●寛政の改革の実施者・松平定信のもう一つの顔
鶴岡公園は、すでに冬支度の松の幹巻きや堀の鯉の引越しが終わって、現在は静かな初冬の佇まいを見せています。この公園は、庄内藩主酒井氏の居城「鶴ケ岡城」が戊辰戦争の後、政府に没収され、1873(明治6)年1月の「全国城郭存廃の処分並兵営地等撰定方(廃城令)」(注)により1875(明治8)年3月に城内の建築物が全て破却され、一部を残して土塁や堀が埋められました。そして、1873(明治6)年1月15日の太政官布告第16号に基づき、本丸と二の丸の跡が公園となったものです。その面積は11.98ヘクタール(36,240坪)あります。
(注)明治政府から太政官達書(最高官庁である太政官から各官庁に対する命令書)として大蔵省に発せられた文書で、今まで全国の城郭の土地建物については、陸軍省所管でしたが、今後引き続き陸軍省所管の行政財産とするもの(存城処分)、大蔵省所管の普通財産に所管換えして、大蔵省で地方団体へ売却するなどして処分するもの(廃城処分)に区分しました。山形県内では山形城が存城処分、鶴岡ケ城、新庄城、上山城、米沢城、天童陣屋が廃城処分になりました。
ところで、わが国において「公園」という語が公用文に用いられたのは、この太政官布告第16号が最初です。この通達の概要は、『日本に「公園」という制度を発足させるので、相応しい土地を選定して伺い出るように』と各府県に対して通達したものですが、布達の内容は短いものなので参考までにその全文を掲げて見ます。
◆公園設置ニ付地所選択ノ件
三府ヲ始メ人民輻輳(ふくそう)ノ地ニシテ古来ノ勝区名人ノ旧跡等是迄群集遊覧ノ場所(東京ニ於テハ金龍山浅草寺東叡山寛永寺境内ノ類、京都ニ於テハ八坂社清水ノ境内嵐山ノ類総テ社寺境内除地或ハ公有地ノ類)従前高外除地ニ属セル分ハ永ク万人偕楽ノ地トシテ公園ト可被相定(あいさだめられるべき)ニ付府県ニ於イテ右地所ヲ択ヒ其景況巨細取調図面相添大蔵省ヘ可伺出事(うかがいいずべきこと)
◆現代表記:公園を設置するので、相応しい土地を選定する件
東京・京都・大阪をはじめとする人口の集まる地域の由緒ある景勝地または著名な人の旧跡等で、古来、人々が遊覧の場所としていたところ(例えば、東京においては、金龍山浅草寺、東叡山寛永寺境内の類、京都に於いては八坂社、清水の境内、嵐山の類で、従来検地の対象から除外され特別免税地の扱いを受けていた社寺境内除地や公共用地の類)や従来特別免税地の扱いを受けていた高外地(注)があるならば、それらは今回改めて永久に総ての人々の楽しむ土地として公園とすべきであるので、府県にあっては適地を選び、その場所の状況調書や図面を添えて大蔵省に提出しなさい。
(注)山林、原野、河海など検地の対象とならない土地などですが、ただし、普通は、小物成といってここからの用益(漁業、船運業などによる利益)や産物(漆、柴など)には課税されました。
明治政府の神仏分離政策(1868(慶応4)年4月5日から1868(明治元)年10月18日までに太政官布告・神祇官事務局から一連の通達が出されました。)、それに続く1871(明治4年)の太政官布告4号による社寺上地令で、除地や高外地とされて年貢諸役を免除されていた社寺領の境内地を除く林地などは召し上げられて国有地化されました。また、厳密な意味の社寺境内地以外の領域には、1872(明治5)年に壬申地券が発行され、翌1873(明治6)年の地租改正条例の公布に伴い租税対象地となることが確実であったことから、上記のような人々が多く集まるところは公園(公有地)にしたほうが良いとの判断が働いたものと思われます。また、いくつかの研究によれば、1873(明治6)年から始まる地租改正に基づく官民の土地所有の峻別化において、所有者のまだ不明な社寺境内地などの土地に対して設定された土地種目の一つが「公園」であったとする説もあります。すなわち、社寺境内地を官有にして、官有ながら社寺の経営を認め、土地を貸して借地料・地方税を取ることの出来る地目としたというものです(小野良平・「公園の誕生」(2003年、株式会社吉川弘文館)。事実、戦前の「浅草公園」では仲見世などから得た借地料が、独立採算制であった東京市の公園経営を支える重要な財源になっていました。
実は、太政官布告第16号以前の日本政府の公文書に「公園」という文言が登場していました。1866(慶応2)年11月23日、徳川幕府と外国公使団との間で、横浜のいわゆる「豚屋大火」を契機に、港崎(みよざき)遊郭を移動して跡地に公園を整備する、居留民地区と日本人街に区画整理を行い、火災の延長を防ぐ大通りを設ける、外人墓地の拡張を行う、居留地を拡大することなどを盛り込んだ「横浜居留地改造及び競馬場墓地等約書」が交わされたのですが、残念ながら履行できずこの計画は明治政府に引き継がれました。大通りなどは、1872(明治4)年、イギリス人ブラントの設計により工事が進められるのですが、公園については、1869(明治2)年に居留民代表から再度設置の要望が明治新政府になされ、政府は先に幕府が約書で約束した土地の代替として、横浜山手の妙香寺付近の土地面積6,781坪( 2.24ヘクタール)並びにその地に付属する樹木共を「居留民専用の公園」にするということで、日本国と条約締結済みの各国コンシェル(あらゆる要望、案内に対応する総合世話係的部門)との間に土地の貸与協定を締結しました。この協定書の本文中に「公の遊園」、「公園」の文言が見られるというものです。協定締結は、1869(明治2)年になされ、その後、居留民によって整備が行われ、翌1870(明治3)年に現在の「山手公園」が開園しました(俵浩三・「緑の文化史」(平成3年・北海道大学出版会)、瀬田信哉・「再生する国立公園」(2009年・アサヒビール株式会社))。
この太政官布告第16号に従って、東京府は金龍山浅草寺(浅草公園)、東叡山寛永寺境内(上野公園)、三縁山増上寺(芝公園)、富岡八幡宮(深川公園)、飛鳥山(飛鳥山公園)の5箇所を公園として伺い出、同様に府県からも伺いが出て、ここに空間としての公園が成立することになります。東京府と同じく1873(明治6)年には、大阪府の住吉・浜寺の2公園、広島県の巌島・鞆の2公園、高知県の高知公園など全国で25の公園が指定されました。山形県でも、1874(明治7)年に米沢市の米沢城の本丸跡を中心とする松ケ岬公園が、1980(明治13)年に、酒田市の日和山公園が鶴岡公園と同様に太政官布告第16号に基づく公園として指定されました。なお、現在、法律に基づく「公園」には、「都市公園法による公園(都市公園)」(鶴岡公園、日和山公園、松ケ岬公園、県総合運動公園、国営みちのく杜の湖畔公園など)と「自然公園法による公園(自然公園)」(磐梯朝日国立公園、鳥海国定公園、庄内海浜県立自然公園など)との区別がありますが、太政官布告第16号に基づき指定された当時の公園にはその両方のものが混在して指定されていました。
ところで、この太政官布告第16号より遡ること72年前に「身分制度に囚われず、総ての人々が楽しむ公園」としての公園造りをした人に、寛政の改革で有名な松平定信がおりました(「江戸時代の園芸文化史〜岩佐亮二コレクションを中心に〜」(2009(平成21)年10月16日〜11月15日・松戸市戸定歴史館)。
定信は8代将軍吉宗の孫に当たり、1774(安永3)年奥州白河藩主松平定邦の養子となり、1783(天明3)年養父の後を継いで白河11万石藩主についています。そして、11代将軍徳川家斉の治世前半に老中として政務を担当し、実施したのが「寛政の改革(1787(宝暦8)年〜1793(文政12)年)」で、江戸の三大改革といわれます。この改革は、田沼時代に弛緩した世相の引き締め、荒廃した農村の復興、幕府財政の再建を目標に政治改革を実行したのですが、余りにも厳しい緊縮政治であったため、士庶の不満が集中し、また、進展する貨幣経済に対応することは出来ませんでした。この時期、庄内でも7代藩主酒井忠徳(ただあり;在位:1788(明和4)年〜1805(文化2)年)が、元禄の頃からの奢侈の弊続きで窮乏した庄内藩経済の抜本的建て直しを企画し、自ら範を示すとともに本間光丘を勝手方御用に命じて財政改革を行い、また、家老酒井吉之丞、中老竹内八郎右衛門、郡代服部八兵衛、同白井矢太夫を起用して白井矢太夫の改革案に基づき農政改革を実施しています(庄内人名辞典刊行会・「新編庄内人名辞典」(昭和61年・庄内人名辞典刊行会)、本間勝喜・「庄内藩」(2009年・現代書館))。
さて、この寛政の改革を実行した定信は、庭園(公園)設計や博物学の先駆者としての顔も持ち、また、茶人でもあって「白河楽翁」とも呼ばれ、生涯に江戸と白河に五つの庭園を造園し、当時の諸大名の中でも際立った造園家として知られていました。
定信の造園にかかわる唯一現存するものは、福島県白河市郊外の「南湖(なんこ)」です。白河は古くから東北への関門が置かれたところであり、また、戊辰戦争では天王山となった激戦地としても知られています。「南湖」の名は、白河城の別名「小峰城」の南に位置するところから名づけられたともいい、また、李白が中国湖南省にある洞庭湖(洞庭湖の南の部分が南湖)に遊んで詠んだ詩句の一節・「南湖秋水夜無煙」(注)からとったともいわれています。ここは葦や茅の生い茂る湿地帯を浚渫し、築堤などの土木工事を実施し、松、桜、紅葉などを植栽し、今から 208年前の1801(享和元)年に完成した「公園」なのです。その公園たる故は、当時の大名庭園が城内あるいは別邸という囲われた空間に造園されているのに対して「南湖」にはこれを取り囲む柵や塀が当初から作られませんでした。さらに、当時厳格であった士農工商という身分制度にかかわらず、誰でもこの地に入ることが出来、望めば湖に船を浮かべ、風景を堪能することが出来たのです。また、御茶屋「共楽亭」は、身分の差を越えて庶民が憩える「土民供楽」という思想に基づき名づけられたもので、当時の建築の常識を破り、一切の敷居が作られず、身分の違いによる敷居越しの対面を意図的に否定した思想が反映されています。前述の通り日本に公園制度が導入されて、各地に公園というものが出現するのは前述の通り1873(明治6)年以降ですから、「南湖」の造営は、まさに日本最初の公園といえるのではないでしょうか。南湖は、現在は「自然公園法」に定めるところの「県立自然公園」にまた、「文化財保護法」に定めるところの「国指定史跡及び名勝」に指定されています。その面積は約38ヘクタール(114,950坪)で、内18ヘクタール(54,450坪)が湖面積です。
(注)「陪族叔刑部侍郎嘩及中書賈舎人至遊洞庭五首其ニ 李白」(刑部侍郎をしている親戚の李嘩叔父さん中書舎人の賈至さんのお供で洞庭湖に遊んだときの五首の歌 李白) 南湖秋水夜無煙(南湖秋水夜煙無し;南湖の秋の水面は、夜になっても靄が無く澄み切っている) 耐可乗流直上天(耐(なん)ぞ流れに乗じて直ちに天に上がる可(べ)けんや;いっそ水の流れに乗ったまま、真っ直ぐに天まで昇りたいが、それはとてもかなわぬことだ) (且(しばら)く洞庭に就(つ)いて月色を借り;ひとまずはこの洞庭湖で、美しい月光を借りうけ) 将船買酒白雲邊(船を将(も)って酒を買わん白雲の辺り;船を進めて酒を買いに行こう、あの白雲のあたりまで)・・・レファレンス協同データーベース(国立国会図書館)
|
そのほかの四庭園については、「定信と庭園」(福島県教育委員会文化課佐川庄司)を参照してそれぞれ概略紹介すると次のとおりです。
◆「浴恩園(よくおんえん)」:現在の東京都中央区築地にある東京卸売市場の場所に当たります。江戸での生活拠点である下屋敷邸内に造園されたもので、1794(寛政6)年ごろに完成した敷地約17,000坪(5.61ヘクタール)の広さを持つ池泉回遊式庭園です。1829(文政12)年、神田から出火した大火により総てが灰燼に帰しました。
◆「六園(りくえん)」:現在の東京都豊島区大塚に文化年間(1804年〜1818年)に造園した面積約12,000坪(3.96ヘクタール)の庭で、泉水を中心としたものではなく、高低差のある地形を利用して「集古園」・「攅勝園」・「百菓園」・「春園」・「秋園」・「竹園」の六ゾーンからなる庭園です。この六園は、古文化財を保管する目的や珍木異草、舶来の寄樹を集めた、文化財と植物園的性格をあわせ持ち、定信の好古趣味を最も反映した庭園でしたが現存しません。
◆「海荘(はまやしき)」:深川入船町(現在の東京都江東区)に1816(文化13)年に設けられた別荘で江戸での定信最後の庭園です。規模は1,000坪(0.33ヘクタール)で江戸湾を池に見立て富士山や羽田・品川沖から房総半島までも眺望できる庭でした。海岸に鴨の池や塩田があって、塩田で塩を生産していました。現存しません。
◆「三郭四園(さんかくしえん)」:白河城三の丸に所在した庭園ですが現存しません。1794(寛政6)年、定信は老中を辞して、白河に帰藩していますが、この年から白河小峰城三の丸に下屋敷御殿とともに別名「不誼斎園」よばれる池泉式回遊式大名庭園を造園しました。面積は約16,000坪(5.28ヘクタール)で、地形を利用して池を掘り、山を築き、松を植栽し、竹林を設けるなどして4年がかりで造園しました。絵師が寛政年間(1789年〜1800年)に描いた眺望図を見ると瀑布や流水、東屋や茶亭があり、松林や竹林越しに那須連山が借景として取り込まれていたようです。
なお、水戸の偕楽園(都市公園法に基づく茨城県立公園、文化財保護法に基づく特別名勝)、岡山の後楽園(都市公園法に基づく岡山県立公園、文化財保護法に基づく特別名勝)と並び日本三名園の一つに数えられる金沢の「兼六園(都市公園法に基づく石川県立公園、文化財保護法に基づく特別名勝)」の名称は、定信が加賀藩第12代藩主前田斉広(なりなが)の依頼により命名したものです。かつて私も訪れたことのある兼六園内の「石川県立伝統産業工芸館」には、定信の揮毫による「兼六園扁額」が伝存していますが、もともとは兼六園正面の「蓮池門(れんちもん)」に懸けられていたものです。定信は、中国宋時代の詩人・李格非(りかくひ)の書いた「落陽名園記」という書物の中の次の文を参考にして、1822(文政5)年、「兼六園」と命名しました。
◆洛人云う園圃の勝、相兼ぬる能わざるは六、宏大を務るは幽邃少なし、人力勝るは蒼古少なし、水泉多きは眺望難し、此の六を兼ねるは惟湖園のみ)
◆現代語表記:広々としておれば(宏大)静かな奥深さはなく(幽邃)、人工的であれば(人力)古びた趣は少なくなる(蒼古)。また、池や曲水や滝が多ければ(水泉)、遠くは眺められない(眺望)。すなわち、それぞれ相反する六つの景観(六勝)を兼ね備えているのは「惟湖園」だけです(金沢市観光協会)。
すなわち、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりょく)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼ねることが理想的な庭であると記されており、定信はこれを引用して兼六園と名付けたのです。しかし、定信が命名を依頼された時期には、現在の兼六園に見られるような広大さや眺望には欠けていたと言われ、斉広の子の13代藩主斉泰(なりやす)が、父が造営した広大な竹沢御殿を解体して池を広げてから現在の兼六園になったと言われています。それは幕末が目前に迫っていた1851(嘉永4)年頃だといわれています。
|