「白甕社」創設の中心人物であった野坂是勇 (第34回大正15年卆 清雄の末弟で名を清健といいます。後に野坂家の養子になって野坂姓を名乗り、さらに日蓮宗の僧となって是勇と名乗りました。) が母方の伯父に当たり、彼が生前残した小論を所持しておりましたので、これを参照しながら説明することにします。(ネットで「星川清雄・清彦「日本画と水彩画」展」を検索し、検索結果の「展示場」をクリックすると作品群を観ることが出来ます。)
 清雄は前述の通り、人物が研究対象であり、過去と現在を突き破って新しいものを創造しようと意欲に燃えていました。日本画の顔料以外にテンペラの絵の具を混用して人物を描いていました。また、油絵も勉強していましたので、従来の日本画の手法とは若干な異なる点が作品の特徴だと思います。さらに、絵画の根本は空間構成にその秘密があることを察知して研究に勤しんでいたようです。)
 今回展示の「春」は卒業制作の完成品ではなく、下絵になるものです。青春の抒情を、その希望と力を「春」に託して表現したものとされています。実際の作品は、清澄な空を背景にして、夾竹桃の茂る丘に春を追う人物の動的なポーズや素晴らしい量感、そして黒い着物の裾に施された蝶の模様の斬新な構成と色彩の鋭い美しさ等、この絵は清雄の抱く日本画への理想と表現方の特色を既に萌芽ではあるが明らかに明示した作品であるとされています。
 「春禽」は薄ら赤らむ春の空気が一杯漂っている窓辺に囀る緑色のインコ、室内の空気も暖色に満ちていて、白布に覆われた卓上には林檎の鉢があり、インコと対角線の関係にあります。そしてその林檎の一つを握ってインコと語る婦人の動的ポーズ、髪や衣類の黒っぽい色がずしりと画面を引き締めています。若き婦人の心にも春が満ち溢れ、顔を仰ぎ加減に傾げてインコと語る表情をしていますが、顔ばかりでなく、肩、手、腰、膝等、全身をもって語りかけています。この動的な肢体を包む衣服の縦縞のリズミカルな線は、帯で上下に区切られて量的な変化を与えられ、素晴らしい空間的な働きを示し、この線は、背後のカーテンにも繰り返されています。すなわちこの絵の人を魅了する美しさは、線状を基礎にした空間構成にあるといわれています。直線と曲線、そして色と色との様々な変化と対応と繰り返しとを巧みに用いたこの西欧的な画面構成は、清新なそして理知的な活力に富んだ印象を与えています。
 「童女三人」は白布に覆われた円卓を囲んで、三人の童女がそれぞれのポーズで椅子に座っています。その上空には百日紅の花が夢幻的な感じを漂わせています。色調は明調であり、透徹したこの清純な気品は、鋼のような強さを底に秘めて画面に香気を与えています。この絵を単なる童話的な表現の甘さに堕ちさせていないのは、清雄の長い間の基礎鍛錬により培われた賜物のためであり、そのことが絵としての高い格調を持たせている所以であるとされています。卓上の静物の表現の新鮮な美しさ、夢幻的な百日紅の花の下、卓を囲む童女三人を包む清爽な大気の匂い立つその深さに私たちは吸い込まれます。そして空間構成の深さは直ちに絵の深さとして迫ってくるのです。
 卒業制作の「春」から3年後の「春禽」へ、そしてこの「童女三人」と、清雄の絵は、次第にその内容を深めてきているとされ、ここで、一つの完成度を示していると言われています。
 星川清雄は作品制作のためにあれほどの努力をしながら、そして将来に大いなる希望を抱きながら不慮の事故で夭折してしまいました。また短い時間に精力的に描いた作品等もその多くが戦火により灰燼に帰してしまったのです。誠に残念に思います。しかし、その天才振りを惜しむ方々が、また、その絵を絶賛してくださる方々が郷里鶴岡に少なからずいらっしゃることは清雄の甥として大変うれしく思います。
 今月16日(火)まで開催の星川清雄・清彦「日本画と水彩画」展は、初公開の作品が多くあります。この期間中に鶴岡に帰る機会がありましたら是非ともご覧になってください。
  
2008年9月1日 星川清雄の命日に当たって