「成人の日」に一人前について考える


64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「成人の日」に一人前について考える
『自今満弐拾年ヲ以テ丁年ト相定メ候』
 これは1876(明治9)年4月1日に太政官が布告第41号として布達したもので、その内容は、「今後満20歳を以て一人前に成長した年齢として取り扱う」というものです。この「丁年(ていねん)」というのは「体が丈夫で元気な時に丁(あたる)歳」という意味で、一人前の成人のことをいいます。隋唐の制度に倣った大宝律令においては人の年齢を次表の通り6階級に区分し、21歳から60歳までの男子は「正丁(せいてい)」と呼ばれ、庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)の賦課対象となっていました(老にあっては、正丁の2分の1を負担することになっていました。)。

3歳以下の男女

緑児(みどりご)

16歳以下の男子

少子(しょうし)

17歳以上20歳以下の男子

少丁(しょうてい)
21歳から60歳までの男子

正丁(丁)(せいてい・てい)

61歳から65歳までの男子

老(ろう)

66歳以上の男子

耆(き)

 庸というのは、正丁一人1年間に10日の労役を提供する代わりに布二丈六尺(26尺)を納めることで、担税能力の差に関係なく各個人に同額を課す租税(人頭税(にんとうぜい))です。調というのは、人頭税として課せられるもので、絹、綿、海産物などの諸国の産物を納めるもので、庸とともに都に運ばれて国家の財源となりました。雑徭というのは、大宝律令で定められた歳役のほかに国司によって公民に課せられた労役のことで、正丁では1年間に60日を限度として土木工事などに従うものです。ただし、この大宝律令での正丁という概念は,労役と貢物及び兵役義務の基準であって、今日における成人の基準とはその概念が異なるといわれますが、一人前としての基準を定めたものには間違いないと思います。
 奈良朝以降になると元服の慣習が生じることになり、男子は元服によって社会的に一人前の男になると考えられるようになりました。つまり後見解除の効果が生じるようになったのです。元服は普通11歳から16歳の間に行われ、髪を結い、服を改め、清涼殿に昇殿することが許された官人または公卿になれる家柄の堂上家(どうじょうけ)以上は冠、これに対して清流殿に昇殿することを許されず、また、公卿になれない家柄の地下(じげ)では冠の代わりに烏帽子を着用しました。なお、公家の女子の場合は、成人したしるしに結婚前の12・ 3歳ごろの吉日を選んで、初めて裳という腰から下にまとう衣服を着ける裳着(もぎ)、髪を結いあげる髪上(かみあげ)、歯を黒く染める鉄漿(かね)付けを成人の儀礼としました。中世以降になると男子の行事は冠と烏帽子が混同されて、烏帽子を用いても加冠といい、近世にいたっては烏帽子も省略されて月代(さかやき)を剃るだけで済ませるようになり、また、これを機にして幼名を廃して実名を名乗りました。
江戸時代には15歳未満を幼年といい、庶民階級の間でも男子は普通15才を以て元服とするのが普通でした。ただ、地方によって元服の慣習が異なり、13歳、16歳、17歳、18歳、19歳、20歳、22歳など幅があり、また、婚姻の時を以て成年とするなどその形態は様々でした。
 古代ギリシャの医師ヒポクラテスは、21歳以下を幼児、児童、少年に区分し、それ以上を青年、成人、中老、老人と区分していたようです。また、古代ローマでは、男子は14歳になって白い外衣を着ることによって大人であることを認められ、ユダヤでは13歳になると宗教上の責任と義務を負わせられたようです。カトリックでは洗礼と堅信(洗礼を受けたものがさらに信仰を強め、霊の恵みを得るために手を頭の上において聖霊の力が与えられるように祈ること(按手(あんしゅ))と聖香油を受ける儀式のこと)によって一人前の信者となることができました。
 中国では3歳を孩(がい)、5歳以下を童(どう)、7歳を悼(とう)10歳を幼(よう)、20歳を弱(じゃく)、30歳を壮(そう)、それ以上を10歳ごとに、強(きょう)、艾(がい)、耆(き)、耄(もう)、耋(てつ)、(たいはい)、(きい)と呼びました。悼以下と耄以上は罪を犯しても刑を加えず幼児と老人は社会の外側に置いていたようです。20歳を弱冠、加冠、成丁ともいい、周の制度では20歳になると元服の儀式を行い冠を付けてこれよりを丁(大人)の一員として扱いました。
 以上いろいろ見てきましたが、古来より日本では、一般的に男子が15才、女子では13歳を以て一人前として労働、婚姻、戦闘などの能力があるものと認められ、また、神事・仏事を司ることもできるようになり、大人の仲間入りができました。そして、労働能力の場合、男子は4斗俵(16貫、60キログラム)を背負うことをこなし、女子では1日に7畝(210坪、694.2平方メートル)の田植えをこなすことが要求されたのです。神事では男子は御神輿を担ぐことが許され、褌を付けるので、「褌祝」ともいわれました。
 明治時代に入ると諸外国の例に倣った諸制度の導入、法律の制定等の必要に迫られ、成年制度の導入が国家運営上必要となりました。そこで、明治政府の法制局は当時新法の制定を司っていた元老院に高裁を仰ぎ、各国の成年年齢、フランス・ロシア・イタリア・アメリカの21年、オーストリア・ポルトガルの24歳、イギリスの22歳、オランダの23歳を参考としつつも、結局、大宝律令の定めに基づき満20歳以上を成人年齢とすることにし、文頭で示した布達を行ったのです。。
 一人前として子供が大人の仲間入りすることは社会公認の儀式であるわけですが、現代の日本では成年になることを民法では次のように定めています。3条の規定により満20歳以上の者を成年としますが、20歳以下の未成年でも 753条の規定により結婚すれば成年に達した者として取り扱われます。ただし、結婚は 731条の規定で、男は満18歳、女は満16歳に達していなければできません。なお、天皇、皇太子、皇太孫の場合は、皇室典範22条の規定により満18歳で成年となり、特別に扱われます。また、年齢については「年齢計算に関する法律」によることになっており、たとえば、昭和13年4月1日生まれの人の場合は、昭和33年3月31日の時点では未成年であり、昭和33年4月1日で成人となります。ただし、昨年10月、政府の法制審議会が「成人年齢」を現行の20歳から18歳に引き下げるべきだとの意見を出していますので、国会議員の選挙権を20歳以上に定めている公職選挙法や飲酒や喫煙などの年齢制限を定めている法律なども見直しが必要となり、今後種々議論を呼ぶことになりそうです。
 「国民の祝日に関する法律」(1948(昭和23)年7月20日、法律第178号)によって、毎年1月15日は「大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」として「成人の日」が定められました(現在は2000(平成12)年の「ハッピーマンデー法」に基づき1月の第2月曜日に改正されています。)。一人前となって大人の仲間入りをすることは、法律上の権利を得ることと同時に義務の履行が生じ、日常生活において絶えず責任を自覚せねばなりません。成人の日を国民一般の公的な祝い日にしたのはなぜなのでしょうか。一説によりますと、戦後の物資も食料も不足していた時代に一番乏しいとされていたのは「人材」であったといいます。そこで当時のお役人達は、『新しい優れた国家を建設していくには、若い人々が成長してそれを担うことが一番重要だ』と考え、『子供から大人になった成人に国家再建の自覚を持ってほしい』と切望してこの日を祝日にしたといいます。そして、その原形は1946(昭和21)年の埼玉県蕨市での同様の趣旨による青年祭にあるとされています。
 本年は全国で127万人、山形県では1万3千余人の新成人が誕生するといわれています。成人の日には暴飲のうえ大暴れして公の器物を破損し、あるいは徒党を組んで野次を飛ばして式典を台無しにする若者の姿を報じる記事や映像をしばしば目にしますが、新成人達は、何をおいても成人の日に込められた先人の想いをまず知ることが重要で、そのことが成人になった確かな証しだと思えるのです。
  
2010年1月12日