「ワッパ騒動」と「地租改正」について(2)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●「ワッパ騒動」と「地租改正」について(2)
 2 地租改正
 1872(明治5)年2月15日の太政官布告第50号は、「土地永代売買の禁」を解き、何人も土地を所有し売買することの自由を宣言し、土地所有について身分上の制限を廃止しました。これにより、土地は封建的な拘束から開放されて土地の私的な所有が法的に認められることになりましたが、同時に近代的な地租制度を確立するために「地券制度」が定められたのです。この地券はその年の干支をとって「壬申地券」と呼ばれました。地券発行の手続きは、幕藩統治の根本台帳であった検地帳など旧来の土地帳簿を基準としてこれと照合し、各町村では戸長の指導のもとに地券下調べを行って地券申請し、各県令が正副2通を作成し、正本は地主に交付し、副本は地券台帳に編綴(へんてつ)するものでした。しかし、地券は各地で様式が異なり、券面記載事項も申請が不正確なものが多かったため、政府は、1873(明治6)年2月に地租改正条例を公布し、形式・申請内容などを統一しました。すなわち、土地を精査して面積・収穫量を明らかにし、これに基づいて旧来の石盛(こくもり:反当りの平均収穫量)に代わって全国一律の基準で決定された地価を課税基準とし、課税の全国統一を図ること、納入は金納とすること、土地所有者は豊作・凶作に関係なく地価の100分の3を地租とすることでした。そのほかとしては、田畑は一律に「耕地」、家屋の土地は「宅地」とすること、納税義務者は地券によって確定された土地所有者とすること、茶・煙草などの物品税収入が200万円以上になったら、税金を地価の100分の1に下げることなどでした。

 壬申地券及び地租改正条例に対する第2次酒田県の対応方針は、田畑からの生産米に農民の取り分があるところから農民の土地保有権の存在を認めるが、これをいったん政府が買い上げた上で、改めて貢租部分を含めて土地所有権とともに農民に高く買い取らせることを意図していました。幕末のこの地域の村々の租率は、天領で村高の65パーセント、庄内藩領では雑税・村入用(むらにゅうよう;村役人の給料、寄合の費用など村政に必要な諸経費)が大きいため、村高の82パーセントほどで、租税負担に大きな差がありました。したがって、これでは、政府の方針に反するものであり、また、農民が土地を買い取るとしても過重な負担を強いることになり、農民が土地所有者に成長する道を極めて困難にするものでした。そして、政府の方針とは異なる地租改正の考え方、貢租の公平・均一化の問題を解決できない考え方は、やがて農民の強い反対を受けることになったのです。前回述べたように、1873(明治6)年11月の田川郡淀川村の佐藤八郎兵衛、同片貝村の鈴木弥右衛門を代表とする「石代納願」によってワッパ騒動が起きるのですが、この騒動はまさしく、酒田県の地価調査の過程であらためて農民が自分たちの年貢・雑税の重さを感じとったことに端を発し、やがて石代納の要求と同時に雑税廃止を要求する一大運動として県下全域に発展していくことになったのです。

 1874(明治7)年12月、三島県令が着任した第2次酒田県では、前年にワッパ騒動が起きたこともあって、1873(明治6)年の条例に基づく地租の改正事業はほとんど進捗していませんでした。そこで、三島県令は、1875(明治8)年8月に「地租改正の儀、今般追々着手」と改正事業着手を布達し、所有地を一筆ごとに反別し、番号、持主姓名を記した畝杭を建てておくよう、各村の戸長に通達しました。そして、8月から9月にかけて自ら部下を引き連れて県内各地を巡回し、行く先々で指導的農民を呼びつけ、『大勢集合して不都合の申し合わせなどをしてはならない。また、村入費(村に納める税)不名義の取立方等の故を以て、旧肝煎に対して下げ戻しの要求をしてはならない。』と警官を立ち合わせて農民らを説諭したり、ワッパ騒動の指導者には特に厳しく詰問・叱咤し、人によっては檻倉(かんそう;牢屋)入を命じたりしましたので、「鬼県令」と呼ばれて大変恐れられました。前回も述べましたが、この年の8月31日付で第2次酒田県は鶴岡県と改称することになり、9月13日県庁を鶴岡に移し祝典が盛大に行われました。そして、三島は県令室を庄内藩の精神的よりどころとなっていた旧藩校致道館(1873(明治6年廃校)に置き政務を執りました。
 同年10月になると鶴岡県は、「地租改正人民心得書」を通達し、大山村・藤島村に各村総代を招集して「実地丈量法」を伝達し、12月までに丈量(測量)を終えるように指示しました。この丈量作業は戸長・村長・丈量作業人・村人夫など総動員で行いましたが、降雪の中での土地の形状・境界・河川の把握に難儀したため、作業は翌1876(明治9)年春になってようやく終わりました。実地丈量の結果、鶴岡県では旧藩時代に「息抜き地」として大目に見られていた「縄伸び地」や「隠し田」が取り上げられたものの、旧反別に比して台帳面積が約2倍となり、特に、新田・山間部が大幅に増加しました。
 一方、鶴岡県は、1876(明治9)年1月から田畑の収穫量調査の基準となる村位等級を、戸長らと作成して各村に提示し、7月にはほとんど県作成案通りに決定しました。等級上位には水沢村(現鶴岡市水沢)・上山添村(現鶴岡市櫛引)・大山村(現鶴岡市大山)・藤島村(現鶴岡市藤島)などがなり、下位には成田新田村(現三川町)・木野俣村(現鶴岡市温海)などがなりました。
 同年8月中旬から1ヶ月間、国・県係官の田畑の収穫量調査が行われました。地租改正に当たってもっとも重要なことは、地価の算定です。この地価の算定方法は、まず、土地の収穫量を決め、これに平均米価(明治3年から5ヵ年の平均)を掛けて収益金を出し、これから肥料代、種籾代、村費を差し引いた純益に、利回り(自作6分、小作4分)を見て出すもので、この方法は差し引き分に労賃などを見ていない不合理はありましたが、当時としては一応理にかなったものでした。ただ、この収穫量調査に当たって県は、出張先に1日10数ケ村の村長や有力農民を召集し、村の実地調査を行わず、県の指示によって収穫量を決定しました。この収穫量は、明治初年頃の実質収穫量より20パーセントほど低く見積もられ、県は農民に大幅な妥協を図りました。また、県はこの収穫米の基準価格を1石3円10銭と決め、地価金と地租金の算出を指示し、その結果、新反別・新収穫量に合わせた地価金と地租金が算定され、1876(明治9)年9月、各村では地価帳・村地価総計帳を作成し、地主惣代・村長・戸長・・区長連署で、前述の通り、1876(明治9)年8月21日に置賜県・山形県・鶴岡県が統合された山形県の初代県令となっていた三島に県内で一番遅れて提出しました。そして、地主たちは12月には当該年分の地租金の半分を納入し、これに対して県は地主の土地の所有権を認める「地券」を交付しました。以後、地券を渡された者は地租の納付義務者になりました。
 最初、「地租」は「地価」の100分の3とされましたが、1876(明治9)年に米価が下落したこと、政府は江戸時代の年貢収入を維持することを目的としていたために、あらかじめ割り当てられた地租額から逆算した地租が押付けられたことなどで各地の農民が反発するところとなり、同年11月27日茨城県真壁郡の農民が行動を起こし、12月には同県那珂郡の農民も蜂起して、さらに、三重県飯高郡の農民が蜂起しました(処罰者5万人を出した「伊勢暴動」)。山形県でも北村山・最上郡で地租改正を不満とする減租運動が起きており、この年には全国各地で地租改正をめぐる県官と農民との紛争が多発していました。政府は、1874(明治7)年2月に起きた「佐賀の乱」を始め、各地で続発する士族の反乱、そして1877(明治10)2月の「西南戦争」に至る一連の士族の反乱の鎮圧に忙殺されており、これらの一揆は政府に大きな衝撃を与えました。その結果、 1,877(明治10)年からは、政府が後退して地租は100分の2.5になりましたので、民衆はこの結果を「竹槍でちょっと突き出す2分5厘」と政府の対応を風刺しました。
 さらに、1876(明治9)年からは山林原野の地租改正にも着手し、翌年10月に完了しましたが、これは、私的土地所有の法認が行われた田畑・宅地と異なり、官民有区分を実施することで、国有林の設定が意図されていました。このため、旧藩時代の村共有の入会林・草地・原野などはほとんど官有地に編入されてしまいました。戊辰戦争に敗れた東北では特に厳しく、山形県では全林野の73パーセント、35万8千ヘクタールが官林に召し上げられました(1885(明治18)年統計)が、現酒田市の袖浦地区では激しい官有地払い下げ運動が展開され、裁判で村が勝訴した例もあります。

 地租改正の結果、庄内地方は旧税に比して約11パーセントの減租となり、特に、田は、反別が約2倍に増加したのに新地租は16パーセント減となりました。ただ、鶴岡・酒田・松嶺の市街地と旧天領は増税となりましたが、旧藩領は15パーセント減となり、特にワッパ騒動激化地区の村々は、25パーセント以上の大幅な減租となりました。このことは、三島県政が大きく動揺し、県内はもちろんのこと東北・関東を通じて全く異例の大幅減租をもたらした結果となり、ワッパ騒動の重要な成果であったといえます。
 この地租改正の大事業の成功を祈念し、また、その完成を祝い・記念して鎮守の社に奉納したものが先に庄司英樹さんが投稿した「地租改正測量絵馬」なのです。また、絵馬と同様のものとして「改正丈量完成絵図屏風」として残っているものもあります(三川町・佐藤昭治さん蔵)。これら現存の絵馬や屏風は、地租改正作業が開始された1875(明治8)年から1876(明治9)年9月の作業完了、ワッパ騒動に関する判決の出た1878(明治11)年6月3日を挟み、1880(明治13)年ごろまでに描かれ奉納されています。

 振り返れば、「ワッパ騒動」は第2次酒田県の実権を握り、封建制を維持しようと意図した旧庄内藩士に対して、農民たちが年貢の金納・雑税廃止の実現を求める形で自由民権的な闘争を展開したため、結果的に地租改正の作業が進捗し、作業の結果、田畑の規模の実情が把握され、県が収穫量で大幅な妥協を示したため、多くは大幅減租を勝ち摂ったことになるのです。また、地主的土地所有が認められ、米価値上がりの中で地租分が低下し、地主と上層農民は有利となりました。そして、指導農民の中には、乾田馬耕と品種・肥料改良などの新しい農法開発に励み、庄内農業の発展の土台を築いた者がおり、その結果、収穫量を増加させ、農業の発展とともに土地の集積を増加させました。また、地主らは村長・議員や農会・水利組合などの役員となり、村や地域の政治・経済から生活・行事に至るまで、強大な支配力と影響力を持つに至りました。
 昔の湿田は、一年中水を張ったままで土壌が軟弱であったため、膝まで没する有様で農作業は困難を極めました。それに対して排水を良くして湿田を乾田に変え、耕地整理をして馬による耕作を導入したものを乾田馬耕といいます。乾田化すると肥料の吸収が良くなり、米の増収をもたらすと共に労力の大幅節減にもつながります。湿田の米の収量は、10アール当たり150〜180キログラムで現在の4分の1程度の収量であったということです。乾田化の試みはすでに江戸時代末に、遊佐、余目地方の篤農家によってなされていたといいますが、山形県では、1883(明治16)年、乾田馬耕の農法を普及させるため、先進地である北九州地方で行われていた犂による耕土を初めて県内に紹介し、翌1884年、馬耕出願手続きを定めて、実施奨励を図っています。また、庄内では、5人の農民を福岡県に派遣して、馬耕等農事の実情を視察させています。同1890(明治23)年、西田川郡では、平田安吉(ひらた やすきち)等が福岡県に赴き、農老(注)林遠里(はやし りえん)に指導を受け、二人の農業教師を招聘しました。翌年、飽海郡では本間家が中心となって同地から伊佐治八郎(いさ じはちろう)を、ついで東田川郡では島野嘉作(しまの かさく)を農業教師として招き、その指導によって乾田馬耕は急速に普及していきました。
 これら先人の功を称えて、鶴岡公園には平田安吉の遺徳費が、酒田市宮内には伊佐治八郎の、鶴岡市藤島に島野嘉作の乾田記念碑が建立されています(庄内日報社の郷土の先人・先覚193及び鶴岡市観光連盟のホームページ・石碑めぐり)。また、伊佐治八郎が乾田化の成功を記念して、農具の実物を絵馬にして奉納したものが酒田市日吉町の日枝神社に収蔵され、さらに、酒田出身の画家池田亀太郎が描いた伊佐治八郎の馬上姿を絵馬にしたものが同神社に奉納されています。さらに、島野嘉作の業績を報謝した馬耕図絵馬が鶴岡市櫛引の山添八万神社に収蔵されています(図説・庄内の歴史・、農業明治時代の技術の革新)。
(注))主に明治時代の農事功労者の尊称として用いられました。彼らは農村での実践を通じて農事改良に勤めました。主な農老としては、中村直三(奈良県)、奈良専二(香川県)。林遠里(福岡県)、船津伝次平(群馬県)があげられます。

 前回・今回と一文をまとめるにあたり、「ワッパ騒動と自由民権」(校倉歴史選書)、「山形県の歴史」(山川出版社)、「山形県の百年」(山川出版社)、「山形百年」(毎日新聞社)、「決定版・庄内ふるさと大百科」(郷土出版社)、「図説・庄内の歴史」(郷土出版社)、「早分かり日本史」(日本実業出版社)、「新編・庄内人名辞典」(庄内人名辞典刊行会)、「山形県大百科事典」(山形放送)、「シリーズ藩物語・庄内藩」(現代書館)、「大日本百科事典・ジャポニカ−18」(小学館)、「臥牛菅實秀」(財団法人致道博物館)、「現代語訳・学問のすすめ」(ちくま書房)、「白い国の詩」((株)東北電力)、「近代における徴兵制度の形成過程」(京都大学・人文学報第66号)など多くの文献を参照しましたが、なかでも「図説・庄内の歴史」と「ワッパ騒動と自由民権」によるところが大です。「ワッパ騒動と自由民権」は、母校昭和25年3月卒業(第57回)の佐藤誠朗(さとう しげろう)さんの著によるもので大変参考になりました。著書によれば、佐藤さんが母校の通信制課程に勤務していた1961(昭和36)年5月から1967(昭和42)年3月までの間に当該騒動に着目し、数回にわたって現地調査を行うとともに、通信制課程の機関紙に連載を重ね、さらには各種講演会等で研究成果を講演しています。そして、1970(昭和45)年4月から新潟大学に勤務され、1980(昭和55)年からほぼ1年をかけて論文の執筆に入り、1981(昭和56)10月に当該本を出版したのです。本には騒動の起きた庄内地域の実情、農民運動の推移、森や金井・農民個々人の活動状況、県庁・国の対応、裁判の開始から判決までの経緯、騒動の終焉とその後の経緯等々について資料を駆使して仔細に記述してあり、他の参考書には無い迫力があって今まで知らなかったことがよくわかり感激でした。
  
2009年11月20日