鶴岡城下における侍町と町人町の町割り(1)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●鶴岡城下における侍町と町人町の町割り(1)
 1962(昭和37)年の「住居表示に関する法律」施行以前の鶴岡の町名には、馬場町、家中新町、高畑町、最上町、鷹匠町など、藩政時代の名残をとどめたものが多数ありました。私は先に「庄内藩における「御家中」と「御給人」」と題する一文を投稿しましたが、今回はこれら武士達が住んだ町の町割り、町名の由来などについて、「城下町鶴岡」(大瀬欽哉著、庄内歴史調査会)及び「鶴岡市の町名の由来」(鶴岡市市民部市民課)などを参考にして纏めてみました。

馬場町
 鶴岡城三の丸内の東側に位置する上級武士が住まいした町です。酒井氏統治以前の最上氏時代には、七日町・上肴町などの町人達が住む町と武士の住まいする町とが混在していましたが、酒井氏の時代になってからは町人達が城外に移転させられ、上級武士の町となって、松平・石原・里見・末松等家老級家臣が住まいしました。藩校致道館、御厩(おうまや)等があり、御厩には乗馬訓練のための馬場があったところから馬場町と呼ばれましたが、細かくは、北から馬場町、内川沿いに設けられた木戸との関係で馬場町五日町口通り、同三日町口通り、同十日町口通りと称されていました。これらが1880(明治13)年に合併して馬場町になりました。今もこの町名は残っており、城址は公園となり、付近一帯は市役所、裁判所などがあり市の中心をなしています。ただ、藩校の致道館は、9代藩主酒井忠徳(さかいただあり)の時の1805(文化2)年に開校していますが、初めに施設が建てられたのは、今の日吉町の山王神社から駅に向かう大通りの東側一帯の大宝寺という所で、現在地に移転したのは、10代藩主酒井忠器(さかいただかた)の時代の1816(文化13)年です。現在は馬場町、泉町になっています。

家中新町
 最上氏時代には二の丸内に上級家臣の屋敷がありましたが、酒井氏は城を二の丸まで広げ、新たに三の丸を設けて、そこに御家中を住まわせました。そして、そこを家中新町と命名したのです。酒井家の菩提寺大督寺や致道博物館があるところで、致道博物館内にはご隠殿という藩主の隠居所が今も残っています。また、字名に伊予様小路というのがありましたが、これは肥前島原藩主高力伊予守顕長(あきなが)が領民を苦しめて奢侈にふけった罪により領地を召し上げられ、酒井家にお預けとなり、この地に幽閉されたことにちなんで付けられた地名です。更に、経蔵小路は大督寺の御経蔵があったために付けられた字名です。渋紙小路は盗賊が旅人を殺して路銀を奪い、その死骸に渋紙をかけて逃げたとする事件に由来します。現在、東北公益文化大学大学院、慶応義塾大学先端生命科学研究所がある一帯には、百間堀という堀があり、その南側に百間堀端と称する御家中の住まいする所がありました。1880(明治13)年に百間堀端、大督寺前通り(1871(明治4)年に鍛治町口通と改称)、大山街道口が家中新町に合併になりました。この町名は鷹匠町の一部を取り込んで現在も残っています。

鷹匠町
 母校や隣接する工業高校の辺りに御家中の町として町割したところで、鷹を飼育する御鷹部屋や訓練に当たる御鷹匠の屋敷がありました。また、母校と工業高校の敷地を分ける付近の字名を七つ蔵脇小路と称していましたが、これは母校のある場所に米倉が七棟あったところから名付けられたものです。なお、これに関連しては、庄司英樹さん(64回)が2005年6月26日に「母校は七つ蔵の跡地」と題して投稿しています。この町名は現在若葉町、家中新町になっています。

御小姓町
 母校の北側一帯で、小姓衆町、北小路ともいい、新形村と舞台村を城外に移し、御家中屋敷として割り当て、小姓を住まわせていました。明治になってからは町の繁栄を願う意味の若葉町となり、現在は若葉町、新形町になっています。

新屋敷町
 朝暘第三小学校や山形大学農学部のある辺りで、酒井氏が入国の際、新しく武家屋敷として町割りをして御家中を住まわせたところで、表新屋敷と裏新屋敷がありました。現在は若葉町になっています。

最上町
 山形大学農学部の東側一帯にあたり、最上家の改易で主人を失った浪人を酒井家が足軽として抱えていた町で、最上家にちなんで名付けられた町名です。その後、1662(寛文2)年に更に町割が行われ、左沢から移ってきた足軽を住まわせ、当時は左沢町ともいいました。左沢は酒井忠勝の弟の直次(なおつぐ)が拝領しましたが跡継ぎがなく領地没収となったところです。1880(明治13)年に最上町、蓮乗寺前新地、般若寺裏、横山街道が合併しました。現在は高畑町(たかばたけまち)の区域と一緒になり上畑町になっています。

高畑
 酒井忠勝が入国当初、今のNHK鶴岡放送局のある所に仮御殿(高畑御殿)を置きました。酒井氏が入国したころは、御家中(外高畑)と御給人(中高畑)の両方の家臣が住む町として町割が行われました。江戸時代は高畑(表高畑・裏高畑)と称していました。この辺は城下でも高燥の地であるため洪水による浸水の心配が殆どありませんでした。高畑御殿のあったところは、幕末に若くしてなくなった酒井忠恕(ただひろ)の未亡人瑛昌院(えいしょういん)の御殿が置かれました。字名に新山東小路(しんざんひがしこうじ)がありましたが、これは龍覚寺境内の新山権現に由来するものです。矢場小路は足軽達が弓や鉄砲の稽古をする矢場があったことに由来します。1880(明治13)年に高畑、新山東小路、矢場小路、最上町横町が合併して高畑町になりました。現在の町名は最上町と統合されて上畑町になっています。

高町
 般若寺の南側、下山王神社(日枝神社)の西側にあたるところで、御給人町でした。その名は地勢が小高くなっていたのでそう呼ばれたものと推測されています。現在は山王町です。

代官町
 現在の荘内病院の前の通りで、その昔(最上氏時代といわれている。)、代官の屋敷があった所といわれている侍町です。代官町に接して元長泉寺前、新山下と呼ばれる町がありました。元長泉寺前は長泉寺があったところで、この寺は1675(延宝3)年に現在の錦町に移され、その跡は1731(正徳3)年に町奉行所となりました。私が高校生の頃、そこは馬市場でした。新山下は龍覚寺境内の新山権現の下にあたるのでこの名がついたものです。当時は田んぼになっていて新山田んぼと呼ばれていました。赤川の旧流路なので、土地が低く洪水に悩まされていた所です。1880(明治13)年に代官町、元長泉寺前、新山下が合併して泉町になりました。内川端の公園(第三公園)に弘法大師の石碑が立っていますが、近年までこの辺りには弘法大師縁の井戸があり、泉が湧いていたので、泉町と名づけられたものです。この町名は一部馬場町の区域を取り込んで現在も残っています。

与力町
 酒井氏が入国したころ、家老の配下の与力が多く住んでいたところです。長山小路は最上氏の家臣で酒井忠勝に仕えた長山氏の屋敷があった所で、薬湯小路は薬湯を業とする風呂屋(料亭)があった所です。与力町、長山小路、薬湯小路、新与力町、荒町裏が1880(明治13)年に合併して新しく与力町となりました。現在は山王町、鳥居町になっています。バス通りの一本東側の通りの東側一帯が昔の与力町です。

御持筒町
 当時は御持筒組(鉄砲組)が住んでいたのでこう呼ばれていました。御給人町です。大内蔵(おおくら)小路は、下山王社(日枝神社)の神主・富樫大内蔵の屋敷があったところから名づけられたものです。1880(明治13)年の区画変更により御持筒町、大内蔵小路、中道、枡形(狐町)などが合併して新しく宝町になりました。この町名は旧大宝寺の区域を一部取り込み現在も残っています。

六軒小路
 1880(明治13)年に般若寺前と合併して日和町となりましたが、六軒小路は、下山王社(日枝神社)の交差点から北へ向かう道路沿いに六軒の御家中屋敷があった所です。今日の日吉町の大通りで、1919(大正8)年に鶴岡駅が出来るまでは小路でした。なお、般若寺は、城下の防備上重要な場所と位置づけされていました。

鳥居川原
 昔は、今の内川のあたりを赤川が乱流しており、一面の川原でした。以前、大宝寺城(後の鶴ケ岡城)の主であった武藤氏は羽黒山別当を兼ねており、羽黒遥拝のための一の鳥居を建てていたので、鳥居川原と呼ばれていました。鳥居は1587(天正15)年に戦火で焼失しますが、現在の鳥居町の常源寺付近にあったと言われています。酒井氏入国後、御給人町となり、一帯は鳥居川原御徒町、鳥居川原川端通、鳥居川原矢場小路、鳥居川原裏町、鳥居川原横町、鳥居川原矢場小路と称する町がありました。藩主の鷹狩に使う鷹の餌となる小鳥を捕らえることを仕事とする餌刺が住んでいたので、餌刺町という町もありました。1880(明治13)年12月にこれらの町が合併して鳥居町となりました。現在もこの町名は一部与力町の一部を取り込んで残っています。

二百人町
 酒井氏が入国した時に、信州松代から引き連れてきた 200人の足軽を住まわせるため、仮小屋を建てて一時的に収容したところからこう呼ばれました。後に御家中の町になりました。1880(明治13)年に二百人町中町を編入しています。現在は本町二丁目、神明町という町名になっています。

十三軒町
 酒井氏が入国した当初に、若殿(酒井忠当(ただまさ))の御家中十三軒の屋敷を町割りしたので、こう呼ばれました。現在は本町二丁目、三和町、神明町になっています。

七軒町
 酒井氏が入国当初に、蓮台院境内の一部を召し上げて若殿様(酒井忠当)付の7軒の御家中屋敷を置いたところです。字名の南新屋敷は、幕末に江戸に居住していた御家中が引き上げてきたとき、七軒町西南の畑地に屋敷割して33軒の家を建てたことによります。1807(文化4)年、蓮台院から出火し、折からの東風にあおられて南町、一日市町、七日町、元曲町師、上肴町、鍛冶町、新町、家中新町の1000軒を焼き尽くす鶴岡はじまって以来の大火がありました。現在は三和町、睦町、三光町になっています。

紙漉町
 町名は貧しい御給人が紙漉きを内職にしていたことに由来するといわれています。字名の根木橋も御給人町で、苗津川に架けられた橋の名に由来します。紙漉町新地は1737(元文2)年に作られた新しい町です。1880(明治13)年に根木橋、紙漉町新地、紙漉町横町が紙漉町に統合されました。現在は大東町、日の出一丁目、東原町になっています。

天神町
 酒井氏が入国当初に、御給人屋敷として町割りした所で、天満宮が鎮座するところからこう呼ばれました。1880(明治13)年に天神町裏町を編入しました。現在は神明町になっています。

御中間町
 私が高校生のころには内川を挟んで鳥居町の対岸に栄町という町がありましたが、幕藩時代、ここは御中間町と呼ばれていました。御給人の内の御中間の人々が住んでいたところです。1880(明治13)年に船渡町、御中間町、五日町片町が合併して栄町になりました。船渡町は赤川の川渡しを業とする人々が住んでいた所です。現在は昭和町、大東町になっています。

御徒町
 昔の八坂町で、江戸時代は、御徒町、天王前といって、御給人町でした。明治になって天王社が八坂神社と改称したので、これが町名となりました。八坂神社は「胡瓜祭(胡瓜を2本持参し、祈祷を受けたものの内の1本を持ち帰って酢の物などにして食すると無病息災に過ごせるというものです。)」で有名です。現在は昭和町、大東町になっています。

四ツ興屋
 青龍寺川の左岸、温海街道沿いに御給人屋敷として町割りされたところです。その対岸には、御用大工が居住した大工町があり、1880(明治13)年に四ツ興屋、大工町、四ツ興屋新地が合併して幸町になりました。現在は新海町、青柳町、陽光町になっています。

大山街道片町
 三の丸の外側清竜寺川右岸沿いにあった御給人屋敷で、万年橋付近を含んでいました。1880(明治13)年に大山街道、八ツ興屋(やつごや)、金注連(かなじめ)、大山街道片町等を合わせて大海町(おおみまち)と呼びましたが、町名の由来は、大山街道の大と海の二字を取ったものです。現在は新海町となっています。

八日町
 田川に通じる街道筋にあって、酒井氏が入国当初に、御給人(足軽)町として町割りされたところです。東側に5軒の農家があり八日町村と称していましたが、1872(明治5)年に八日町に編入されました。1889(明治22)年の町村制施行により、従来の八日町、番田、柳田、日枝、島の各村を合併して稲生村と命名し、各村はその字となりました。その後、1918(大正7)年4月1日に鶴岡町に編入合併されました。現在は陽光町になっています。

番田
 田川街道の入り口に位置し、酒井氏が入国したとき、御給人(足軽)の居住地として番田と裏番田が町割りされました。そのほかに農家もあって番田村と呼ばれていました。なお、1870(明治3)年に幕府から酒井家に預けられた新整組(しんせいぐみ;庄内藩の次男、三男の総勢95名で組織された江戸市中取締りの警察隊のことです。戊辰戦争では新整隊と改称して官軍と戦いました。)という浪士組を住まわせるために番田はずれに新整町が出来ましたが、1876(明治9)年に番田村に編入され、消滅しました。畑町(はたまち)は1870(明治3)年に宮野浦(現酒田市)で海岸防備の任に当たっていた武士達が戻ってきたとき町割りされましたが、やがて消滅してしまいました。1889(明治22)年の町村制施行により、番田村の一部は稲生村の一部となり、さらに、1918(大正7)年4月1日に鶴岡町に編入合併されました。現在は稲生一丁目になっています。

大宝寺
 江戸時代には下大宝寺の区域が大宝寺村と言われ、京田組の大庄屋の役宅が置かれていました。東新屋敷は俗に新徴屋敷といわれ1870(明治3)年に幕府から酒井家に預けられた新徴組(しんちょうぐみ;13代藩主酒井忠篤(さかいただすみ)の配下に置かれた江戸幕府による組織で、江戸市中取締りと尊攘倒幕活動の弾圧に当たりました。)という浪士組を住まわせるため、1870(明示3)年に町割りされましたが、徐々に人家がなくなり1976(明治9)年に町が消滅しました。1889(明治22)年の町村制施行により、道形村、文下村(ほうだしむら)、茅原村(ちわらむら)、新斎部村と合併して大宝寺村となり、1920(大正9)年に鶴岡町に編入されました。現在は大宝寺町、末広町、道形町になっています。

万年橋
 鶴岡城下の西に接し、江戸時代には、新町村、斎藤興屋村、大部京田村(だいぶきょうでんむら)という農村と万年橋という御給人町がありました。1876(明治9)年にこれらを合併して三ケ村の一字を取って新斎部と名づけました。万年橋は江戸初期に万年氏という代官の屋敷があって自費で橋を架けて城に通っていたのでこの名が付けられたものです。1889(明治22)年の町村制施行により大宝寺村に編入され、1920(大正9)年に鶴岡町の大字となりました。現在は、東・西新斎町、みどり町、新海町になっています。

 以上が侍町と呼ばれた町あるいは明治の初めに新整組や新徴組の武士達が住んだ町の町割りの概要ですが、これを表に纏めると次のようになります。

上級藩士(御家中)の住む町 馬場町、家中新町等
中級藩士(御家中)の住む町 鷹匠町、御小姓町、代官町、御持筒町、二百人町
十三軒町、七軒町、与力町、六軒小路等
下級藩士(御給人)の住む町 鳥居川原、紙漉町、天神町、御中間町、御徒町
四ツ興屋、大山街道片町、八日町、番田、万年橋等

 次回は職人・商人などの住む町人町の町割り、社寺の配置、木戸、城下の道路、城下の人口等についてその概要を報告したいと思います。
  
2009年9月1日