「サッカーの旅」 東京大学名誉教授     相良守峯

 ※山形県サッカー協会 40年誌(1988年9月16日発行)に特別寄稿の「サッカーの旅」は相良家と山形県サッカー協会から転載の許諾をいただきました。
 
 小生の育ったのは山形県立荘内中学校で、今の新制南高校であり、そこから金沢の第四高等学校、次いで東京の一高、そこから東大の文学部、そして独文科という順序に卒業したのでした。それゆえ当時の旧制高校と今のそれとは学制が交錯するわけで、鶴岡の父母の膝下で就学しているころはまだ故郷の中学に通っていたわけです。毎日、夕暮れになると我が家の向かいの大督寺に生い茂っている杉林に夜の憩いに集い寄る烏の群れが口やかましく飛び交うものでした。それに我が家の裏門のあたりの広い田圃では蛙がゲーグ・ゲーグと啼きわめくのでした。但しこの田圃が今は野球場になっているようです。この時分に学校から疲れて帰ってきた小生が、風呂に入ったり、夜食を取ったり、予習や復習をしたりという、夜の営みにはいるのであるが、疲れて帰るとは予習や復習をするのかというと、さにあらず、雨さえ降らぬ日は必ず放課後から日の暮れるまで、学友を相手にスポーツに夢中になっていたのであるが、そのスポーツとは小生の場合、ひたすら、フットボール、今でいうサッカーに耽ったのである。サッカーというのは不思議な運動で、競技する場合も応援する場合も、奇態な魅力をもって当事者を巻き込むのでした。

 小生の場合、当時の中学1,2年に入ったころには、幾つかの学科には殆ど興味がなかったし、ナギナタや撃剣や、弓道、柔道など、正規の科目同様に取扱われていたものにはあまり興味を持たず、若い命の引きつけられたものといえばサッカーのみであり、中学3年以後にはひたすら蹴球を蹴飛ばしてばかりいた。小生の守備していた場所はフルバック、即ち最後備であって、大体強襲をもって攻め返す役目であり、うまくゆけば反対に敵軍を攻め落とそうという、攻守両用の戦法でした。小生の属するサッカー軍は3年生としては割合に強いという評判だっただけに、競技には熱心で、教員の先生たちも競技の選手には励ましの声をかける様子でありました。

 さてこの学校のサッカーに関してばかり綿々と語っていては一方に偏するようだから、そのころ小生が経験した1回の他校試合について変わった話をしたい。小生が経験したこの試合は5年生の折りのことであるが、丁度学校で修学旅行を催して、学生に仙台と松島を見学させようというものであった。ところで仙台の一中には折りしも私たちと同級の5年生が一人在学していて、それがサッカーの選手にしてキャプテンで、たまたま当方一人の選手とも友人であることが分かったので、これは絶好の機会であるとして、先方にサッカーの試合を申し込んでやった。ところでその時代、東京以北でサッカー部を置いている中学校は外には一校もなかったので、我々は躍起となって仙台一中に試合を挑んで、先方からも喜んでそれに応戦することになり、こうして或る夕べ、健気な旅装を調えて、2,3人連れで旅路に昇った。

 というと、一体どんな旅路に昇ったのかと言いますと、当時はまだ田舎町であった鶴岡にはまだ汽車などいうものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどのの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流上流へと、14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。夕方から翌朝まで熟睡したのち、翌る日は仙台一中の敵軍を迎えて大いに戦ったが、ここに読者諸君に一言申したいことは、敵軍は一人ずつ勇ましい運動靴であったのに、わが庄内軍の脚がまえは全くの裸足であったことである。素裸足と、逞しい兵隊靴とどちらが強いかは一目で判明していることであり、両軍の応援隊も、敵軍は当方に対して「やあい素裸足!」と唱えるし、庄内軍は敵に対して「兵隊靴、やあい!」と弥次っていたのに、素裸足の方が強かったのは面白い結果であった。当方が3対1で勝ったからである。この勝負は後の日まで我々のみならず、同級生の嬉しい語り草であった。あまりサッカーのことにのみ筆を走らせたから、このあたりで失礼したい。

荘内中学21回卒(大正2年)
独文学者 文化勲章受賞

(この直筆原稿は、県民の財産として役立ててもらいたいと「県サッカー協会 40年誌」編集者の奥山孝雄さんから県立図書館の先人コーナーに寄贈されたとのことです。)