鶴岡城下における侍町と町人町の町割り(2)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●鶴岡城下における侍町と町人町の町割り(2)
 前回に引続き城下の木戸・町人町・寺社・道路・人口についてまとめてみました。
 鶴岡城三の丸の中を「郭内(くるわうち)」といい、郭内に入るには郭の周囲に設置された出入り口を通らねばなりませんでした。この出入り口を木戸といいます。具体的には、当時、泉町方向の溜池からの水が水路で大泉橋のやや上流の位置で内川に注いでいましたが、この合流点付近に荒町口木戸が設けられており、この水路の代官町のところには代官町口木戸が、更にこの溜池に注ぐ高畑の水路のところには高畑口木戸がありました。また、内川沿いには、北から五日町口木戸、三日町口木戸、十日町口木戸があり、その他としては元曲師町口木戸、鍛冶町口木戸、大山街道口木戸、万年橋口木戸、新形口木戸がそれぞれ川あるいは水路を跨ぐ位置にあり、その数は全部で11でした。「十一口」を漢字にするとは「吉」になるところから目出度いとされていました。三雪橋や万年橋の袂、鶴岡アートフォーラムの近くの信号の傍などには木戸口跡を示す案内板(標識柱)が建立されています。
 木戸の通行はなかなか厳重で、そこには、突棒、指股(さしまた)、からめ鎗(やり)という罪人を捕らえる三つの道具が備え付けられており、三人の番人が昼夜を通して見張っていました。他地方の人間は勿論のこと鶴岡の町人でもみだりに通ることは出来ませんでした。開門は朝6時、閉門は夕方6時で、夕方6時以降は10時まで脇のくぐり戸だけが開いていました。また、夕方6時以降の通行には提灯札(ちょうちんふだ)という鑑札が必要でした。一方、町人町にも32箇所に防犯上や夜警のための町木戸と番屋があって各町内の人々が交代で見張りをしていました。
城下の町人町
【荒町】
 現在の町名が山王町と呼ばれる荒町は、最上氏の領地になった頃に作られた町で、城下町の東の入り口に当たり、4月から12月までの9の日(9日、19日、29日)に市が立って賑わいました。
【下肴町】
 最上氏の頃は今の馬場町にあって、肴問屋が多く居住していましたが、酒井氏の時代になって上肴町と下肴町とに分けられ、現在の本町一丁目と二丁目に移ったものです。「しもさかなまち」がいつの間にか「しもさかのまち」と呼ばれるようになりました。
【八間町】
   酒井氏の時代の町割によって出来た町といわれ、八軒町とも書きます。大泉橋の袂に酒田船の船着場があり、そこに近かったので宿屋があって賑わっていました。現在は本町一丁目と昭和町になっています。
【五日町】
 最上氏の領地になったときに出来た町人町で、三日町・七日町・十日町と同様、酒井氏時代に拡張された三の丸内(馬場町)にありましたが、1624(寛永元)年に現在地に移されたものです。五日町は、4月から12月まで、他の町に市の立たない日、2の日、4の日、5の日、6の日、8の日、10の日に市がたちました。現在は本町一丁目と昭和町になっています。
【三日町】
 4月から12月まで、3の日(3日、13日、23日)に市が立ちました。また、毎年駒市も立ちました。なお、現在の銀座通りは、江戸時代に通丁(とおりちょう)とよばれ、字名の金屋小路(かなやこうじ)は、鋳物師が住んでいたのでこの名がついたものです。また、鶴岡市コミュニティプラザ「セントル」の裏あたりを俗に「しょうけん町」といっていましたが、これは大川周賢という名医が住んでいたので「しゅうけん町」と呼んでいたものが訛ったものです。現在は本町一丁目と昭和町になっています(一部大東町)。
【十日町】
 最上氏時代三日町の裏にあったため、裏町と呼ばれていましたが、現在地に移ってから十日町と改められ、7月10日に市が立ちました。1880(明治13)年、十日町東を統合しました。現在は本町一丁目と昭和町になっています(一部新明町)。
【一日市町】
 最上氏時代には、後の馬場町のところにあった町ですが、酒井氏の城下整備の際、現在の本町二丁目に移りました。毎年4月から12月まで、1の日・7の日(1日、7日、11日、17日、21日、27日)に市が立った所です。主に呉服商が多く住んでいました。鶴岡の町人町を支配した大庄屋宇治屋もここに居り、その隣に御使者宿という幕府の役人などを泊める宿もありました。その裏の内川に面した所を御殿河戸(こうど)といいました。河戸というのは川岸がスロープ状になっているところで、川べりで洗い物をしたり、川船から荷物を陸揚げする場所のことをいいました。また、字名で真澄町というところがありますが、江戸時代には御坊橋(ごぼうばし)といいました。この地名は橋の脇にある浄土宗の広済寺にちなむもので、1880(明治13)年に一日市町に統合されました。
【南町】
 酒井氏によって新しく町割されたもので、城下の南に位置するところから名づけられたものです。最初は市日がなかったのですが、1797(寛政)年に南町から願い出て許可されました。4月から12月まで、4の日と8の日(4日、8日、14日、18日、24日、28日)に市が立ちました。現在は本町二丁目と睦町になっています。
【七日町】
 今の馬場町のところにありましたが、酒井氏の城下整備の際、現在の本町二丁目(一部三光町)に移りました。商人や三山道者などが泊まる旅籠屋町として栄え、後には遊女を置く下旅籠屋が生まれ、明治時代になると貸座敷となりました。「臥牛・菅實秀」(加藤省一郎著)によれば、戊辰戦争の終戦処理のため鶴岡に入った西郷隆盛は、七日町の橋の側の「加茂屋文治」という旅篭に泊まったと書いてあります。そしてこの橋は今も内川に架かる「神楽橋」のことを指しています。1880(明治13)年、光明寺小路、寺小路を統合しました。
【銀町】
 酒井氏時代に出来た町で、白銀町とも言いました。内川に架かる神楽橋の上流、右岸側にある町で、資金・銀・銅を用いて細工する金具師や研師や鞘師が多く住まいしたところからこの名がつけられました。金具師は主として鍔、目貫(めぬき)など刀の付属品を細工し、優遇されていました。現在の町名は三光町です。
【檜物町】
 酒井氏が入国した当時は、現在の鶴岡市文化会館付近の元曲師町のところにありましたが、1671(寛文11)年に全焼し、銀町の更に内川上流の右岸側の現在地に移住させられた町です。主に屋根を葺く檜の木羽板(こばいた)を作る檜物師と、檜の薄板を曲げて桜の皮で綴った曲物を細工する曲物師が多く住んでいたので、曲師町といいましたが、檜物師が多くなったので、檜物町と呼ばれるようになりました。元曲師町は元曲師が住んでいたのでこう呼ばれましたが、曲師が檜物町に移ってからは、侍町になりました。また、字名で筬橋(おさばし)という所は機(はた)を織る際に用いる筬の形をした橋が内川に架けられたので、こう呼ばれました。筬というのは、竹または金属の薄片を櫛の歯のように並べ、枠を付けたもので縦糸を整え、横糸を打ち込むのに使用します。城下を流れる内川に架かる荒町・五日町・三日町・十日町・七日町の五つの橋は、藩で架け替えや普請をするのですが、この筬橋は町普請の橋なので、付近の町の人々でしなければなりませんでした。そのため、1809(文化6)年の架け替え時には町御用金から10カ年還付を条件にして借金をして工事を行い、相撲の興行による益金を返還金の一部に当てたと言うことです。現在この町名は三光町になっています。
《参考》
 私がボランティア活動でよく出かける飯豊町中津川には、昭和20年代まで、桧物町の筬橋と同様の名で呼ばれる橋が数多くあったそうです。この橋は川の左右それぞれの岸の土中あるいは岩盤の中に川の真ん中に向けて大ケヤキやナラなどの大木を2本埋め込み、中ほどを繋ぐために同様の丸太を渡して橋桁を作ります。そしてその上に歩幅間隔に小径の丸太の横木を並べる簡易なものです。現代の木橋では各部材を釘あるいは金具で連結しますが、この橋では「マルバマンサク」と言う潅木の幹を水につけ長期間置いていた後に柔らかくしたものを縄として各部材の縛りに用います。奥飛騨の白川郷の「合掌造り」でも、同様に地元で「ソネ」と呼ぶ「マルバマンサク」の縄を使用して、釘を1本も使っていません。マルバマンサクの語源は、早春に枝先に黄色で薄い紐を付けたような花が咲き、真っ先に春の訪れを告げると言うことから「マズサク」が転化したとする説と、枝先いっぱいに花を咲かせる姿から、穀物が豊かに実る「豊年満作」に由来するとする説の二つがあります。マルバマンサクの樹皮は丈夫で切れにくく枝もよく撓むと言う性質があるため、古くから川の護岸や水流制御のための蛇籠(鉄線などで粗く円筒形に編んだ籠に石を入れたものです。)や粗朶柵に使用されたほか、住宅の木組みや橋や筏の結束材として使用されてきました。4年ほど前、地元の中津川の多くの人々の指導を得て山形県民の森の「源流の森」でこの筬橋製作の実習をしたことがありますが、出来上がった橋は丈夫で、橋としての機能を十分果たすものでした。植物の性質を熟知した昔人の生活の知恵に感服した次第です。ただし、桧物町の筬橋がこれと同じ工法で架けられたかは分かりません。
【上肴町】
 最上氏の頃は今の馬場町にあって、肴問屋が多く居住していましたが、酒井氏の時代になって上肴町と下肴町とに分けられ、現在の本町三丁目に移ったものです。「かみさかなまち」がいつの間にか「かみさかのまち」と呼ばれるようになりました。上・下肴町とも一軒ずつの御用肴屋と15軒の魚問屋がありました。上肴町が上の山王社の氏子区域にありながら下の山王社の氏子となっているのは、その昔馬場町にあったからです。田元小路(たもとこうじ)は金峰街道の出口に当たり、田元(たんぼ)へ出る道なのでその名がついたものです。稲荷小路は上肴町裏の稲荷神社へ通じる小路のことです。この二つは1880(明治13)年、上肴町に統合されました。
【鍛冶町】
 田川街道筋にあり、酒井氏の時代に出来た町で、多くの鍛冶職人が住んでいました。現在の町名は陽光町です。
【大工町】
 青龍寺川の右岸、大山街道筋にあり、酒井氏の時代に町割りされた所で、藩の御用大工が居住させられたところです。現在の町名は、陽光町です。
【新町】
最上氏の時代には、後の三の丸の所にありましたが、酒井氏入国と同時に、大山街道筋に移された町人町です。新しく作られた町ということで名づけられました。現在の町名は新海町です。
城下の寺社
 戦争が起こった場合に敵の攻撃を防ぐ場所とされ、鶴岡城下でも広い境内を持つ寺院は大方町の周囲に配置されました。鶴岡城下には、約40の寺がありましたが、そのうち酒井氏が鶴岡に来てから移転したものが12、新たに建てられたものが8、それ以前の最上氏の時代に移転したもの3、新しく建てられたもの5の寺々がそれぞれ城下の町割に従って境内地を定められました。早稲田大学理工学部の佐藤 滋教授とその研究室は、この寺院が城下町鶴岡では本丸を中心として36間(64.8メートル)の倍数の距離に配置されていることを解明しましたが、実際、地図上に同心円を描いて見ると、12倍の位置に禅龍寺、常念寺、洞泉寺・長円寺、17倍の位置に林泉寺、日枝神社、般若寺などが配置されていることがよくわかります。
城下の道路 
町割に道路はつき物ですが、鶴岡城下の道路が「山当て」によって作られたことは、2008(平成20)年12月25日に「山々を街づくりに取り入れた城下町鶴岡」と題して投稿しましたのでこれを参照してください。
 古い絵図で見ると現在銀座通りといっている通丁(三日町を除く)は二間三尺( 4.5メートル)位、下肴町から十日町にかけての内川沿いは五間( 9.0メートル)と広いのですが、その他の町人町の道路は四間( 7.2メートル)以下です。下級武士の住む町も、二〜三間(3.6〜5.5メートル)という狭いものでした。これに対して三の丸の侍町(馬場町や家中新町)は主な道路がおおよそ五間( 9.0メートル)と広くなっていました。特に、今の鶴岡北高校前の広小路は十二・五間(22.7メートル)もありました。その理由は城が出来るまでの仮御殿が現在のNHK鶴岡放送局にあったため、その入り口であるために幅広く造成されたと考えられています。
なお、城下町にはT字路、¬形道路が多いのですが、鶴岡の場合は次のようになっていました。

区 分 十字路 T字路 ¬形路
御家中の町 11 35 15
御給人の町 17
職人・商人の町 20
小計 35 61 26

 つまり、町人町には見通しのきく十字路が多く、侍町には見通しの悪いT字路や¬形路が多いことがわかります。特に、T字路は城下の道路の50パーセントを占めますが、これは、城下の防衛上の措置として考えられたものです。
城下の人口
鶴岡城下の町人町の人口と家数は、今の戸籍に当たる人別帳や幕府に報告した書付などによって知ることが出来ますが、人口が最も多く記録されている1694(元禄7)年の史料では10,197人で、1,528家数となっています。一戸平均の家族数は6.7人ということになります。
 1770(明和7)年の書付によると御家中が 2,596人、御給人と扶持方町人(藩から扶持をもらっている有力町人のことです。)が 6,609人とあり、これはいずれも家族を含めた数字です。これを見ても御家中より御給人がはるかに多かったことがわかります。そして、この年鶴岡の総人口は、町人の人口が7,824人(46パーセント)、侍の人口9,205人(54パーセント)、合計17,029人でした。この数字は江戸時代中ごろの数字ですが、多いときでも江戸時代の鶴岡の人口は2万人弱であったと推測されます。
終わりに
 前回、今回と2回に分けて城下町鶴岡の町割りなどを見てきましたが、1962(昭和37)年に「住居表示に関する法律」が制定されて以来、鶴岡でも1965(昭和40)年から順次道路・水路などを境界とする鶴岡市街地の区域の変更と新町名の制定が開始されました。従来の町割りは道路を挟んでひとつの町を形成する「道路方式」というものであったため、家を訪ねたりする場合には不便なこともありましたが、江戸時代からの町名は、その町の歴史を物語るものであり、宝町、鳥居町、泉町、馬場町、家中新町などを残し、その大部分の旧町名が消えてしまったことは昔の町名を知るだけに残念に思います。このことについては、いくつかの町名を統合するので、どれかを代表として残すことは住民感情の上から困難だったためと思われるのですが、これも時の流れと諦めるしかないのかもしれません。ただ、鶴岡の当時の風情に憧れて訪ねくる観光客も多いと聞きますので、出来れば昔の町名のいわれなどを簡単に記した案内標識などを適宜街角に整備してもらえればいいと思います。
  
2009年10月2日