「ワッパ騒動」と「地租改正」について(1)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●「ワッパ騒動」と「地租改正」について(1)
 9月中旬の新聞各紙県内版は、「ワッパ騒動義民之顕彰碑」除幕式の記事を載せていました。地元の「ワッパ騒動義民顕彰会」が長い間正当な評価を受けてこなかった「ワッパ騒動」を後世に伝えようと、春から一般に募金を呼びかけていましたが、ついにそれが叶い、騒動終結から 131年を経た2009(平成21)年9月11日、鶴岡市水沢の蕎麦屋・大松庵において、義民の子孫を含め約 120名が参加して当該顕彰碑の除幕式が執り行われたものです。そこで、今回はこの問題を取り上げてみますが、先に庄司英樹さんが投稿した「地租改正の測量絵馬」と「ワッパ騒動」とは、ともに明治初期における日本の諸制度改革のさなかでの出来事であって互いに関連しますので、表題を標記のとおりとし、2回に分けて投稿します。
1 ワッパ騒動
 1869(明治2)年4月に庄内藩主酒井忠宝(ただみち)は「版籍奉還」を請願して6月に嘉納され、同月15日、磐城平へ8月までに転封するよう命じられました。しかし、7月22日、代償金70万両(後に40万両に減免)と引き替えに庄内復帰が認められ、同月24日庄内藩知事(注1)に任命されました。同年9月29日には、政府の「藩名改めの命」によって藩名を「大泉藩」と改称することになり、管轄地高12万石、最上川南の地域 301カ村を統治することになりました。(注2)
 大泉藩は、飛島帰属問題(注3)飽海郡貯籾引渡し問題、70万両献金免除問題、軍資金及び海軍資金上納問題(注4)などで政府と駆け引きを行いながら、外国船購入・運行による藩貿易(注5)や外国商人との生糸貿易(注6)など独自の経済政策をとって政府に抵抗しながらも薩摩藩(西郷隆盛)に急速に接近して行きました。厳しい禄制改革の結果新たに設けられた役職についた者は、家禄(注7)のほかに規定によって官禄を設けましたが、他の大部分の者たちは役を解かれ、あるいは、不要の士族、卒族(注8)と化していきました。藩政改革を通じて旧庄内藩の家老職・松平親懐(まつだいらちかひろ)と同じく松平甚三郎が大参事に、さらに、翌1870(明治3)年からは同じく旧庄内藩の中老であった菅實秀が権参事として加わり、これら新たな藩官僚が伸張する一方、藩政に強い不満を持つ士族・卒族が多くなり、後には藩政を批判して、ワッパ騒動にくみする者も出ることになりました。
 大泉藩は、1871(明治4)年7月14日の「廃藩置県」によって「大泉県」となり、藩知事の酒井忠宝は免ぜられ、藩体制も消滅することになります。そして、同年11月2日に政府直轄の「第1次酒田県」・「大泉県」・「松嶺県」の3県が合併して庄内全体を県域とする「第二次酒田県」になるのですが、引き続き松平親懐が大参事、菅實秀が権参事に就任したのをはじめ、県官吏のほとんどは旧大泉藩士が占めました。そして、明治政府の政策・方針には忠実ではなく、旧藩体制の温存を第一にした県政を執り行うのですが、1874(明治7)年11月、菅は権大参事の職を辞し、同年12月に鹿児島出身の三島通庸(みしまみちつね)が「第二次酒田県令」として着任すると、松平親懐もワッパ騒動の責めを負って大参事の職を辞することになります。
(注1)新政府は、知事、大参事、権大参事、少参事、権少参事、大属、少属、権少属、史生などの役職を規定して藩庁構成の画一化を図るとともに藩財政の大枠を定め、藩に対して歳入歳出の明細書の提出、藩債、藩札の整理計画の樹立を命じたものであり、明治政府の藩体制への介入を決定的に強めるものでした。
(注2)大泉荘の地頭の武藤氏が庄内平野の全域を治めるようになり、そこが、大泉荘の内、つまり荘内〔庄内〕と呼ばれたことに因んだものです。
(注3)江戸時代は庄内藩領であり、加茂港から島役人が派遣されていました。
(注4)藩高を現米10万石とした場合、知事(藩主)家禄を1万石とした残りの9万石の1割、9千石の割合として、その2分の1を海軍資金として官に納め、その2分の1を陸軍資金に充てると規定されたものです。
(注5)蒸気船を購入し、加茂港から領内の米・酒を横浜に送り出しました。
(注6)外国商人から前金として15万両を受け取り、3ケ年の内にそれに見合う生糸を引き渡すという商取引を結びました。
(注7)1878(明治11)年に打ち切られました。
(注8)明治の初期に軽輩武士に対する身分呼称として用いられましたが、1872(明治5)年、世襲であった者を士族に、一代限りの者を平民に編入して廃止されました。

 諸外国の近代制度を学ぶ前の明治政府は、1868(明治元)年に「税法はしばらく旧慣による」と太政官布告を出したようにその支配形態は、従前の諸藩の支配に代わる全国唯一の領主に過ぎませんでした。収入の85パーセントまでは物納の年貢で取り立てましたが、そのうちに年貢が全国不統一であること、収入が物納なのに支出が貨幣で不便であること、作況によって収入が一定でないことなど不都合な面が露呈してきました。一方では、貨幣経済がどんどん進行してきて、これを機に政府は、1871(明治4)年に禁止されていた米を作るべき田畑での木綿、煙草、菜種等の商品化作物の栽培を許可し(田畑勝手作)、1872(明治5)年には田畑の永代売買の禁止を解除し、年貢負担者を土地所有者として認定して地価を記した地券(壬申地券)の発行を行い、また、8月には田畑貢租米の「石代納(こくだいのう)」(注9)を認めることにしました。そして、このような準備段階を経て、翌年7月には「地租改正法」を公布し、税制と土地制度の一大改革に着手したのです。ところが、第2次酒田県は、政府が石代納とすることを認めたにもかかわらず、これを認めず、折から米価の値上がりが続いたため、石代納と雑税を強制し、旧庄内藩士達が独占し得る米の流通機構づくりを企てたため、地主・農民による米の商品化の道が断たれることとなり、地主的土地所有の法認を求める地主を含め、農村内部に不満が高まり、これが後に「ワッパ騒動」と呼ばれる農民騒動の原因となりました。
(注9)年貢を米で納める代わりに貨幣で納めることです。

 ワッパ騒動以前の1869(明治2)年、庄内地方は大凶作に見舞われましたが、第1次酒田県はそれまで一部で認めていた石代納を廃してすべてを現物納にしてしまいました。同年10月22日、最上川の北方三郷(荒瀬・平田・遊佐)の農民は「天狗党」を組織し、村ごとに資金を集め、酒田県に対して雑税廃止、肝煎・大組頭・大庄屋などにかかわる費用免除と諸帳簿の公開、種夫食米(たねふじきまい)(注10)の利息の引き下げなどの18ケ条の要求を行いました。このほか荒瀬・遊佐では戊辰戦争のときの軍掛物(夜具、蚊帳、枕など)の返還、平田では、年貢の日延べと石納代(三分の二)を要求しました。騒動は1872(明治5)年まで続き、県令の罷免などがありましたが、最終的には第1次酒田県及び大泉藩の兵力によって鎮圧されたものの第1次酒田県の農民支配機構や徴税機構は大きな動揺を受けました。この騒動を「天狗騒動」といいます。また、天狗騒動が広がった同じ時期に大泉藩治下でも、藩の会津転封寸志金、庄内復帰に伴う70万両の献金のための寸志金、年貢の上納などに苦しむ農民が村役人を突き上げるとともに藩役人に直接交渉する騒動・「鼠ヶ関組騒動」が起き、結局、最終的には、藩が戊辰戦争時代の賄代、兵糧米代、人足代、その他物納した品々の代金として750両を支払うこととしたのですが、この750両は実際には農民には渡らず、70万両の献金のための寸志金の一部に振り替えられたといいます。
 このように「ワッパ騒動」の起きる前の庄内地方の領民たちは、従前からの貢租・雑税負担に悩まされていましたが、そのほかに戊辰戦争の戦費割り当があったこと、農兵・町兵や郷夫として戦争に狩出されたこと、庄内残留のためにも多額の金銭を課されたこと、その上、1869(明治2)年の大凶作にも見舞われたこと等等、その苦しみは大変なものでした。そして、為政者に対する農民たちの鬱積はどんどん蓄積され、次第にワッパ騒動の下地として醸成されていったのです。
(注10)旧庄内藩が百数十年前より管下人民に元米据え置きで籾種及び食料とする米(夫食米)を貸付け、利息を米で徴収したもので、第1次酒田県に引き継がれました。

 1873(明治6)年11月、田川郡淀川村(現鶴岡市淀川)の佐藤八郎兵衛、同郡片貝村(現鶴岡市櫛引)の鈴木弥右衛門を代表とする「石代納願」が戸長(こちょう:旧大庄屋)に出されたのを手始めに、石代納を求める運動が田川郡内の各村を席巻して、それは飽海郡にまで広がりました。さらに、要求はこれだけにとどまらず、県官の不正追求という方向に展開を見せたのです。1874(明治7)年1月、櫛引・山浜通りの村々(鼠ヶ関組、温海組、三瀬組、由良組、田川組、淀川組,小鍋組(温海・小名沢、平沢))の農民が石代納を戸長に願い出ましたが、県は運動の進展を抑えるため、翌2月、佐藤八郎兵衛ら指導者数名を検挙しました。しかし、上清水村(現鶴岡市上清水)や高坂村(現鶴岡市高坂)の農民達は、惣代を上京させ、3月と4月の二度にわたって警察・地方行政・土木などを統括する役所である内務省に「石代上納嘆願書」を提出すると共に、士族的特権を守るため政府の打ち出す施策を隠し続ける第2次酒田県政の実情を訴えたのです。
 その結果、同年7月16日内務省のナンバーファイブの官職にあった小丞松平正直(後の宮城県令)が來県して調査し、佐藤八郎兵衛らを出獄させるとともに1874(明治7)年からの石代納の実施と一部雑税の廃止を県に命じました。この命令をもとに田川郡上清水村の白幡五右衛門は、旧庄内藩士で県政批判派の金井質直(ただなお)・充釐(いんり)(注11)兄弟や酒田の酒造業者・森藤右衛門と提携して7月中に農民の利益となる石代会社設立を計画しました。会社は農民から集荷した米を大阪などへ独自の販路で販売し、政府に金納した残金を農民に返金するという仕組みになっていましたが、この計画は酒田県によって拒否されました。金井質直が農民にくみした動機は明確ではありませんが、金井家は代々、酒田町奉行を勤めていたといい、質直自身も庄内藩が蝦夷地(北海道留萌地方)を経営していたときに郡代であったといいますから行政手腕には大いに自信を持ち、自負するところがあったといわれています。ところが廃藩置県によって、酒田県の下級官吏に過ぎなくなり、この現状に対する不満が農民との運動に向かわせたといわれています。また、廃藩置県にあたり、種夫食米の利息が大泉県に引き継がれ、県は大蔵省の許可を得て、この利米を学校及び勧業振興に振り向けることにしたのですが、県はいわゆる松ヶ岡開墾も勧業振興に当たると解してこれを充当したので、金井らはこの種夫食米の利息は、本来農民に返還されるべきものとして、酒田県を批判したのです。
(注11)本多家に養子に入りますが、1876(明治9)年金井姓に戻ります。

 次に農民達は旧藩以来の雑税廃止を前面に掲げ、その取立てに当たる村役人(区長・戸長・村長など)に帳簿の公開を求め、8月に入ると、運動は旧黒川組(現鶴岡市櫛引)・旧青竜寺組(現三川町)・旧淀川村を中心に横に広がりを見せ、暴動化するなどその動きは最高潮に達しました。9月11日、騒動の拡大を恐れた県は、指導者の白幡、金井兄弟ら 100人余りを一斉検挙したのですが、農民達は激高し、15日、庄内一円から1万数千人の農民が鎌、棒、飯と松明を持って酒田監獄に向かいました。しかし、松ヶ岡開墾組士族を総動員した県に鎮圧されてしまいました。
 そこで、9月には反県士族と農民20数名が上京して司法省に第2次酒田県の対応を訴えたのですが、全員検挙されてしまいました。その後農民達は逮捕者の放免を求める運動に方向転換したのですが、10月から12月にかけては農繁期でもあり、運動は行き詰まりを見せてしまいました。そうするうち、政府は運動の徹底的弾圧を策し、1874(明治7)年12月、鹿児島出身の三島通庸(みちつね)を第二次酒田県令として任命します。大久保利通を中心とする新政府にとって庄内は、天狗騒動、ワッパ騒動、それに軍事組織を保持したままの松ケ岡問題など、問題の多い地方でした。松ケ岡問題は、武士としての本職を失った士族の再生の道を開墾に求めるという構想でしたが、政府は東北の鹿児島と目されていた庄内を警戒の目で見ていたようです。県令となった三島はワッパ騒動にかかわる農民を治めることに没頭し、管内に通達を出してこれ以上の雑税・浮役(臨時に課せられる雑税)について農民が騒ぎ立てることを厳禁したりするなどして農民たちの運動への弾圧姿勢をいっそう厳しくしました。しかし、同時に雑税の多くが廃止されるなど、農民達も若干の勝利を勝ち取ることが出来ました。
 一方、農民たちは、1875(明治8)年1月からは過納金の償還と逮捕者の釈放を求める訴訟という合法闘争に戦術を転換することになります。農民達は『払いすぎた税金を取り戻せば、ワッパ(曲げ物の弁当箱)一杯の金が戻る』を合言葉に立ち上がったことから、この、一連の闘争を「ワッパ騒動」と言います。
 森は18747(明治7)9月の農民たちの建白・訴訟運動を重視して9月に単身上京し、1875(明治8)年夏まで7回に及ぶ建白書などを司法省や当時の立法機関である元老院に提出するとともに松平・菅派の県政並びに三島県政・政府の姿勢をも報知新聞そのたに発表するなどして批判し、自由民権の立場から改革を訴えていました。そして、当面は中貧農層達の代言人として訴訟活動を行うと共に、県令三島に対して、すでに職を辞した松平と菅の処分を求めました。
 1875(明治8)年8月31日、第2次酒田県は県庁を鶴岡に移し、鶴岡県となりました。森が1875(明治8)年5月5日に法務省に提出した酒田県の旧税強制などの「県官曲庇圧制之訴」は却下されましたが、当時の立法機関である元老院は、元老院権大書記沼間守一(ぬまもりかず)他3名を調査のため鶴岡に派遣し、10月3日、現鶴岡市山王町の大昌寺で農民が傍聴するなか、県吏・区長・戸長・村長・特権商人らを厳しく取り調べました。困惑した三島県令は力添えを得ていた内務卿(当時の内務省長官)大久保利通に沼間の取調べは不当であると上申したので、ワッッパ騒動処置をめぐって政府内部に対立が生じて大問題になりましたが、森の請願運動が元老院を動かし、翌1876(明治9)年4月27日、司法省判事・児島惟謙(こじまいけん)による臨時裁判が鶴岡の御花畑御殿(高畑にあった酒井忠怒(ただひろ)の未亡人瑛昌院の御殿)で開催されました。
 訴状を改め、森藤右衛門が原告人、大友宗兵衛(金井家の執事)・金井充釐が渡部次郎左衛門、渡部弥次兵衛ら農民三人の原告代人となって、被告を鶴岡県とし、被告の圧政14か条と20万円余の償還を争いました。児島判事は、原告に対して『帰京の後、内務・大蔵両省の係官に質問の上でなければ採決しがたいので、おっての裁判を待て』と申し渡して6月16に鶴岡を去りました。しかし、判決予定の1877(明治10)年に「西南戦争」が起こったため、判決は延期され、督促の結果、翌1878(明治11)年6月3日に東京で出されました。

 最終判決では、14ケ条の内、4ケ条に勝訴し、「1873(明治6)年以降の種夫食米の利米などの過納分を県が農民に対して返還することを命じる」もので、一応、原告である農民側の勝利に終わりました。勝訴した返還金の83パーセント強を占める「種夫食米の利米の過納分」とは、前述の通り旧庄内藩が百数十年前より管下人民に元米据え置きで貸付、年々1割(3割とする説もあります。)の利米のみを返納させてきたもので、これに農民たちは苦しんでいました。1873(明治6)年、太政官布告第81号附録3節では、これは官庁が関係すべきものでないとしてあるのに、酒田県を引き継いだ鶴岡県は大蔵省に伺い済みを理由に従来どおり措置したものです。従って、判決では、1873(明治6)年から1875(明治8)年までの取立て高、金53,066円7銭7厘は村々に返還すべきとしたのです。二つ目は、廃止になっていた「租税方雇」の給料や回村費を従来どおり村々から取り立てていた分の1872(明治5)年から1873(明治6)年分についての 3,973円55銭を村々に返還すべきというものでした。三つ目は、県庁が私人に売り渡した米の酒田、鶴岡、加茂の三箇所の「蔵番給」を村々から徴収した分の1872(明治5)年から1873(明治6)年分の6,613円88銭5厘を村々に返還すべきというものでした。四つ目は、村吏が地券調べと称し、人民から金穀を課出し不正に用いたものは当時の村吏が人民に返還すべきというものでした。
 結局、返還金総額は、63,653円60銭2厘(現在の金額に換算すると十数億円)となり、1879(明治12)年までに村ごとに返還になりました。しかし、実際には、約64パーセントが献納金・学校金として三島によって強制的に天引きされ、三島の実施した両羽橋の建設などの土木工事に消費されました(実際は架橋を口実に最上川端の岩根新道工事に使われたということです。)。このあと、1880(明治13)年3月、村費の不正課出の返還訴訟でも農民達の要求が通り、戸長・肝煎らから組村費約15,000円の償還を得ました。この過程で、第二次酒田県参事であった松平が懲役1年の刑に処されたほか県吏が執行猶予のついた 100日の禁固の判決を受けましたが、実質的指導者といわれる権参事の菅にはなんらの処分も下りませんでした。

 金井質直は児島裁判を境に運動から離脱し、1879(明治12)年鶴岡で51歳の生涯を閉じましたが、弟の充釐もまた、1877(明治10)年上京して警視庁警部となって九州に向かい、西南戦争をきっかけに騒動から身を引き、後検事となって50歳で没しています。
 森藤右衛門は、福澤諭吉の「学問のすすめ」、とりわけ1874(明治7)年3月に出版された「七編・国民の職分を論ず」の強い思想的影響により、「力に対しては言論や世論で対抗すること」を信条に数年に及ぶ運動を展開し、福澤諭吉・板垣退助と共に民権家として全国から高く評価を得ることになり、植木枝盛の「民権自由論」の表紙絵にもなりました。その後は、国会開設運動や専横な貴島飽海郡長排斥、両羽新報発行、庄内自由党結成などに取り組み、1881(明治14)年8月には圧倒的な支持で酒田町戸長に当選、さらに飽海郡全町村連合会議長、県議会議員となり、庄内の発展に活躍したのですが、1885(明治18)年9月、県議会議員当選の翌年病のため山形で亡くなりました。44歳のことです。

 ワッパ騒動は着々と成果を挙げてきた自由民権運動とも言うべき運動でしたが、裁判の結果、過納金の返還が実現されるに及び、残念ながら農民の関心は返還金を分配するという目前の利益のみに集まってしまいました。さらに、還付金の配分をめぐっての約定を運動の拠点の一つとも言うべき高坂村の指導者の一人が反故にしたことから訴訟になり、これが泥仕合的に長く続いたこと、騒動を指導した金井充釐・大友宗兵衛と森藤右衛門との間にも、児島判決の四つ目の不正の課出取り戻し事件に関する謝金についての分配について争いが起きたことなどもあって、1884(明治17)年以降運動は解体してしまいました。1881(明治14)年に政府が「10年後に国会を開設する」と約束したことによる全国的な「自由民権運動」の高揚期を前にして、萌芽しつつあったかに見られた自由民権を支える基盤は、庄内地域から消滅してしまったのです。なお、「自由民権運動」は、板垣退助らによる1874(明治7)年1月の「民撰議院設立建白」の提出に始まり、1889(明治22)年の大同団結運動に終わる一連の民主主義運動のことを言います。
  
2009年11月4日