●山々の姿を街づくりに取り入れた城下町鶴岡
旧町名の一日市町から内川の流れに沿って大泉橋の方向へ北に向かうと、晴れた日には遠くに出羽富士と呼ばれる秀麗な鳥海山を望むことができます。一方、下肴町から逆に五日町、三日町、十日町、二百人町へと、いわゆる鶴岡銀座通りを南に進むと、正面に杯を伏せたような母狩山が近くに迫ります。このように人々の進む視線の先に山の姿がくるように通りの方向を定めることを「山当て」といい、この方法は、街づくりの手法として400年ぐらい前から用いられていました。
地理情報システム(GIS)の権威、東京大学大学院工学研究科の清水英範教授がある雑誌の対談で述べていたとおり、京都大学大学院人間・環境学研究科の故・足利健亮教授は「景観から歴史を読む」という本のなかで、『徳川家康は、江戸の街づくりを始めるに当たって、江戸を不死身(=富士見)を目指す場所として位置づけ、都市景観に富士山という100キロメートル彼方の大自然を取り入れようとした。』というような説を立てています。すなわち富士山を「山当て」した街路の造成を行ったのです。それが証拠に、広重や北斎の浮世絵を見ると、道のほぼ中央に富士山を大きく入れて描いていますし、GISによる当時の景観再現図をみてもそのことが証明出来ます。そのほか江戸では、愛宕山、神田山(後に日比谷入江の埋め立てのために切り崩されました。)、筑波山が道路の正面に見えるように意図的に通りを定めていることが分かります(広重の江戸名所百景「する賀てふ」(現在の東京都中央区日本橋室町一丁目)などの浮世絵を参照してください。)。
このように江戸の人々は、「山当て」による富士山を、あるいは愛宕山や筑波山を朝な夕な飽くことなく眺め、愛で、誇りにしていたのです。
1852年から1870年にかけて行われたパリ大改造において、セーヌ県知事、ジョルジュ・オースマンは、人工物である立派な建築物を道路の中央に置き、その両側に街路樹を整然と配して都市実感を強調する発明(シャンゼリゼ通りがその例です。)をしたのですが、「山当て」は、それよりもはるか以前に日本人が考えた雄大で美しい街づくりの手法だったのです。
この「山当て」を用いた町割りは新潟県の村上市、山陰の津和野、あるいは江戸時代に整備された雲仙温泉など、全国各地に数多く見ることが出来ます。なお、地方によっては、漁に出たときに海上から山を見て現在の位置を確認することを「山当て」と言う場合もあるようです。
城下町鶴岡は、1622(元和8)年に酒井忠勝が庄内に入府してから本格的な城の築城と城下の整備が始まり、凡そ30年以上を要して町の形態を完成させたと言われていますが、江戸と同様に「山当て」によって道路が整備され、人々は日常の生活の中に周囲の山々の姿を取り込み楽しみました。。
城下町鶴岡の街づくりが「山当て」手法を用いて行われたことを解明したのは、早稲田大学理工学部の佐藤 滋教授とその研究室の人々です。調査は今から10年ほど前に鶴岡市の委託により実施されました。その後、佐藤教授は、「造景」(1998−12,12)に「地方都市の潜在能力の探求 城下町の都市デザインを読む 近世城下町のまちづくり手法の発見」と題する報告をしているほか、「楽市楽座」(1998−23)の「市街地整備と商業機能の将来像」と題する一文に「眺望と風景の再生」としてこの調査成果を公表しています。
鶴岡城の本丸大手門の位置は,鳥海山と母狩山の山頂とを結ぶ線上とし、このラインとほぼ平行に本丸西の中堀と内川の線、更に東の中堀の南の部分が引かれ、それぞれの南北の水の軸から金峰山と鳥海山の眺望が確保されました。母校の近くに鶴岡城址の西側の堀に沿った通りがありますが、この通りは、北に鳥海山、南には金峰山が「山当て」されていたのですが、残念ながら今は校舎の陰になって鳥海山の姿は見えなくなりました。
内川の東側にある昔の十日町、三日町、五日町は町人町で、内川の流れが武家地と町人地とを区分しました。内川は、鳥海山、金峰山ラインがその軸であり、一方、町人町の中心は、現在の銀座通りで、鳥海山、母狩山ラインが軸となって、これを元に町割が行われました。鶴岡の城下の通りは、このように基本的には南北の強い方向性があるのですが、しかし、これらの道は平行ではなく、少しよじれた形をしています。このことは、金峰山、母狩山の二つの山の頂に向けての「山当て」がなされた結果なのです。これ以外の通りでは、母校と工業高校との間の通り、母校の東側通り、市役所の東側通り、昭和通りなどが、当時は母狩山もしくは金峰山を「山当て」して造られていました。
私が卒業した当時の朝暘第一小学校は、現在の国指定史跡「致道館」と鶴岡市文化会館の敷地一帯にありました。「致道館」の建物はまだ史跡としての指定がなされておらず、放課後の私たちの絶好の遊び場だったことを懐かしく思い出します(史跡としての指定は、1983(昭和29)年です。)。
その一小の校歌は、荒城の月の作詞で有名な土井晩翠によるもので、一番の歌詞は,「朝暘輝く鳥海山を はるかにながむる 学びのわが舎 東に月山 南に金峰」というものです。この歌詞にある鳥海山、月山、金峰山の山々は、鶴岡で生活しているときには余りにも日常的な風景で、あるのが当たり前のように感じていましたが、時折郷里に帰り、その目で周囲を見渡すと遠くに霞む鳥海、仰角の低く迫る金峰山、母狩山の山々は入念に街路や川や堀と対応しているのに改めて気がつくのです。
東の月山については街路との明確な関係が見て取れません。これは、月山が一つの高峰として聳えているのではなく、壮大な爆裂カルデア壁を見せながら山容が羽黒山まで引いているため、郊外の開けた場所からの雄大な眺めとして捉えられていたものと思われます。
城下町鶴岡の街路構成は、北の鳥海山、南の金峰・母狩山に西の高館山を加えた山々を山当てとする重なり合う放射線上の格子を下敷きとして成されたもので、現在でもあちこちにその名残を見ることが出来ます。
城下町鶴岡の街づくりにおいて解明された事柄は概略以上の通りですが、皆さんも鶴岡に帰られた際には、昔の人の街づくりにおける演出を感じながら市街を散策されてみてはいかがでしょうか。
ところで、第34回山形鶴翔同窓会総会の開会の挨拶のなかで、校友の東京工業大学大学院教授、斉藤 潮さん(第83回(昭和51年)卒業)が講談社現代新書から「名山へのまなざし」と題する本を著していること、そして第5章に「山岳と風景」と題する項目があって、その中に「故郷を離れて気がつくこと」と題する一文があること、さらに、「山岳と風景」と題する一文の大意は、『故郷で毎日決まった位置から眺めていた山岳、その距離あるいはその隣に位置する山々との相互関係を見ていると、その並びこそが「定位置」になる。故郷を離れていると忘れがちになってしまうが、故郷に戻って山々の「定位置」を目にすると、いつの間にかその土地に生まれ育った者の血肉になっていることを知る。それは故郷を離れての孤独や緊張感と裏返しで、故郷に戻った安堵感と深く結びあっていたのだろう。』というものであることを紹介しました。
人間がある程度の年齢になっても、はっきりと覚えている風景があり、それをその人にとっての原風景と言います。それは意識していようといまいと頭の隅に残っていて、ひょんなときにふっと意識の端に上ってきて、自分というものを再認識させてくれます。原風景とはそのようなものであろうと私は考えています。鳥海山、月山、金峰山、母狩山、高館山などの山々、水草が揺らぐ内川、赤川と河畔の野菜畑、桜堤、果てしなく広がる美田、その中のやや小高い位置にあるこぢんまりとした鎮守の森、鶴岡城址の老杉と堀の佇まい等々が私たちの原風景で、それは私たちが生まれ育った庄内の風景なのです。それらは、若い頃の私たちに、これからの生き方や考え方に少なからず影響を与えたものでもあり、共通する原風景を持った人々との繋がりは、自分がふるさとを離れてからできた友達、知人とはまた違って、懐かしいものを感じあえる、話し合える特別な仲間なのです。この原風景はいつも変わらず、しばしば郷愁を駆り立て、再びその姿に出会えば心の安らぎを保障してくれるのです。
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