●名勝・酒井氏庭園について
「名勝・酒井氏庭園」のある致道博物館の敷地は、鶴ケ岡城の外囲に当たる三の丸だった場所です。鶴岡市観光連盟のホームページによれば、酒井氏入国当時から広大な藩の御用屋敷だった土地で、慶安年間(1648〜1651年)には、3代忠勝の次男忠俊の住居があったそうです。しかし、現存する建物は、1863(文久3)年に11代忠発(ただあき)の隠居所として庭園に面して建てられた御隠殿の玄関と奥の座敷(関雎堂;かんしょどう)だけです。奥の座敷では「能」を演ずることができるように、きれいな床板が張られ、床下には音響効果を良くするために大きな甕が据えられていたそうです。座敷の名称である関雎堂というのは、南州翁遺訓の序文を書いた副島種臣(そえじまたねおみ)が1891(明治24)年8月に来鶴し、この座敷で詩経の一節、関雎の講義を忠篤(ただずみ)、忠宝(ただみち)等にしたことに因んで名づけられたものです。また、座敷より続く茶室は、中老菅實秀の遺愛の庵を1951(昭和26)年に移築して「三餘室(さんよしつ)」と命名したものです。「餘」とは、「余暇」の意味で、「三餘」とは、中国の故事で、読書に最もよいといわれる三つの時のことで、「一年では農業の忙しくない冬の季節(年の余)、一日のうちでは夜(日の余)、天候では雨の降る時(時の余)」をそれぞれ指します。
その他の建造物としては、1956(昭和31)年に県重要文化財の旧鶴岡警察署が、1965(昭和40)年に多麦俣集落にあった茅葺の兜造の旧渋谷家住宅が、1972(昭和47)年に重要文化財の旧西田川郡役所が敷地内に移築されました。また、1982(昭和57)年には重要有形民族文化財収蔵庫が新築されています。
《参考》
『子日、関雎楽而不淫、哀而不傷』 (子(し)日(のたま)わく、関雎は楽しみて淫(いん)せず、哀(かな)しみて傷(やぶ)らず)
◆解釈:孔子が言われました。「詩経の最初の『関関雎鳩、在河之洲、窈窕淑女。君子好逑(関関たる雎鳩(しょきゅう)は河の洲に在り、窈窕(ようちょう)たる淑女は君子の好逑(こうきゅう))』に始まる詩編は、浮き浮きとして楽しいが取り乱すほどでなく、哀愁を帯びているが心を傷めるほどでもない、誠に調和の取れたよい歌である。」
◆詩の解釈:カンカンと鳴くミサゴ鳥は黄河の中洲に。しとやかで美しい乙女は君子の好き妻にという意味で、結婚する男女を祝福して歌ったものです。
さて、御隠殿の奥の座敷から眺める古庭園はとても美しく、大名屋敷の広壮な面影をしのぶことができます。東北地方では稀に見る貴重なものとされ、1976(昭和51)年12月27日に文化財保護法に基づく国の「名勝」に指定されました。江戸初期の作庭とされていますが、記録がないために具体的な作庭年代、作庭師などは不明です。ただ、この庭園の庭石は地元の金峯山や鳥海山のものが主で、「綿積石(わたつみいし)」は用いられていないと言われていますので、これから作庭年代を江戸初期と推定したものと思われます。「綿積石」というのは、綿を積んで航海する船が、船の安定性を確保するために船底に積む石のことをいい、海難を避ける「海神石(わたつみいし)」でもあったのですが、日本海海運が盛んになった江戸中期以降、庄内から上方に米などを積んでいった帰りに、同様の理由で全国の銘石を帰り荷としたものも綿積石と呼んだのです。北前船の基地の一つとなった酒田には「綿積石」が各地からもたらされ、本間邸庭園や本間美術館の鶴舞園には伊予の青石、京都の鞍馬石、佐渡の赤玉石などの綿積石が庭石として数多く使用されています。
県内ではこの酒井氏庭園のほか、九輪草(くりんそう)の寺として親しまれている鶴岡市羽黒の曹洞宗・国見山・「玉川寺(ぎょくせんじ)の庭園」と「きのこ杉」の参道で有名な酒田市松山の曹洞宗・洞龍山(とうろうさん)・「總光寺(そうこうじ)の庭園」も国の名勝の指定を受けています。
「庭園研究」(山形県庭園研究会(会長・北村昌美山形大学名誉教授)、平成6年9月発行)という会員誌に、前致道博物館副館長の酒井忠一(さかいただつね)さん(45回卒)が、酒井氏庭園についての紹介記事を寄稿しており、これによると、この庭園は1971(昭和46)年に京都の造園家・田中泰治(泰阿弥(たいあみ))さんの指揮により入念に復旧整備工事が実施され、このとき、この庭園の構成が江戸時代末期に著された「築山庭造伝」の「真の築山」に従っていることが判明したそうです。
「築山庭造伝」は江戸時代に出された作庭書のことで、1735(享保20)年に北村援琴斎(きたむらえんきんさい)が著したものと、1826(文政11)年に秋里籬嶋(あきさとりとう)が著したものと二つあります。前者を前編、後者を後編と区別しているのですが、田中さんの指摘は著書の記述内容から見て秋里籬嶋が著した「築山庭造伝(後編)(つきやまていぞうでん(こうへん))」で述べる「真の築山泉水庭(しんのつきやませんすいてい)」を指すものと思います。
築山泉水庭というのは、築山(つきやま)と池とを組み合わせた庭園のことで、通常、池を掘って出た土で築山を築くので、合理的な施工が可能となります。別に「築山庭(つきやまにわ)」とか「築山林泉庭(つきやまりんせんてい)」などの呼び名があります。
「真の築山泉水庭」というのは、江戸時代以降、築山の造り方、配石の仕方、樹木の植え方などに作庭上の約束ごとがあり、この約束どおりに正式正格に作庭された築山泉水庭のことを「真(しん)の庭」といい、この「真の庭」を簡素化したり、破調したりして、これ以上省略するならば庭とはいえないほど簡略化した形態のものを「草(そう)の庭」と呼び、両者の中間のものを「行(ぎょう)の庭」と呼んだのです。
更に、田中さんは、このような豪壮な庭園を造ることは、容易ならぬ大事業であり、酒井氏の庄内入部前に、長く庄内を領有していた武藤家時代にその源が存在していたのではないかと推測したそうです。また、山形市出身で、文化庁の文化財保護部企画官を経て日本大学農獣医学部教授、日本造園学会会長を勤めた、吉川需(よしかわもとむ)さんは、これだけの庭が造られるについては、すでにそれを必要とするだけの高度な文化の素地が鶴岡にあったはずと賞賛したということです。
修復整備を指揮した田中さんは、1898(明治31)年、新潟県柏崎市の生まれで、造園業を営む兄の手伝いから造園の道に入り、修行のため京都に出て、当時、京都一の名声を博した庭師植治(うえじ、代々小川治兵衛を名乗る)のもとで技術を磨く一方、華道、茶道、書道、香道、書道、俳句などにも習熟した人です。銀閣寺の茶会に招かれた際、埋没した「洗月泉石組」(銀閣寺庭園の片隅にある錦鏡池東南端に落ちる小さな滝のことをいいます。)に気づき、1929(昭和4)年にその発掘、修復を行いました。独立してからは、銀閣寺専属の造園家となり、1978(昭和53)年、80歳で亡くなっています。
名勝というのは、庭園、橋梁、峡谷、海浜、山岳その他の景勝の地の中で、日本にとって芸術上または鑑賞上価値の高いものを指定するものですが、庭園のような人文的なものについての指定基準は、芸術的あるいは学術的価値の高いものとなっています。酒井氏庭園は、地方にありながら庭園としての芸術的価値が高いのは勿論のこと、田中さんや吉川さんが述べているように、作庭を促す文化的素地が古くからこの地にあったために、歴史的に見て古い庭園であること、また、その作庭工法が当時の指針に沿ったものであることなどの評価が高く国の名勝として指定されたのです。
庭園は、面積が2,411平方メートル(723坪)あり、典型的な書院造庭園(しょいんづくりていえん)と呼ばれるものです。書院造庭園というのは室町時代以降の書院造に伴う庭園様式で、書院からの鑑賞に対応し、着座位置からの庭景を意識したデザインが特徴となっています。つまり御隠殿に座って築山泉水の庭を眺める仕掛けの庭のことです。
築山庭造伝(後編)に「築山は山や谷を主に写し」とあるようにこの庭園は、対岸築山の正面中腹に石を立てて庭景の中心とし、左手には「枯滝」を組み、その一帯に峡谷を作り出し、ここから小石を配した池の端の荒磯まで水が流れ下るようにしています。枯滝というのは、日本独自の枯山水様式という造園手法で、水を用いず、石組によってのみ滝を表すものです。滝から下流の流れを象徴する場合は、白砂敷き、小石敷きにしますが、これを「枯流れ」といいます。右手の出島には、亀頭型の名石を立てて景を引き締め、その奥は深い入り江を作り出し静かな趣を作り出しています。この名石は「珪化木」といい、地層中に埋まった樹木の細胞内や細胞壁に長期間かけて地下水などとともに珪酸がしみ込んで硬い珪質岩のように硬く分解しにくくなったもので、天童市の「極楽園」の庭でも見られます。
この庭園は、作庭当時に築山のやや右手後ろに遠く秀麗な鳥海山を借景として取り入れていたといいます。借景というのは、庭園の遠方の風景を視界に取り込んで、手前側の庭園と共に鑑賞することをいいます。単なる庭園の背景としてではなく、庭園の重要な構成要素のひとつとして処理することです。鶴岡の料亭「新茶屋」の庭も金峰山を借景に取り入れた庭でしたが、周囲の開発に伴い、また、樹木も大きくなって今は金峰山を望むことはできません。しかし、当時は金峰山を庭の重要な構成要素として鑑賞しながら酒杯を傾けたのでしょう、今でも宴席に出される杯には「金峰在杯(金峰杯に在り)」と書いてあります。
酒井氏庭園の植栽は、築山の竹林や松、枝垂桜、護岸の紫や白の躑躅や椿、山茶花など豊富で、池に桃色と白の睡蓮が花開く季節は華やかな庭となります。
《参考》
書院とは武家の住宅の部屋のひとつで、対面などの儀式や接待の場所となる部屋のことで、柱は角柱で、部屋には畳を敷き詰め、ふすま、障子、杉戸などで部屋を仕切ります。基本として座敷に床の間、違い棚、付け書院、帳台構えを設備しますが、他に欄間、落とし掛け、床脇、天袋、地袋、下段の間などが備えられることがあります。このような書院を持つ武家住宅様式を「書院造」と呼び、室町時代に始まり桃山時代に完成しました。慈照寺(銀閣寺)の足利義政の居間兼書斎(書院)であった東求堂仁斎は、ほぼその形式が整った現存最古の例とされています。
|