直江兼続の庄内統治と朝日軍道

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●直江兼続の庄内統治と朝日軍道
 今年のNHK大河ドラマは、上杉家の武将、直江兼続を主人公とする「天地人」です。ドラマの主題である「天地人」とは、中国に古くから伝わる「物事を成就させるためには、天の時(めぐり合わせ)、地の利(地勢の有利さ)、人の和(家臣、領民が良くまとまっている)の三つの要素が大切である。」という教えを踏まえた、上杉謙信の言葉に由来するといわれています。つまり、天の時・地の利・人の和の三拍子が揃った大将こそが理想とすべき大将であるというものです。
 上杉家は米沢を拠点として置賜地方を治めた大名という印象が強く、我々の故郷、酒井家の庄内とは馴染みがないように思えるのですが、実は、上杉家が一時庄内を統治したことがあるのです。
 1587(天正15)年10月、それまで庄内を治めていた大浦城主大宝寺(武藤)義勝が山形城主最上義光に制圧されました。しかし、武藤氏が失脚しても庄内は決して最上氏の領国化にはなっていませんでした。庄内を追われた義勝とその父の村上城主本庄繁長は、庄内奪還のため、軍備を整え、翌年初頭から越後と出羽の国境付近で小競り合いを繰り返していたのです。8月を向かえると繁長、義勝父子は反撃を開始し、鶴岡市郊外の「十五里ケ原」で最上勢を打ち破り、この戦の後、庄内は事実上本庄氏の支配するところとなりました(十五里ケ原古戦場は、1977(昭和52)年3月22日に鶴岡市の史跡に指定されました。)。
 1590(天正18)年8月10日、豊臣秀吉は会津黒川城で、奥州検地の厳令を発するのですが、庄内の検地は越前敦賀城主大谷吉継と上杉景勝によって行われました。ところが、検地が強行されると、庄内の地侍や寺社勢力は一斉に反発し、最上川の北では菅野大膳、南では平賀善可(ひらがよしかず)を首領とする強大な検地反対一揆が起こりました。一揆は、景勝によって鎮圧され、その後、厳しい「地侍狩り」が行われたのですが、金右馬充(こんのうまのじょう)をリーダーとする藤島城に拠った一揆のみは頑強に抵抗を続けました。これに対して景勝から事後を託された兼続は、一揆側と和議の交渉に入り、藤島城を開城させ、1591(天正19)年6月に到って、ようやく一揆は全庄内で消滅したのです。
 この地検反対一揆の責任を問われ、繁長・義勝は領地を没収されるとともに大和国(奈良県)に流罪となり、庄内は秀吉から景勝に与えられたのですが、景勝はその支配を兼続に委ねました。
 兼続は、一揆に関係した地侍・寺社を徹底的に弾圧し、羽黒山も「亡所(滅亡すること。)」となり、西の羽黒山といわれた上郷地区の荒倉一山も壊滅しました。その上で、検地を強行し、年貢の納入を「村請制(年貢納入を村単位とし、その納入については村全体で責任をとる制度のことです。)」として,その確保を図りました。一方、兼続は、新田開発を進め、また、立岩喜兵衛(たていわきへい)・志駄(志田)義秀を金山代官として、玉川村(立谷沢)の金山を開発し、さらに庄内の産物を移出するなどして庄内の振興にも尽力しました。
 1598(慶長3)年正月10日、景勝は、秀吉の命により越後から会津に移され、現在の福島県、山形県、新潟県(佐渡のみ)にまたがる領地 120万石を治めることとなり、3月24日に若松城に入りました。そして、兼続が米沢城主として、長井郡・庄内三郡(遊佐・田川・櫛引)・伊達郡・信夫郡併せて三十万石の統治を景勝から託されることになり、出羽の強豪義光と対峙することになるのです。以後、景勝が1601(慶長6)年7月26日、大阪城で徳川家康(とくがわいえやす)から、会津から米沢への三十万石減封を言い渡されるまでの約10年間、兼続は1591(天正19)年の統治に引き続き庄内の治世に関与したのです。この間、土地の把握として一部では貫高制であったところに石高制を導入するなどして新しい時代へ向けた施策の展開を試みたりしました。
 次に、庄内と兼続との関係では、なんと言っても米沢と鶴岡との間を結ぶために、兼続が朝日連峰に開削した「朝日軍道」のことを挙げねばなりません。
 いまから40年ほど前の夏だったと記憶しているのですが、当時山形県国立公園管理員を勤めていた西川町大井沢の志田忠儀(しだただのり)さんと共に朝日町の古寺鉱泉から幻の魚「滝太郎」伝説で有名な大鳥湖までのコースを縦走したことがありました。途中、西朝日岳東南斜面と狐穴小屋より以東岳へ向かう途中の中先峰の東南中腹斜面の笹原に微かに残るつづら折リの痕跡があり、これが軍道跡である旨説明を受けたことがありました。以来、この軍道については調査をしてみようと思いつつも、今日までほったらかしにしてしまいましたが、大河ドラマ「天地人」の放映開始を機会に参考文献をもとに、開削に到った背景、その後の経緯などについて纏めてみることにしました。
 軍道に関する参考文献としては、「朝日連峰」(1964(昭和39)年、山形県学術調査会刊行、地理班"直江兼続と朝日軍道"(山形大学教授・渡辺茂蔵))、「朝日岳の歴史をたずねて」(1984(昭和59)年、長岡幸月著、第一編、第二編)、「山形合戦」(1990(平成2)年、鈴木和吉著)などのほか各種山岳会の踏査報告などがホームページ上で公開されております。
 米沢城に居を構え、庄内三郡を支配することになった兼続は、米沢と庄内とを結ぶ道路が必要でした。米沢から庄内に到るには、六十里街道を使用したいのですが、この街道は宿敵最上の領地にあって使用したくとも使用できません。それ以外のルートとしては、@小国を経て村上に出るか、A米沢から会津に出て越後に向かうか、更には、B小国町の北小国樋ノ沢より分岐し、峠を越えて館越、村上に出る方法がありますが、いずれのルートも、上杉の後任の越後領主堀秀治(ほりひではる)の領地を通過せねばならず、また、Aは荒川沿いの現在の道路(国道 113号線)とは異なり、荒川から遠く離れた13の峠を切り開いたところから「十三峠」と呼ばれる道路でした。さらにこれらのルートは、一朝事があった場合には、米沢・庄内の連絡が中断される恐れが多分にあったので、兼続にとっては、両者の最短距離でしかも敵に中断されないルートとしては、それを朝日連峰に求めるしかなかったのです。これが「朝日軍道」なのです。
 秀治は、景勝が越後から会津に移封されると越前北庄城(現福井市)から春日山城(現上越市)へと移った人物であり、会津へ移った景勝が若松の北西部,神指村(こうざしむら)に新城を築城した際、「この普請は家康に対する籠城抗戦の準備である」と家康に訴えた張本人です。これが契機となって家康の会津討伐となり、やがて石田三成(いしだみつなり)の挙兵、関ケ原の役へと歴史は展開して行くのです(会津討伐は三成の挙兵により途中で中止となりました。)。
 「朝日軍道」の経路は、現在の長井市草岡から桶佐堀(おけさぼり)、葉山(1264メートル)、焼野平、御影森山(みかげもり:1534メートル)、大沢峰(1484メートル)、平岩山(1609メートル)、三十三曲坂、大朝日岳(1870メートル)、西朝日岳(1814メートル)、竜門山(1687メートル)、寒江山(かんこうざん:1695メートル)、三方境、狐穴、中先峰(なかさきみね)、以東岳(1771メートル)、ウツボ峰、三角峰(1518メートル)、戸立山(1552メートル)、茶畑山(1377メートル)、芝倉山(1250メートル)、葛城山(かつらぎやま:1121メ−トル)、高安山(たかやすやま:1244メートル)、兜岩(かぶといわ)、猿倉山(997メートル)を辿って鱒渕に到っています。
 総延長は約65キロメートル、幅員1.8メートルの道で、元々修験者達の通路であったものを1598(慶長3)年に1年間で開削したと伝えられているのですが、その完成スピードについては驚くしかありません。標高の高い山岳地帯に専ら人力によって道路を開設するということは、冬の到来が早く、融雪の遅い山岳地帯のために工期が短いこと、天候が平地とは違って急変しやすいこと、人や資材の輸送が困難であること、工事のための人夫小屋や飲料水の確保が容易でないこと、最上側に知られないように内密に、しかも早期に作業を進めなければならないこと等等問題点が多く、また、完成後も全行程を何日で踏破したかは資料がなく不明ですが、登山道が整備された現在でも最低四日はかかる行程を、多くの軍馬、食料、兵器等を輸送するには、並々ならぬ苦労があったものと想像されます。
 日付が1599(慶長5)年や1600(慶長6)年とある資料には、「庄内新道」と呼ばれたこの軍道に係わった役人に、「途中の小屋番をぬかりなく行え」と命じた文書や地元民複数名と道案内役のことで取り交わした文書があります。また、面白いことに、地元の修験者と思われる人物から義光宛てに「景勝軍勢が朝日山間道を開削するため、伐開乱入している」旨の通告がなされ、これに対し義光から通告者である大沼別当に安堵状が出ています。
 1600(慶長5)年9月5日、兼続は、宿敵最上攻めのため軍を三方(六十里越えルート、最上川を遡るルート、米沢・荒砥・虚空蔵山超えるルート)に分けて出陣させました。この戦いは、一般的に「出羽合戦」と呼ばれていますが、北の関が原の合戦とも称され、山形市郊外の「長谷堂」や山辺町の「畑谷」での合戦は激戦で、双方に多大な犠牲が出ています。ところが、この合戦中に兼続は、関が原で豊臣方の西軍が敗れたとの報(1600(慶長5)年9月15日(西暦では10月21日)に接し、急遽兵を引いて米沢城に引き上げました。このとき、東禅寺(酒田)城主・志駄(志田)義秀は六十里街道から最上軍を背後から突き、白岩城を攻略中でしたが、修理には兼続の撤退命令が届かず、城外からの情報を耳にするや、直ちに左沢から西に走り、大頭森山(だいずもりやま)、地蔵峠を越えて大井沢にでて、朝日軍道を通って酒田城に脱出帰還したといいます。富山城主の佐々成政(さっさなりまさ)が浜松城主であった徳川家康を訪ねるため、冬の立山・佐良(ザラ)峠越えを往復した話は有名ですが、11月初旬の朝日連峰はすでに冬の様相であり、義秀の山越えには相当の困難が付きまとったものと思われます。
関が原の戦いに勝利をおさめて覇権を確立した家康と豊臣方への義を貫いた故に対立した景勝は、1601(慶長6)年、大阪城にて覇者の家康より、会津から米沢への三十万石の大減封を言い渡されました。敗者の習いとはいえ、四分の一の減封は景勝にとっては耐え難い仕打ちでした。しかも、この減封には痛烈な皮肉が込められていました。すなわち、米沢三十万石はそっくり兼続の統治していた土地だったからです。景勝の領地は没収されたに等しいのです。
 これに対して、東軍に味方した義光は、「出羽合戦」における兼続軍の攻撃に耐えるとともに、その年内に庄内の尾浦城と南部を制圧し、翌1601(慶長6)年には、家康から庄内北部の攻撃に対する特別許可を得ていて、春早々に東禅寺城を攻撃し、4月には庄内での戦いに完全勝利を収めたのです。そして、その後、庄内三郡と由利郡の増加に預かり、現在の山形県の置賜地方を除く全域を領有する57万石の領主になりました。ここに、庄内は、最上家の改易に伴い、酒井忠勝(さかいただかつ)が入府する1622(元和8)年まで、再度最上領となったのです。更に、1603(慶長8)年6月1日、家康の計らいで最上と上杉は和解することになりました。
 このように奥羽の軍事的緊張が消え、それに伴い朝日軍道の必要性もなくなり、わずか数年間の使用の後、軍道敷地は、冬の季節風及びこれによって朝日連峰の尾根の東側にもたらされる大量の雪(偏東積雪)に耐え得る地域本来のハクサンシャクナゲ、ナナカマド、ミネザクラ、ダケカンバ、ハイマツなどの高山・亜高山低木群落や残雪が消えてのわずかな期間のみにわが世を謳歌するニッコウキスゲ、ヒナウスユキソウ、ヒナザクラ、イワカガミ、エゾイブキトラノオなどの雪田植物群落、あるいは背丈は1メートルほどですが生い茂って絡み合い歩行を妨げるチシマザサの群落へとその姿をゆっくりと戻していったのです。
  
2009年2月10日