「森敦 月山の世界」

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●「森敦 月山の世界」
 NHKの「私の一冊 日本の百冊」(2月13日)で、新井満さんが森敦著「月山」を紹介していました。新井満さんはギターを弾きながら小説「月山」の冒頭の一節「ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折の渓谷にわけ入るまで、月山がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした」と歌い始めて番組は始まりました。そして小説「月山」は、「死の山」を舞台にして死とは何かを検証することで、生きるとは何かをみごとに作品化した「生の文学」「希望の文学」と解説しました。

 TBSがナイターオフに1時間の大型番組「ラジオスペシャル」の制作を系列局に提案したことがありました。私にとって全国ネットの番組は初めての挑戦。前年に61歳で芥川賞を受賞して話題になった小説「月山」を音声で描いてみようと早速出演交渉。緊張しながら電話するとすぐに本人が電話口に出てきたのにはびっくり。「庄内・朝日村にはお世話になったので喜んでやりましょう」と快諾を得ました。
 TVのモーニングショー現地中継と抱き合わせの日程で、秋の農作業が終わった季節に2泊3日、寝食を共にしてデンスケ(録音機)をまわし続けました。小説のモデルになった村のじさま・ばさまとの再会の場面も取材できて、最後に出演料を差し出したときに雷が落ちました。「なんですか、この金額は! 私の講演は、いつも2時間30万円です。あなたには、この3日間しゃべり続けさせられました」。 出演をお願いした時にあっさりと受けてくれたので、ギャラを提示するまでにいたっていませんでした。このときに差し出した放送ギャラは3万円か5万円かでした。金額の多寡ではなく、この金額ではプライドが許さなかったのです。しかし「あなたの立場もあるでしょう。いい番組を作ってください」と励ましてくれました。

 番組タイトルを「ラジオスペシャル 森敦 月山の世界」とし、村人の求めに応じて色紙に書いた「月山」の根幹をなすテーマ、孔子の言葉「未だ生を知らず 焉ぞ死を知らん」をはじめとして、「われ秘かに月山に入りしに 知る人もなかりし」「月山 この山にして この広大なる山ふところのあるなり」「月山 すべての吹きの 寄するところ これ月山なり」を起承転結の柱にして構成することにしました。
 私の家に森さんから電話がありました。「番組の制作は進んでいますか。新井満君という青年が、私の小説の文章そのままに曲をつけて歌って、レコード化することになりました。番組に使えるかもしれません。彼を紹介します。あなたのことは話してあります。連絡を取ってください」とのこと。広告代理店「電通」神戸支局に勤務している新井満さんに電話で挨拶すると、それから組曲「月山」誕生までの新聞記事や、番組制作に間に合わせるためにリリースする前に録音テープで10章からなる音源などを相次いで送ってもらいました。

 新井満さんは森敦さんと出会ってこの組曲「月山」を発表してからシンガー・ソングライターになり、作家としては「尋ね人の時間」で芥川賞、長野冬季オリンピックの開閉会式のイメージ監督、英語の詩を翻訳して作曲した「千の風になって」は話題を呼びDVD、絵本などロングセラーになっています。また日本ペンクラブ常務理事として、平和と環境問題を担当するなど多方面で活躍しています。

 昭和51年1月、俳優の三国一朗さんの「冬の夜にじっくりと聴いてもらいたい番組です」という解説で放送が始まりました。放送終了後に森さんに電話をしましたが、話し中でしばらくの間つながりませんでした。ようやく電話がつながったとき「知人・友人にラジオを聴くように連絡しておいたので、放送終了後に、『いやぁよかった。民放のラジオも聴いてみるものだ。組曲と小説の舞台になった村の雰囲気がよく溶け込んでいた』といった感想が相次ぎました」と大変なご機嫌。「東京に来たときはぜひ立ち寄りなさい」とまで言ってくれました。
 しばらくして「市谷に引っ越してきたから、私の家にいらっしゃい」とまたまた電話。出張のときに山形の酒を抱えて訪問する機会が多くなりました。

 森さんが冬を越した旧朝日村注連寺に昭和56年、地元の有志が広く呼びかけて文学碑を建立したのをきっかけに「月山祭」が始まりました。「森さんの人物、作品、思想を語り合う」集いで8月最終土曜日に全国からファンがつめかけました。この企画に森さんは自費で、小島信夫、瀬戸内寂聴、中上健次、古山高麗雄、勝目梓、司修、高野悦子、宗左近、宮城まり子、森毅の各氏ほか多くの作家、文化人が参加し、新井満さんは毎回参加していました。夜は注連寺で「森の花見」といって会費制で懇親会、最後は新井さんの哀愁をおびた歌声「佐渡おけさ」と、組曲「月山」の「月の山」でお開きとなりました。「世話になった感謝の気持ちをいつの日にか返す。自分が返せなくとも友達か誰かが返せばいい。これが仏教の慈悲・因果応報、根本思想」という森さんの気持ちが、8年間にわたり参加者を募っていたのでしょう。

 60歳こえての芥川賞受賞の異色の作家として話題になり、ラジオ・テレビでも引っ張りだこにされていた森さんでしたが、「鳥海山」「意味の変容」「われ逝くもののごとく」(野間文芸賞)など、40年の放浪でためてあったマグマを噴出するかのごとく数多くの著作を発表しました。平成元年7月77歳で死去しましたが、創作活動のパートナーであり養女でもある富子さんが編集委員の1人となって、「森敦全集」(筑摩書房)全8巻、別巻1を刊行されました。

 森さんが急逝の後は旧朝日村が予算化し、名称も「月山文学祭」として、新井満さんが窓口となり、鶴岡市と合併するまで森さんの遺志を受け継いで、朝日中学校を会場に開催されました。堀江謙一、谷川俊太郎、谷川賢作、さだまさしの各氏らが朝日中学校で講演、演奏をしました。

 富子さんから「湘南に転居する前に遺品や書斎を見ておきませんか」と誘いを受けました。また、藤沢の家は資料や遺品を管理するために空調と防火・地震に万全を期した書庫を建てたとのこと、ここにも訪問しました。「月山」「われ逝くもののごとく」の直筆原稿をはじめ、単行本に至るまでの、草稿原稿や朱入れした校正過程のゲラも保存されていました。また、短編小説やエッセイの直筆原稿の入った整理箱が積み重ねてありました。さらに、「森敦全集」に収録した作品すべての初出の雑誌・週刊誌・新聞切り抜きが整理保存されています。直筆の書や色紙、写真、遺品も保存されています。遺品の中には、注連寺で過ごしたときに着ていた絣の着物も残っているとのことです。 こうした森敦関係資料は、森敦研究に資するためにも、一括寄贈したいとのことです。代表作は庄内が舞台であり、庄内を愛した作家でもあるので、鶴岡に、防火・地震、盗難に配慮した資料館があれば、喜んで寄贈したいとのことです。森敦関係資料を散逸させないためにも、受け入れ態勢の整う日のくることを心から熱望しています。(HPの関連リンク集 郷土関連 「森敦資料館」参照)

 朝日新聞山形版(1月17日付)に掲載の「鶴岡ゆかり 業績展示や人物解説 偉人たちも苦笑い?」という記事に驚きました。【郷土の殿堂「大宝館」に展示される対象は鶴岡市出身か市の発展に功績のあった人に限る。検討委員会で候補者 190人を選び、市教委が決定した。旧朝日村名誉村民第一号に推挙され、合併で鶴岡市の名誉市民になった森敦さん、旧櫛引町出身の横綱柏戸ら10人が「殿堂」入りも「名誉市民室」入りもしない】とのこと。そして森さんは、鶴岡市教育委員会が編集・発行する「鶴岡が生んだ人びと」の新装版からも漏れたそうです。名誉市民担当の総務課は、「基本的には旧町村で顕彰していて、必ずしも大宝館、名誉市民室に全員そろう必要はない」という。【偉人たちは役所の縦割りや、評価を苦笑しているかもしれない】と記事は結んでいます。
 森敦さんの資料を、一括して寄贈を予定している養女の富子さんの心境は、非常に複雑なことでしょう。
 「ワッハハハ そうですか。私はひとり、いつまでも超然と聳えたっている月山にいますから」と森さんの豪快なあの笑い声が聞こえてくるような気がします。応接室のテーブルに書き残してあったという最期のことばの自筆文字「われ浮雲の如く放浪すれど こころざし常に望洋にあり」を思い起こすからです。
  
2009年2月21日