庄内藩における「御家中」と「御給人」

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●庄内藩における「御家中」と「御給人」
 今年のスクラップブックを開いてみたら、1月30日、母校において「高校生歴史カフェ」が開催された旨の山形新聞記事がありました。このカフェでは藤島郷土研究サークル会員の青山崇さんが藤沢周平(本名小菅留治・定時制16回(昭和21年卒))の作品・「蝉しぐれ」を題材にして基調講演を行い、作品に描かれた下級武士の生き様とその歴史などを解説したとのことです。私が高校生の頃にはこのような課外授業を受講した記憶がありませんので、このように郷土の歴史に詳しい識者から教科書には出ていない故郷の歴史を学べる機会を持てることは本当に幸せなことだと思います。
 ところで、藤沢文学に登場する海坂藩(庄内藩)の主人公たちは、ほとんどが微禄の武家に生まれた長男か、または、二・三男ですが、彼らは学問や武道の稽古に励み、家族を守って毎日の暮らしを大切に生きています。そして、なんといってもその最大の特徴は、生死の境に追い込まれても、自分の誇りを貫く士達であったことではないでしょうか。
 この歴史カフェで講師は、『庄内藩の家臣の多くは 100石以下の禄高の「御給人(おきゅうにん)」と呼ばれるばれる下級武士であった。』と述べられたそうですが、今回は上中級武士である「御家中(ごかちゅう)」とこの下級武士である「御給人」との違いを私なりにまとめてみましたので報告してみたいと思います。

 城下町鶴岡は、 1,622(元和8)年に酒井忠勝(ただかつ)が、真田十万石で知られるほか、第2次世界大戦末期には,皇居や軍の大本営移転のための大規模な地下壕工事が行われた町として有名な信州松代から入国して以降、本格的な築城と城下の整備が始まり、二代忠当(ただまさ)、三代忠義(ただよし)と50年を費やしてその形態を完成させたといわれています。
 酒井忠勝が入国した当初は、大勢の家臣を住まわせるためには、最上氏時代の城も町もあまりに小さかったため、まず城を拡張して新たに三の丸を設けるとともに城の回りには御家中(上中級武士)の居住を配置しました。ただ、七軒町や十三軒町や二百人町のように町人町の外側に町割された例外もあります。そして、六十里・酒田・田川・大山・温海などの主要街道添いに町人町を、その外側に足軽、鉄砲組、中間、餌刺などの御給人(下級武士)の住む町を配し、また、町の防御上、郊外の要所に寺社を配するという大規模な町割りを行いました。
 町割りについての概要は以上のとおりですが、次に庄内藩における主要役職名とこれに係わる標準禄高を表にして見ると次のようになります。
   名    称         職  務  の  内  容  標 準 禄 高
城代(じょうだい) 鶴ケ岡城の枝城である酒田亀ケ崎城を守る責任者である。 1,000石以上
家老(かろう) 藩政執行の責任者である。 1,000石以上
中老(ちゅうろう) 家老見習いで必要に応じて家老の職務を代行する。 500石以上
組頭(くみがしら) 家中(上・中級藩士)組の統括者である。  600石以上
守役(もりやく) 幼君或いは世子の補佐責任者である。  
小姓頭(こしょうがしら) 藩主に近待し、近習、小姓等の小姓組を統率する。 600石前後
側用人(そばようにん) 藩主の側近で政務を取り次ぐ。 400石以上
番頭(ばんがしら) 城内の取締りを担当する。筆頭を指立番頭という。 200石以上
用人(ようにん) 藩主の側近で所用を取り扱う。 400石以上
郡代(ぐんだい) 農政を統括して藩の財政を担当する。 300石以上
奏者(そうしゃ) 城中の礼式を司り、また、朝廷や幕府への使者を
務める。
300石以上
留守居(るすい) 江戸藩邸に在勤して幕府や他藩との折衝に当たる。 200石以上
大目付(おおめつけ) 家臣の非違を監視してこれをただす責任者である。 200石以上
普請奉行(ふしんぶぎょう) 藩の土木工事を担当する。  
物頭(ものかしら) 足軽組の統率者である。 200石以上
寺社奉行(じしゃぶぎょう) 神社、寺院に関することを司る。 200石以上
町奉行(まちぶぎょう) 鶴岡及び酒田の町政を支配し、住民の犯罪をただす。 200石以上
元締(もとじめ) 藩の金銭出納を司る。  
郡奉行(こおりぶぎょう) 郡村の土木工事と治山・治水及び公事・訴訟を担当する。 100石以上
大納戸(おんなんど) 藩の衣類、調度品等の出納を取り扱う。  
代官(だいかん) 郷村稲作の検見、貢米の賦課、収納及び農事の振興を担当する。 100石以上
(「新編庄内人名辞典」より)

 「切腹・日本人の責任の取り方」(山本博文著・光文社新書)に出でている山形藩の例では、 200石で中級武士、また、藤沢作品の「長門守の陰謀」(文春文庫)では、藩主酒井忠勝から「御暇」の処分申し渡しを受けた家臣の高力一族の禄高は、家老の高力喜兵衛の禄高が4,000石、喜兵衛の叔父の組頭喜左衛門が1,700石、喜兵衛の弟の番頭小左衛門が1,000石、喜兵衛の弟の小姓市之亟が高200石の禄高などとなっています。
 以上のことから判断すると、庄内藩の「上級藩士」と呼ばれる家臣は 500石以上の禄高の藩士であり、最上級の家老職ともなれば 4,000石の高禄を得ていたことになります。一方「中級の藩士」は100石以上500石未満のところまでの禄高と考えられ、この二つの階層を「御家中(ごかちゅう)」と呼び、「御給人」と呼ばれた「下級藩士」の禄高は 100石未満ということになります。
 「高校生歴史カフェ」での題材・「蝉しぐれ」の主人公・牧文四郎の父助左衛門は、普請奉行配下の普請組に属する28石二人扶持(一人扶持は通常一石八斗)という禄高を給されていましたから下級藩士の御給人に該当します。しかし、その子どもの文四郎は成人してから後、父と同様の牧助左衛門と改名し、役職も「郡奉行」に就いています。海坂藩(庄内藩)では郡奉行には 100石以上の禄高が給されるので、御家中と呼ばれる中級藩士の身分に出世したことになります。なお、二人扶持というのは二人の小者を従えるという意味の別手当のことです。

 この禄高制度において「禄高1石」というのは、「玄米150キログラム」のことで、この量は一人が一年間に食べる米(玄米)の量に相当します(1日当たりに換算すると411グラム)。従って、中級の武士の最下位ランクの100石は、100人分の玄米量を給付されることになるのですが、しかし、「武士の家計簿」(磯田道史著、新潮新書)によれば、加賀藩では禄高100石の実際の収入は名目の32パーセントであったといいますから、禄高100石取りの実収入は32石となります。なお、玄米32石とは、米俵1俵で0.35石として計算すると91俵となります。1石が約150キログラムなので、重量換算では4.8トンになります。
 当時の武士は、自分の家で食べる米以外は藩の倉庫に保管し、必要に応じて金銭に交換していました。ある人の調べによると、米1石で銀67.5匁になるので、32石では銀 2,160匁となり、銀1匁は現代の価値で 4,000円ということですから32石でおおよそ 864万円となります。したがって、これを現代に当てはめると、禄高100石の藩士の実年収は860万円強ということになります。
 庄内藩の場合も多分加賀藩の実情に類似したものであったと想像されますので、これに習い、牧文四郎の父助左衛門の禄高28石二人扶持を現在の貨幣価値に換算すると、名目年収は853万円となり、実収入はこれの32パーセントとすると270万円強ということになります、従って、御給人と呼ばれる 100石以下の禄高の家臣の生活は相当に苦しく、家庭菜園による野菜の確保や武士としての体面を保つためにも手内職は欠かせないものであったことが良くわかります。

 次に庄内藩の家臣の住宅の敷地・住宅規模について「城下町鶴岡」(大瀬欣哉著、庄内歴史調査会)を参考にして整理してみます。
 上級藩士の家老ともなると屋敷の広さは、約40間(72メートル)四方の1,600坪(5,200平方メートル)、中級藩士でも、約400坪(1,300平方メートル)内外ありました。そして、住宅の規模は、上級藩士である家老の住宅では15.5帖の部屋が1室、15帖が1室、12.5帖が1室、12帖が1室、10帖が5室、 7.5帖が1室、6帖が1室、そのほかに茶の間、客間、下女部屋などがある大邸宅で、われわれの生活水準からは想像が出来ないほどの広さです。なお、現在も残っている風間家(丙申堂)の門は、禄高 1,400石の家老松平武右衛門家、鶴岡カトリック教会の門は、禄高 1,000石の同じく家老末松十蔵家の門でした。中級の藩士の場合の住宅の規模は、玄関、台所のほか畳敷きの部屋は5部屋ぐらいが標準で、以外と質素な生活をしていたようです。
 これに比べて下級藩士に与えられる土地は、間口が6間(約11メートル)に奥行が20間(36メートル)で、面積120坪(396平方メートル)位の一定の形の土地が並び、その中に建つ住宅の部屋数は、8帖2室、6帖3室に土間、台所といった具合で、部屋数は以外に多くあったようです。

 次回は、御家中と御給人の住む町の町割りと町名などについて調べて報告したいと思います。
  
2009年8月1日