「大ケヤキ」と「はんてんぼく」

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●「大ケヤキ」と「はんてんぼく」
 山形の500年の歴史を眺めながら現在に至っているといわれる諏訪町の古木「大ケヤキ」がJR山形駅から県庁に向かう大通りにあります。最近ここを通るごとに、葉を落とし冬の陽射しを受けて聳え立つこの「大ケヤキ」の枝ぶりに眼が行きます。女性日本画家の小倉遊亀さん、片岡球子さんと比肩される堀文子さんの作品と随筆「命というもの」の連載(サライ・小学館発行)にあった「次の春の命を内に秘め、総ての無駄を削り落とし永劫の命の骨格をまざまざと見せる冬の古木の威厳は、年とともに心に沁みる」(09年1月22日号)の一節を思い起こすからです。
 山形市内にもうひとつ気にかかる大木があります。それは霞城公園内の山形市郷土館(旧山形市立病院済生館三層楼)の前庭にある「はんてんぼく」です。われらの大先輩 大平驩さん(おおひらていすけ 1901〜1980 27回・大正8年卒)の著書『その日その日』(山形新聞社発行)の一文「はんてんぼく」にとり上げられています。
 朝日新聞の「天声人語」欄でとり上げた内容を大平さんが問題にした次のような随筆があります。
 「木々の葉が散り敷く銀座街路樹のゆりの木の記述に『チューリップの花に似た葉が』とあるのにオヤッと思った。この木の花はチューリップに似ている。だからチューリップ・トリーと言われるのであって葉がチューリップに似ているからではない。記述に間違いのないことを誇りとする大新聞であり、かつては若い日の十数年をそこでお世話になった私として、おせっかいと思ったが、筆者がそこへ行って葉を手にしたら、そんな間違いはしなかったに違いないとハガキを出してやった。数日して丁寧なあやまり状が届き『冷や汗もので恥ずかしい』とあった。筆者の素直さに私は満足した」  私自身もかつてメディアに身を置いた者の一人として、現場に立ち、自分の目と耳で確認して原稿にする重みを思い知らされました。それだけに私にとってこの大平さんの随筆は印象深いのです。社の先輩と大平さんについて話題にしたことがありました。この先輩は即座に「手元において時々読み返しているが、いつも心を豊かにしてくれる」と話していました。
 04年11月に「われらの大先輩 大平驩さん」をこのHPに投稿したことがきっかけで、高校長を退職して県立博物館に勤務した方から「大平さんの著書を読みたいので貸して欲しい」と申し入れがありました。博物館は旧済生館三層楼とは隣り合わせなので、この本にある「はんてんぼく」の所在を知りたいと前々から思っていました。学芸員に調べてもらって教えてくださいとお願いしたのです。早速に返事があり、この方も随筆を読んで奥さんと「はんてんぼく」を確認し、落ち葉を拾ってきたとのこと。私もすぐに教えてもらった目印をもとに駆けつけました。大平さんの「はんてんぼく」と対面、幹を軽く叩きながら「大平さんに教えられて出会うことができました」と挨拶しました。葉の形が半纏を干して形にそっくりです。初夏に蜜をたっぷり含んだ黄色い花が枝の茂った葉の間に咲くそうですが、高木のためほとんど気づくことはないそうです。
 08年9月1日に「日本画家 星川清雄(画号:輝洋)とその絵」を投稿した渡部功さんからつい先日問い合わせがありました。投稿「われらの大先輩 大平驩さん」の中に母の兄、星川兄弟のことが書いてありますが、もう少し詳しい記述が「その日その日」に載っていませんかというものでした。そこで本を引き出して確認し、「はんてんぼく」についても読み直しました。
 大平さんの随筆では、はんてんにそっくりだから「半纏木」。原産地アメリカでは、花を主としてチューリップ・トリー、日本では葉を主として「はんてんぼく」、ところ変わればものの観かたも変わる。山形大学の柏倉亮吉教授と一緒に羽黒の山道を本殿の方へ歩いていた時、微風に揺れ踊っている見なれない葉が目にとまった。 半纏の形そのまま、広い袖を両方に広げ胴をゆったり、草履ばきのいなせな職人さんが屈託なく街を行く。だからこそ半纏木なのだと知った。教授も私もその場ではんてん着の道化踊りを真似てワハハハと山の気に化かされていた。考古学の先生から教わった植物の薀蓄。爾来私の大好きな樹となった。「世におもねず飄々としてわが道を生きてゆきたい‥‥、そんな想いがいつもこの樹にまつわりついた」と大平さんは記述しています。
 冬木立の「はんてんぼく」の姿を見てみようと先日再会してきました。「老木も若木も一枚の葉も残さず、全裸の骨格を見せる冬枯れの樹木の姿、己の運命に逆らわず、風雪に堪えて黙々と生きる、その樹木の威厳に圧倒される」という大正7年生まれ90歳の日本画家、堀文子さんと大平さんのお二人の想いを改めて共にしようと考えたからです。旧済生館三層楼の前に来てわが目を疑いました。
 一本は途中からばっさりと切り倒され、残る一本も大きく枝打ちされて見る影もなくなっていました。モクレン科ユリノキ属の落葉高木である「はんてんぼく」は昔、北アメリカではインデアンが切り倒してカヌーを作ったので今では大きな木がなくなってしまったとのこと。大きくなると切り倒される運命にある木なのでしょうか。国の重要文化財の敷地にあるために30メートルの背丈にも伸びるこの木は、枝が茂ると厄介なものなのでしょう。
 渡部功さんによると県に自然保護課が出来た時に、自然環境保全地域、自然公園それに鳥獣保護行政に係わる重要事項を審議する「山形県自然環境保全審議会」の初代会長に大平さんをお願いし、自然保護の活動を一緒にしたとのことです。 
 『その日その日』には「公孫樹のきもち」「みどりの年代」「水清ければ」「春ひらく」「朴の木拝む」「魚影ざんげ」などなど山形の自然がリズミカルにして簡素な表現で鮮やかに描かれています。
この本の序では「最近、このような達意の文章作法はまったくといっていいほど見受けられなくなった」と当時の社長が述べています。そして「どんなに水が清くとも、魚が棲まぬということはない。‥‥その美しい水、その美しい魚になりたい。わが住む世のありさまもまたこのように汚れ少ないものにしてゆけたならば」と結んでいる随筆「水清ければ」をとり上げ、「そこに不条理の世俗を許さぬ、言論人としての真実を追究する姿勢がある。優れた書は現代に生きるものが後代に伝え残すべき貴重な財産である」と座右の書として推しています。
 「触診の温かい手」には、「東京医学校(東大の前身)を出てそこの助手をしていたところ、三島県令の誘いと先生の推挽に従って山形済生館に奉職した」と父上の想いを綴っています。それだけに、大平さんが寄せるこの「はんてんぼく」への愛着は格別だったのかもしれません。
 この書が上梓されて30年、今やchange、発想の転換、変革の時代。渡部功さんは県職員として天童の「県運動公園」の造成や飯豊町の「源流の森」の管理・運営に携わった人。旧済生館三層楼前の「はんてんぼく」について話しました。彼は早速、山形市に電話してその経緯を聞きだしてくれました。やはり旧済生館三層楼を管理する社会教育課の要望で公園緑地課が業者に指示したところ、業者が剪定を強くして惨めな樹形になったとのこと。
 最近自治体では予算がないせいか、公園などの樹木を必要以上に剪定しすぎて、せっかくの樹形を台無しにする傾向があります。「はんてんぼく」がのびのびと生育していた場所に、文化財を移築し、今度は邪魔だからといってしわ寄せがくるのでは「はんてんぼく」もたまったものではありません。
 堀文子さんが「名利を追い策に溺れる人間の愚かなあがきを見据える老木に、私は生きものの中の王者を感じる」(08年12月18日号)と記していますが、樹木が老木として生き延びるには人間が幾重にも立ちはだかっています。大平さんの「世におもねずに飄々としてわが道を生きてゆきたい」願いは老木・高木にも難しいご時勢になっています。
 渡部功さんの話では天童の「総合運動公園」は国道13号からの取り付け進入路に「はんてんぼく」の並木を造成しましたが、今は相当の大木になっているとのことです。この「はんてんぼく」だけは緑陰樹としてその特性を十分に生かし、のびのびと育つこと願っています。
                                                   2009年1月20日
追記
 この投稿の後で「福沢諭吉展」、「妙心寺特別展」が開催されている東京・上野の国立博物館に行く機会がありました。本館の正面入り口脇に植えてある人間が数人で手を広げても抱えきれない幹周りの巨木が目につきました。解説板を見ると、なんと「ユリノ木」<半纏木>北米原産の蜜源樹とあります。誰に遠慮することなく千手観音のように四方八方に大きく枝を広げて聳え立っています。由来の説明には「明治8・9年頃に渡来した30粒の種子から育った1本の苗木が明治14年に現在地に植えたといわれ、以来博物館の歴史を見守り続けている。東京国立博物館は『ユリノキの博物館』『ゆりのき館』などといわれる」と記されています。周りにはベンチが置かれて来館者が腰をかけて疲れを癒しています。もう春の息吹、新芽が膨らみ始めています。  旧済生館三層楼前の「はんてんぼく」、県立博物館が隣接しているので、東京国立博物館の樹齢130年の「はんてんぼく」の子孫ではないかという思いを深くしてしばしの間眺めてきました。
  
2009年1月26日