西郷隆盛の銅像のモデルは山形県人

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●西郷隆盛の銅像のモデルは山形県人
 去る2月3日、いつもより遅い朝食をすませ、なにげなくテレビ朝日の「スーパーモニング」を見ていたら、レジェンド・ハンター(伝説探求人)なるレポーターが、『鹿児島の安藤 照作の西郷銅像のモデルは山形県人であった。』と得意げに説明していました。
 西郷隆盛の銅像といえば、まず一番に上野公園内の銅像を思い浮べます。着流しで薩摩犬・ツンを連れた姿で、高さが 3.7メートルあり、我々のようなおのぼりさんを高い台の上から温かく迎えてくれます。「南州翁遺訓」を編纂した旧庄内藩士の赤沢源也や三矢藤太郎が鹿児島留学中にお供をしたであろうといわれているウサギ狩のときの姿です。製作者は高村光雲(ただし、連れの犬は和歌山出身の後藤貞行という人の製作だそうです。)で1898(明治31)年の完成です。西郷隆盛は写真嫌いで1枚も写真を残さなかったため、実際はどのような風貌であったのかは判りません。この銅像の完成除幕式の時に招待された西郷の妻糸子さんは『うちの人はこげじゃなか。』といったそうです。
 一方、郷里鹿児島の銅像は、私も2001(平成13)年11月の鹿児島旅行の際に見ているのですが、城山を背景にして市立美術館の前庭にあり、軍服姿でりりしく天を仰ぎ、高さは6メートルありました。この銅像は、1873(明治6)年、陸軍大将として習志野で行われた大演習に参加したときの姿を表現したものと伝えられているもので、同郷の彫刻家安藤 照が、1928(昭和3)年に東郷平八郎より依頼を受けてから、体格や外見の表現研究のために国内はもちろん、欧州にまで出かけて勉強研究し、依頼から9年目の1937(昭和12)年にようやく完成させたといいます。
テレビの放映が気になったので早速このレポートの論拠になった2008(平成20)年12月30日付けの南日本新聞記事を見るためにウエブサイトを開いてみたら興味ある記事が出ていましたので、これを紹介してみたいと思います。要約すると記事の内容は次のようなものでした。

 城山・西郷像モデル、故石澤さんの写真発見/宮城県・仙台市“真のモデル”といわれる山形県の男性、元山形県議会議員の石澤宏太郎(いしざわこうたろう)さんの写真が、仙台市の遺族宅で見つかった。西郷が実際に着用した陸軍大将の軍服を東京・代々木にあった安藤のアトリエで身に着けた写真など17点で、安藤 照と書かれた名刺と共に保管されていた。安藤が製作を依頼された際、西郷の孫の故西郷隆治さんらにも軍服を着せ試行錯誤を繰り返したといわれる。しかし、隆治さんは五尺九寸(約 177センチメートル)の西郷と比べて体が小さかった。
 仙台市に住む石澤宏太郎の孫、石澤文雄(ふみお・62歳)さん、徳幸(のりゆき・60歳)さんの兄弟によると宏太郎さんは身長約五尺八寸(約 175センチメートル)、体重90キログラムの大柄。1935(昭和10)年、胸像製作を安藤に依頼する親類に付き添いアトリエを訪ねた際、モデルを切望されたという。「顔と後頭部」を特に気に入られたらしい。西郷の遺族らにも面会し、『本人そっくり。』といわれモデル台に立った。宏太郎さんは『安藤氏はにらむようにして2時間も私の顔から目を離さなかった。』と語り、さらしなどを巻いて軍服を着たという。写真は、四方向から撮った宏太郎さんの軍服姿や頭部など15点。忠犬ハチ公像や安藤の写真もあった。
 安藤 照は鹿児島市出身で帝展審査員も努める彫刻会の重鎮だったが、1945(昭和20)年の東京大空襲で爆死。『知る人が私だけになった。』と宏太郎さんは1950(昭和25)年に経緯を明らかにした。同年12月7日付け南日本新聞にも「山形にいた銅像のモデル」として『モデルを探したが、貴方ほど似ている人はいない。』と安藤が懇望した逸話とともに紹介している。だが、その後は鹿児島ではほとんど取りざたされることはなく“秘話”となっていた。彫刻家で長男の安藤 士(あんどうたけし)さん(86歳)=東京都渋谷区在住=も『アトリエで西郷さんの軍服を見たが、着ていた人は知らなかった。』という。徳幸さんは『銅像の後頭部は祖父の特徴がでており、遺族として誇りに思う。目は隆治氏によく似ていると思う。長い時間をかけて独自のイメージを作った安藤氏に敬意を表するとともに幕末から維新にかけての薩摩と庄内(山形)の奇縁の一つとして、祖父のことを知ってもらえば。』と話している。
 掲載写真は、一つ目は、安藤照のアトリエで撮影された西郷隆盛の軍服を着た石澤宏太郎さんの写真(1935(昭和10)年ごろのもので、写真には西郷像のひな型、頭部、肖像画などが見える。)、二つ目は、完成した鹿児島の軍服姿の西郷隆盛銅像、三つ目は、モデルとなった西澤宏太郎さんの正面を向いた姿が掲載されています。

 「南州翁遺訓」の初版本が旧庄内藩士の手で編纂されたことを考えると、石澤宏太郎さんの出身が庄内だったらどんなにか劇的なことであろうことかと思い、身元調査に乗り出すことにし、早速、手持ちの「山形県大百科辞典」の資料編 106ページの「歴代県議会議員一覧(山形県議会史編纂委員会)」を開いてみました。
 ところが、昭和6年9月25日選挙の当選者欄の東村山郡選挙区の欄に「石澤基吉」、昭和10年9月25日選挙の当選者欄の同じく東村山郡選挙区の欄に「石澤 博」という人の名前が掲げてあるのですが、どういうわけか「石澤宏太郎」という名はいくら探しても見当たりませんでした。そこで、奥の手として2月19日、かって職場で机を並べたことのある現山形県議会事務局議事調査課長の草苅信博さんに調査のご無理をお願いすることにしたところ、2月22日に、「石澤宏太郎というのは、石澤基吉さんが1936(昭和11)年9月2日に改名した後の名である」旨の嬉しい返事をもらいました。さらに、石澤さんは、1890(明治23)年4月9日、現在の中山町生まれであること、1931(昭和6)年9月25日の選挙で県議会議員に当選していること、4年後の選挙の当選者名簿にはないので、議員としての活動は1期で終わっていることを知りました。さらに、面白いことに「石澤宏太郎」さんに関する県議会の資料の特記事項欄には「鹿児島県城山公園下南州神社の西郷隆盛銅像のモデルになった」と記してあったことまでわかりました。解答に苦労していた難問が解けたような喜びを感じ、草苅さんには県議会開催中の最中、早速に回答をもらい衷心から感謝しています。
 結局。安藤は、製作依頼から6年間は、調査研究に時間を費やし、石澤さんというモデルを見つけて(1935(昭和10)年)からは一気に製作に拍車がかかり、3年目にしてついに銅像を完成させたことになります(1937(昭和12)年)。この間に石澤さんは、基吉から宏太郎と改名したわけです(1936(昭和11)年)。
 調査の結果、石澤宏太郎さんは庄内の出身ではありませんでしたが、同じ山形県人として西郷隆盛と関わりがあったということはまことに奇態なことと言わざるを得ません。
 ついでですが、西郷隆盛の銅像はこのほかにあと2像あることがわかりました。三つ目は鹿児島県霧島市溝辺町の鹿児島空港近くの西郷公園にあります。もともとは西郷没後 100年記念事業として鹿児島出身の資産家が京都市霊山(りょうぜん)護国神社に建立するために作られたものだそうです。製作を佐賀市出身の彫刻家古賀忠雄に依頼したのですが、1976(昭和51)年に製作依頼者が死亡したため、以後、10年以上富山県高岡市の鋳造業者の倉庫に眠ることになりました。製作者の方も1979(昭和54)年に亡くなったのですが,その子で彫刻家の古賀 晟氏が鹿児島に建てたいと運動した結果、地元のかたがたの協力もあって、1988(昭和63)年、当該地に立てられたものです。こちらの銅像は、高さ10.5メートルで、袴姿の西郷が腕組みをして口を真一文字に結び、鹿児島方面をきっとした眼差しで睨んでいます。
 最後の銅像はJR鹿児島中央駅の西側にある西郷公園(西郷屋敷跡)にあります。ここは西郷が下野して鹿児島に帰ってきてから住んでいた場所です。ここの銅像は「徳の交わり」と称するもので、1875(明治8)年に庄内藩の菅実秀(臥牛)が西郷を尋ねてきて対話している姿を現しています。二人とも羽織袴姿ですが、西郷は懐手、実秀は膝上に手を組んでいます。作者は三重県出身で鹿児島大学教授などを勤めた彫刻家の中村晋也さんです。なお、この銅像と同じものが2001(平成13)年、酒田市の南州神社にも建立されています。
 山形県、なかんずく庄内の人々の西郷を敬慕する心は今も変わりませんが、銅像に関しても山形県人が何らかの形で関わっていることがわかりました。すなわち、上野公園の銅像建立に際しては、旧庄内藩13代藩主酒井忠篤(さかいただずみ)が発起人の一人として名を連ねており、鹿児島の銅像では、石澤宏太郎元山形県議会議員がそのモデルであり、西郷公園の徳の交わり像では旧庄内藩重臣菅実秀(すげさねひで)が西郷と直接対座するなど、その奇縁には驚くほかないのです。
  
2009年3月1日