「景気」と「渡り」・・・千 利休と古田織部


64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「景気」と「渡り」・・・千 利休と古田織部
 リーマンショックに端を発する一昨秋からの世界同時不況により、現在は未曽有の不況下にあり「景気の先行きについては見通しが立ちにくい」とか「景気への懸念が一段と深まっている」などという表現が相変わらず新聞紙上やテレビで目につきます。このように「景気」という言葉は、今日では経済用語として用いられるのが一般的で、どの国語辞典を開いてみても@社会の経済状態、商売、取引の状況のこと、A特に経済活動が活発で金回りの良いこと、B活気があることと出ており、辞書によってはこれ以外にC物語の様子、情景、景色、D和歌、連歌、俳諧で景色や情景の面白さを主として詠むこと、E気配、様子、気分、趣致という説明があります。一方、高校時代古文で用いた古語辞典で「景気」の項を見ると、大部分の辞典は、@景色、風景のこと、A様子、形勢のこと、B情景の持つ雰囲気のことと説明しており、国語辞典での@,A、Bのような説明はありませんでした。そして、大部分の古語辞典で説明している@,A、Bのような用い方は、中世(鎌倉時代〜戦国時代)から行われていること、後に転じて評判や人気という意味にも用いられたことが分かりました。しかし、その後追跡調査をしたところ、「明解古語辞典(三省堂)」には「社会一般の経済活動の状況」と出ており、「全訳古語辞典(大修館)」には「経済上、活気のあること」とあって、式亭三馬執筆の滑稽本の「浮世床」(1812(文化9)年刊。社交場の髪結い床に集まる町人たちの滑稽ぶりと会話を主体に描いた本)の一節の『大分賑(にぎやか)さ。霜枯れの景気じゃァございません。』『こっちは霜枯れで冷(ひえ)かたまった。』の例示があり、江戸時代にすでに経済用語として使用されていたとの注記がありました。また、最近、インターネットで調べてみたところ、福沢諭吉の「文明論之概略」(1875(明治8)年刊。西洋と日本の文明比較をした本)という本には、『其所得をば悉く皆金主の利益に帰して商売繁盛の景気を示すものあり』という使用があることを知り、これらからみると「景気」という言葉が少なくとも江戸時代の末期ごろから明治の早期において今日主として使用される経済活動の状況を表す用語として定着していたことがわかったのです。
 さて、江戸時代の路地作りの手引書「路地聴書(ろじききがき)」(作者は不詳、千利休時代の茶庭の説明書)には、飛び石を据えるにあたって、利休が『渡り六分、景気四分』としたのに対して、弟子の古田織部(本名:重然(しげなり))は『渡り四分、景気六分』としたと記されています。ここでいう「渡り」は歩きやすさ、使い勝手を意味し、「景気」という言葉は、路地に飛び石を据えた場合の見た目の美しさや風趣を表す言葉として使用されています。「路地」というのは茶会が開催される茶室と待合(茶会へ招かれた客が茶室に入る前に他の客と待ち合わせをして、身支度を整える部屋)との間の屋外空間に設えられた庭のことで、茶庭の別称です。ちなみに本来路地とは、法華経の喩湯品(ひゆぼん)の家宅の譬え、すなわち長者の子供が燃え立つ家から路地に逃れ出たところ、大白牛車(だいびゃくごしゃ・大白牛に引かせた仏を迎えるための車(宝車))をみたところから、三界の煩悩を断った平安な場所を指すのだそうです。
 飛び石は土道を歩き易くするために離れ離れに配列する歩行用の平たい石のことをいい、桃山時代に路地の中に置かれたもので、「伝い石」ともいいます。隣り合う飛び石の中心間の距離を、歩幅に合わせておおむね50センチメートルに据えるのが標準になっています。日本庭園を造る場合、機能と美観の問題は常についてまわり、最終的には機能面と美観面とが調和していることが求められるのですが、利休は機能面をより重視し、織部は機能面ももちろん大切としながらも雰囲気、見た目の美しさ、演出により重きを置いて路地を作庭しようとしたことが伺えます。路地を造る場合、茶室が質素な草庵風の庭では歩き易さ、使い勝手に重点が置かれ、のちの書院の庭では、花壇やソテツの植栽があったことなどから、どちらかといえば演出に重点が移りました。現在でも飛び石は道路の一部として用いるのですが、歩行とは関係なく庭の装飾として配する場合がしばしばあります。
 利休と織部は師弟関係にありました。時代的には利休は安土桃山時代の茶人です。出身は堺の町人で、室町時代に興った茶道を大成させた人です。一方、弟子の織部は、出身は美濃の戦国武将の出で、武人でありながら茶道のほか書、陶芸などにも優れた才能を発揮した人です。織部は利休の死後、後を継ぐ形で二代将軍徳川秀忠はじめ諸大名に茶の湯を伝授しましたが、二人の間には路地の飛び石の配石の仕方のほかにもその考え方に色々と違いがありました。利休は待合から茶室へのアプローチは里山、山路の風景であるべきとし、植える木にしても花木、果樹を否定し、常緑樹を主体とした自然風なあしらいを好みました。しかし、織部は前述のようにソテツやシュロなどを含む目に鮮やかな配植を行ったことが知られています。また、黄色の花を咲かせるタンポポを植え、樹林で山鳩を鳴かせたともいいます。織部の弟子の小堀遠州の時代になるとより大量に有彩色の植物や派手な色合いの石や加工した石を用いています。路地の飛び石の石材も利休は川原石のみを用いるなど、深山幽谷さながらの風景を創出して寂び、詫びの境地を具現化しようと試みましたが、織部は短冊形の細長い石や加工した切り石などを多く使用し、手水鉢にも定規で測って加工したものを用いました。江戸の初頭から盛んに使われるようになった特異な形の燈籠(織部燈籠)も彼の考案したものといわれています。この燈籠は竿を直接地中に埋め込み、竿の上部も丸型に張り出した独特のデザインです。竿に彫り込まれた文字あるいは人物像が特徴で、火袋の左右に日月を掘りぬいています。竿の形状が十字架を、人物が聖母をイメージさせるとして「キリシタン燈籠」の別称があります。このように利休と織部とでは作庭の意匠や使用材料に違いがあり、利休の死後、路地は日本古来の自然風景式から整形式に変化していったのです。
 茶道に関しても、利休の時代には誰でもが茶道具を水平に置くことを常識にしていましたが、織部の時代には「何れも角懸(かどかけ)て」といって、常に角度を付けて道具を置き合わせることを繰り返し強調しました。茶室についても利休の場合は、2畳あるいは1畳半などの小部屋を尊んだのですが、織部はそれでは狭すぎるとして3畳あるいは4畳半にしたほか床の間の墨蹟がよく見えるようにと窓(墨蹟窓あるいは織部窓と呼ぶ。)を付けたりしました。
 茶道が発達した16世紀後半は日本におけるキリスト教布教の最盛期でした。特に宣教師たちは、布教活動において茶道を重視し、安土桃山時代(16世紀〜17世紀)に来日したジョアン・ロドリゲスは「日本教会史」の中で、4章にわたって茶道についての論文を載せています。また、イエズス会の日本布教方針にも教会に茶室を設けなければならないと記され、事実当時の南蛮屏風には茶人の姿が多く描かれています。そのためか利休の周辺には古田織部、織田信長の末弟の小田有楽斉、蒲生氏郷、黒田如水、高山右近など数多くのキリシタンやキリシタンに近い人がおりました。当時のヨーロッパはルネッサンス(14世紀〜16世紀)・バロック(16世紀末〜18世紀)といわれる時代であり、庭園、建築においては幾何学形態や整形式が大流行していました。利休の自然風景式から織部の整形式への作庭理念の変化は、キリシタンと茶道の関係を通してもたらされた西洋文化の影響が大きかったものと考えられています。
 利休は鎌倉、室町時代以降に形成された「寂び」・「詫び」、すなわち古びて枯れた美しさ・質素の中に風雅さを見出すことを好み、部屋を最小限にまで縮めた空間とし、建築材としての木、竹、石も出来るだけ自然のままに使用する「草庵風茶室」を完成させました。一方の織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは、水戸の佐竹氏を家康の味方につけた功により家康の信頼を得て、将軍家の茶道の指南役となり、町人の茶の湯を武家風に変えたと評価されるようになりました。すなわち、織部という茶人の手法は、利休とは異なり、茶室も草庵風から畳数を多くし、襖の上に長押を回し、明かり障子を設けた書院風茶室に変え、より華やかな「きれい寂び」と呼ばれるものにしました。そして、この手法は諸大名によって継承されていったのです。
 利休は1591(天正19)年、秀吉の命により切腹しますが、織部も家康が豊臣家を完全に亡き者にしようとしたのに対して、徳川家と豊臣家の共存を願ったり、「国家安康」の鐘銘を草した蟄居中の清韓和尚を茶道でもてなしたために家康の怒りに触れ、結局、織部も息子とともに豊臣方に内通したという罪状により、師匠の利休と同様、大阪夏の陣の翌年の1615(元和元)年、家康に切腹を命じられて、一言の弁解をせず73歳で落命しています。そして、家康は織部一族を処罰するとともに家財全てを没収し、織部の全てを抹殺してしまいました。これに対して、利休の没後、柴野大徳寺にいた利休の孫の宗旦(そうたん)が還俗して家を再興します。そして、宗旦の三男の宗左(そうさ)が表千家、四男の宗室(そうしつ)が分家独立して裏千家、養子先から戻った次男の宗守(そうしゅ)が武者小路千家(小路の名前からそう呼ばれた。)のそれぞれの祖(この表千家、裏千家、武者小路千家を三千家という。)となり、利休の茶道を現在までに伝えていくことになります。
 華やかさや人為を極端に抑えた山里風をよしとする千利休や利休の死後千家を再興した三千家と伝統にとらわれない新奇なデザインを好む利休の弟子でちょっと肌色の変わった古田織部とは、作庭にしても茶道にしても、その手法、作法には著しい違いがあり、また、当人の死後のその末裔の生き方に関してもそれぞれ異なった展開を見せたのでした。
  
2010年2月11日