「草木塔(そうもくとう)」を訪ねる催しに参加して

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●「草木塔(そうもくとう)」を訪ねる催しに参加して
 過日、某NPO法人の主催で、置賜地方の「草木塔」を訪ねる催しがあり、これに参加してきました。
 草木塔とは、「草木供養塔」、「一佛成道観見法界草木国土悉皆成仏」、「草木塔」、「草樹塔」などという碑文が刻まれている石塔のことです。
 1990(平成2)年、大阪で「国際花と緑の博覧会」が開催され、山形県のコーナーに飯豊町の草木塔(1830(文政13)年の建立です。)が搬入・展示され、県内外に草木塔を紹介する大きな契機となりました。最近のものには碑面を研磨したものや建立の理由などを詳しく書き込んだものなど、手を加えたものもありますが、時代が古いものは、自然石で、碑文、建立年月日、建立者名だけを刻んだ素朴なものが大部分です。
 国内には 160基以上の存在が確認されていますが、その分布地は、岩手、宮城、山形、福島、東京、神奈川、山梨、長野、京都の都府県に限られており、しかも全基数のおおよそ90%の草木塔が山形県内に分布しています。そして、四つの地域に分かれる山形県内でも特に、置賜地域にその大部分が集中している独特な石物文化遺産です。
 米沢市の藤巻光司さんは、1949(昭和24)年から草木塔の不思議な魅力に取り付かれて、写真により情報を収集していますが、草木塔の調査、研究発表ということでは、1957(昭和27)年から調査を開始し、その結果を1966(昭和41)年に報告している米沢市の佐藤忠蔵さんのものが最初といわれています。その後、この佐藤さんの協力を得て元山形県立博物館長の結城嘉美さんが、1984(昭和59)年に「草木塔の調査報告書」としてまとめています。そのほか、元山形大学講師の船橋順一さん、出羽三山の修験道研究の泰斗である戸川安章さん、新庄の雪の里情報館名誉館長の大友義助さん、置賜史談会員の小山田信一さん、元米沢市立図書館長の梅津幸保さんなど多くの民俗学研究者が草木塔の調査研究結果を発表しています。最近では、2006(平成18)年に山形大学が「自然と人間の共生」のテーマの下に「草木塔ネットワーク」を設立するとともに調査・研究を開始し、2007(平成19)年には、その成果を公表しています。また、山形大学名誉教授で鶴岡致道大学学長の北村昌美さんや山形市の千歳建設の千歳栄さんは、広報誌や新聞紙上、それに自身の著作を通じて県内外に広く草木塔を紹介しています。
 最も古い草木塔は江戸時代中期の1780(安永9)年に米沢市大字入田沢字塩地平に建立されたものです(国道121号線沿線です。)。現在のところ、江戸時代に建立されたものは、34基確認されていますが、岩手県と福島県の2例を除き、32基が山形県内、しかも米沢市、南陽市、飯豊町、川西町の置賜の市町に限定して分布しています。明治・大正時代のものは21基で、これも総て置賜地方にあります。
 江戸時代、置賜地方に建立された草木塔の分布を見ると、多くは、「木流し」の拠点に沿って分布しています。「木流し」とは、冬季に山で伐り出した木材や薪材を川辺の貯木地に搬出しておき、春の雪融けで増水した川水を利用して一気に下流の基地まで流すことです。この作業は流れる木々を追って走り、ときには水中に飛び込んで、はぐれ木を本流に戻すなど、非常に危険で過酷な作業です。しかし、この作業は、置賜地方だけで行われていた木材の運搬手段ではありませんが、この「木流し」作業の行われていたところはでは、雪崩や水による犠牲者が多く出ていたようです。
 次に、前述の最古の草木塔は、米沢藩が管理する御林(おんばやし)があったところにあります。建立の7年前、1773(安永2)年に米沢藩の江戸屋敷が大火に見舞われ焼失しました。藩では藩邸再建のために御林から、道標として残しておくべき巨木や地形上残すべき保全木までも伐って江戸に運んだといわれています。当時の米沢藩は、鷹山の時代であり、伐採後に御林の植林を進めると同時に伐採した樹木の供養のため、草木塔の建立を示唆したのでは、との言い伝えもあるようですが定かではありません。
 さらに、建立の古い草木塔の中には、湯殿山という銘を刻んだ石塔と並んでいるものがいくつかあります。これから普段は村人とともに生活をしている里山伏や僧侶が村人に草木塔の建立を勧めたものではないかとの考え方もあるようです。米沢藩の山岳信仰の中心は、湯殿山と飯豊山で、村人や山仕事に携わる人々は、一生のうちにこれらの御山にお参りしなければ、一人前として扱われなかったそうです。また、13歳から18歳にかけての者は、村の合宿所で合宿を行い、出羽三山で修行を行い、湯殿山や飯豊山参りの先達でもあった里山伏(法印)と呼ばれる人々に文字をはじめ人間としての生き方、働き方など様々なことを教育されました。また、『人が仏道を成就して、この宇宙を見渡して見れば、人間ばかりでなく、山も川も草も木も総てのものは、仏性があるので、総て仏になりうる』というような意味の「一佛成道観見法界草木国土悉皆成仏」や「山川草木悉皆成仏」あるいは「草木国土悉皆成仏」などという仏教的思想も学習しないと湯殿山や飯豊山参りが出来なかったといわれています。
 草木塔が建てられた趣旨、建てられた理由などについては、色々な考え方があり、現在のところ明快な答は出ていない状態ですが、草木塔が建立され始めた江戸時代の村の人々は、山形市の千歳山の「あこやの松伝説」に見られるように、古来からの「樹霊信仰」を持ち合わせていたほか、里山伏や僧侶の教えの影響もあって、自然界の万物に宿る神々に対して山仕事の安全を祈願し、採取した草木に感謝し、その魂を鎮魂・供養しようとする心を持つようになり、これらが相俟って、建設のための資金を出し合う「講」を結成し、草木塔を建立して維持管理することを思い立ったのではといわれています。
 江戸時代に始まった草木塔の建立は、その思想を受け継ぎ、明治、大正前期まで続きましたが、やがて若干の例外を除き、その建立の記録が消えてしまいます。  塩地平に草木塔が建立されてからおおよそ200年近くを経た日本は、高度成長期(1955(昭和30)年代から1973(昭和48)年代までの期間です。)を迎え、豊かで便利な社会になりましたが、反面、環境破壊や大気の汚染、水質の汚染、土壌の汚染問題が起こりました。このような社会情勢を踏まえ、再び草木塔は脚光を浴び、置賜をはじめ村山、最上、庄内にも建立されるようになりました。これらの草木塔は、環境問題を普及啓発する観点や植林や緑化における顕彰、自然に対する畏敬の心などを子孫へ伝える目的で建立されています。また、昨今は、地球温暖化に代表される地球規模の環境問題が論議されており、同様の趣旨で各地に数多くの草木塔が建立されています。
 最上や庄内地方にはそれぞれ数基未満と草木塔の分布が少ないのですが、現在、庄内では、1985(昭和60)年建立のものが酒田市の「天満宮」に、1990(平成2)年建立のものが酒田市松山の「眺海の森」に、1992(平成4)年建立のものが鶴岡市の「鶴岡公園」に、同じく1992(平成4)年建立のものが三川町東沼の「高善寺」に、1996(平成8)年建立のものが三川町東沼の「大滝良三宅」に、1999(平成11)年建立のものが鶴岡市藤浪の「薬木公園」にあることが確認されています。建立した年代からみて、その建立目的は、自然保護思想の普及啓蒙、緑化推進の顕彰などではないかと思われます。
  
2008年10月17日