南州翁遺訓の上梓と頒布の全国行脚

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●南州翁遺訓の上梓と頒布の全国行脚
 私の義父は三矢正健(みつやまさたけ;37回(昭和4年卒))といいます。義父は、健康にも留意していましたから、卒寿の祝いを迎えたあたりまでは、『ここまで来たのだから何とか百歳まで生きてみたいものだ。』と力強く話をしていたのですが、2006(平成18)年に妻に先立たれ、同じ年に兄弟姉妹で唯一生存していた妹をも亡くしてからは、これがきっかけになって急激に気力、体力共に衰えが進み、残念ながら2007(平成19)年12月、老衰のため享年97歳で西方浄土へ旅たちました。
 この義父の祖父にあたる人に三矢藤太郎という人がおります。この人は旧庄内藩士だった人で、今も多くの人々に読まれている「南州翁遺訓」の初版本の編纂者の一人でありました。今回は記憶力のよかった義父から聞いた話などを含めてこの「南州翁遺訓」の編纂、上梓本の全国頒布の行脚等に纏わる話をしてみたいと思います。
 1868(慶応4)年9月4日、元号が慶応から明治へと改められました。奥羽越列藩同盟の一員として最後まで薩摩、長州、佐賀などの政府軍と戦火を交えていた庄内藩は、周囲の情勢を判断のうえ、同年9月26日、中老水野藤弥を正使に、郡代兼軍事掛の山岸嘉右エ門を副使として、古口まで到達していた政府軍参謀黒田了介(清隆)に会い、降伏謝罪する旨を伝えました。このとき、黒田は、降伏条件として、城地を献納し藩主は菩提所で謹慎すること、兵器を全部取り揃えて差し出すこと、国境の兵を撤退させることを述べ、この条件を書類にして二人に与えたのでした。その日の夕刻、黒田参謀は早くも鶴ケ岡に着き本陣に当てられた藩校致道館に入りました。その夜半、庄内藩13代藩主酒井忠篤(さかいただずみ)は礼服を着けて単身致道館に出向き、黒田参謀の前に謝罪したのです。ここに庄内藩は奥羽越列藩同盟の最後の降伏者として、新政府の軍政下に入ったのです。忠篤に会った黒田参謀は、新発田にある北越総督府に速やかに出頭して指示を受けることを伝える一方、藩士に対しては所持していた刀槍、銃器の一切を差し出すことを指示しただけで、この日は終わりました。藩主は敗将としての屈辱を受けることもなく、藩士は自宅で謹慎するという意外な処置ですんだのです。同日、政府軍は酒田に入りましたが、その軍勢は、薩摩ほか長州、小倉、鍋島、秋田、新庄、本庄、八島、加賀、出雲、肥後、備前など約4千人を数えたといいます。翌27日、黒田参謀が鶴ケ岡城と武器の接収を行い、同時に政府軍の民政局と軍務局が枝城の酒田・亀ケ崎城に置かれ、戦後の統治を行うことになりました。
 庄内藩降伏の際、西郷隆盛が鶴岡に来たかどうかについてですが、「臥牛菅実秀」に書いてあったことを要約すると次のようになります。 。

 西郷は黒田のあとを追って最上川を下り、清川から鶴岡に入り、黒田が降伏の処分を終えるのを見て新発田に立とうとしたが、黒田のたっての希望により鶴岡滞在を延ばし、29日に黒田と共に鶴岡を去った。後日、西郷は鶴岡では街道に橋のあるところの旅館に泊まったと庄内の人に語っているが、その旅館は七日町の加茂屋文治で、橋は神楽橋のことである。

 曲輪外(くるわそと)の禅龍寺で謹慎していた忠篤が黒田参謀の指示に従い新発田の総督府に出頭するために鶴岡を出発したのは10月9日のことでした。そして、そのまま東京に向かい、11月には朝命を待つため東京の菩提寺芝の清光寺で幽居の生活に入りました。
 12月、奥羽越列藩同盟藩に処分が下りました。庄内藩では、封地の没収は勿論のこと、藩主への厳罰を覚悟していたところですが、意に反した異例とも言うべき寛大な処分が下されました。酒井家は一旦断絶、忠篤は引き続き東京で謹慎し、藩主の弟の忠禄(ただもち)(後に忠宝(ただみち)と改める。)が新たに家督を嗣ぎ、新領地12万石に移封されることになりました。これにより庄内藩は存続することになりましたが、皮肉なことに移封先は奥羽越列藩同盟の中心となり、悲劇の落城となった会津でした。
 1869(明治2)年1月、移封命令阻止のため庄内藩を代表して側用人(5月に中老)の菅実秀(すげさねひで)が東京に出向き、西郷に面会したいと思ったのですが、すでにこのとき西郷は鹿児島に帰ってしまっていました。そこで次に黒田を訪ねて降伏処分の極めて寛大であったことを感謝しところ、黒田は『あれは私の措置ではなく、すべて西郷隆盛の指示でやったこと。』といったといいます。これについて、徳島文理大学八幡和郎教授は、「江戸 300藩最後の藩主」(光文社新書)において『考えてみれば、庄内藩は二度にわたって西郷ら薩摩に大きなプレゼントをしたのである。お国替え反対で雄藩の幕府からの不可侵性を強化し、薩摩藩邸焼き討ちで旧幕府勢力武力制圧へのきっかけを与えたのであるから、西郷は庄内にいくら感謝しても感謝しすぎることもなかっただろう。』と述べており、また、鹿児島市青年経営者協議会の今村多太志さんも機関誌「西郷隆盛の菩薩道」に八幡和郎教授と同様の趣旨のエッセイを掲載していますので参考までに紹介しておきます。
 この年の6月には、酒井家の移封先が会津から岩城平へ変更となり、8月までに移封を完了するよう命ぜられたのですが、これも70万両の献金を条件に7月に入って中止となりました。更に、9月には、前藩主忠篤の謹慎が解かれ、このことは、この年、献金のことや大凶作となり暗い気持ちとなっていた庄内藩にとっては、ただ一つ大きな喜びとなりました。
 西郷のこの寛大な処置を「忘れてはならぬと肝に銘じた」忠篤は、1870(明治3)年8月、親書を託して旧家臣の犬塚盛魏(いぬずかもりたか)、長沢惟和(ながさわこれかず)を鹿児島に派遣しました。両名は、西郷と交わると共に兵器製造所や紡績所を見学するなど鹿児島の内情を視察して帰りましたが、同じ年の10月28日、忠篤は藩士の中から選抜した18名の青年と近習頭、近習11名を連れて横浜を出向し、海路、鹿児島には11月17日に到着しました。そして、一夜を置いて直ちに薩摩隼人の兵学の猛練習に飛び込んだのです。更に、11月になると黒埼 薫はじめ47名の藩士たちが鹿児島に向かい、先発の人たちと合わせると合計76名の庄内藩士が翌年4月まで滞在して西郷の知遇を得て兵学を修めて帰国したのです。
 1871(明治4)年、西郷は鹿児島から上京しますが、4月に菅実秀が初めて会見し、「旧知の如く」意気投合して、以後両藩首脳の親交は一段と深まったのです。
 西郷隆盛は、1873(明治6)年のいわゆる「明治6年の政変」で参議を辞し、同年11月10日鹿児島に帰りましたが、翌1874(明治7)年には、旧庄内藩中老の酒井了恒(さかいのりつね)が、伊藤孝継(いとうたかつぐ)や栗田元輔と共に鹿児島を訪れ、初めて西郷に面会して参議辞職の事情を聴いています。さらに、同年11月には、旧家臣の赤沢源也や三矢藤太郎(みつやとうたろう)も菅の指示で鹿児島を訪れて翌年1月まで滞在し、西郷から教えを受けたり狩に同行したりしています。続いて1875(明治8)年2月には、菅実秀が松平甚三郎(久厚)、石川仁平(静正)(いしかわじんぺい(しずまさ))ら6人と共に鶴岡を発ち、4月8日に新橋駅から鹿児島へ向かい、鹿児島では滞在20日余、この間西郷の教えを受けています。
 1877(明治10)年の西南戦争で敗者となった西郷は賊名呼ばわりされたのですが、1889(明治22)年2月11日の大日本帝国憲法発布の特赦によって賊名が取り除かれると共にその英霊に「正三位」という名誉も与えられました。また、この機会に上野公園に西郷の銅像が立てられることになり、忠篤も発起人の一人に名を連ねました。同時に生前西郷から教わった事柄を集めて遺訓集を編纂することになり、菅実秀の指導によって赤沢源也と三矢藤太郎が担当することになりました。明治政府からの妨害もあったようですが、旧庄内藩の人々はその妨害を断固として退け、翌1890(明治23)年1月に「南州翁遺訓」は上梓されたのです。部数千部の発行でした。西郷の寛大な処置に報いる庄内人の恩返しとも言うべき集大成でした。
 『道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也(現代語訳:人が正しく生きる道というのは、何も人工的に"つくられたもの"ではなくて、人の上に天があり、人の下に地があるように、ごく自然に、もとからあるものだから、人というのは、素直にそれに従っていれば、自ずから正しく生きることが出来る。だから、生きてゆく上では、ただひたすら、"天を敬する"ということを心がけていればよい。天というのは、他人も自分も、同じように愛してくれるから、私達も、天の心と自分の心を一致させて、自分を愛するのと同じように他人を愛することである。)』(南州翁遺訓第24章)
 この遺訓が南州翁の根本心情である『敬天愛人』といわれるものです。
 遺訓の発行を機に忠篤は、4月に入ると伊藤孝繼、田口正次を東京中心に、三矢藤太郎、朝岡良高を中国地方から九州へ、富田利騰(とみたとしのぶ)、石川静正を北陸から北海道へと、全国の心ある人々にこの南州翁遺訓を配布するよう遣わしたのです。風呂敷包みを背負っての全国の行脚でした。この結果、西郷と旧庄内藩家臣達との魂の交わりの結晶である南州翁遺訓集は、後世に永く伝えられることになりました。旅は今のように交通機関の発達した時代と異なり、行脚には大変な苦労が伴ったことと想像されます。
 中国地方から九州へ向かった三矢藤太郎、朝岡良高がこの旅の途中で出会った風光明媚な紀州和歌の浦や静かで美しい播磨の須磨の浦の景観は、清涼剤のように気持ちよく爽やかにして行脚の疲れを癒してくれたことでしょう。後に藤太郎は、孫である長男正敏の長女に和歌の浦から「和歌子」と、次女には須磨の浦から「須磨子」と命名したのでした。藤太郎にとって、遺訓頒布の旅を無事終えたことは誠に感慨深いものであったものと想像されます。
 北陸から北海道を担当した石川仁平(静正)は、画人としても著名な人で、池田亀太郎などと庄内の洋画黎明期を支えた一人です。1870(明治3)年に忠篤と共に鹿児島で練兵修行をしてきましたが、1875(明治8)年にも菅実秀と一緒に鹿児島を再訪して西郷の風貌に接しました。このときの印象をもとに西郷の肖像を描いています。写真嫌いで有名な西郷隆盛の顔は絵でしか残っておらず、実際に顔を見て描いた画人は、パステル画のイタリア人のキヨソネ、服部英龍、床次正精(とこなみまさよし)それに石川静正の4人しかいないといわれています。庄内でよく見かける西郷隆盛の肖像画は、65センチメートル×50センチメートルの大きさの油絵で、1913(大正2)年の作品です。後に鹿児島出身の画家、黒田清輝が肖像画家として令名が高かった門弟の佐藤均という画家にこの絵の修正を勧め、完成したものがありますが、この絵を見て西郷隆盛夫人の糸子さんは、『もっとも実物に近い』と言ったそうです。
 庄内の人々の西郷隆盛を敬慕する心は今も昔も変わらず、1976(昭和51)年、故長谷川信夫さん(39回、昭和6年卒)により酒田市飯盛山に「南州神社」が建立され、その前年9月に設立した「財団法人荘内南州会」は現在も西郷隆盛の大徳を称える活動を続けています。
  
2009年4月1日