庄内藩の破軍星旗と酒井玄蕃


64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
庄内藩の破軍星旗と酒井玄蕃
 すでにご承知のことと思いますが、戊辰戦争時、庄内藩に「破軍星旗」という極めてユニークな軍旗がありました。実物あるいは写真などを見ていただければ一番良いのですが、それは次のようなものです。おおよそ横1、縦1.7の比率の白色の帯で縁取りした群青色の布に、金色の北斗七星の北極星に一番近いドゥベー(α)を左下にして、時計の針と反対回りにメラク(β)、フェクダ(γ)、メグレズ(δ)、アリオト(ε)、ミザール(ζ)、アルカイド(ベネトナシュ)(η)の順に配置し、更にこれをおよそ横 1.5メートル、縦2メートの尻に馬のたてがみの様な切り込みのある鮮やかな朱色の幟旗に貼り付けたような斬新なデザインの旗です。
 戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで政府軍と戦ったのですが、庄内藩は、会津藩、仙台藩、米沢藩とともにその中心となる藩で、当初は白河方面を救援する予定で部隊を進めていましたが、久保田藩(秋田藩)や新庄藩などの諸藩が政府軍に与(くみ)した為、白河方面に進軍中の約 900人の部隊は急遽新庄へUターンするとともに他の部隊と合流して新庄城を攻撃することになりました。このとき、「破軍星旗」を軍旗として掲げた庄内藩第二大隊を指揮していたのが、中老で、26歳の酒井玄蕃でした。玄蕃の往くところ敵なく、戦場でこの旗を見たものは「鬼玄蕃がきた」と戦わずして戦意をなくしたという話が伝わっています。新庄攻略後、久保田藩領内に向けてさらに北進した庄内軍は、連戦連勝の活躍をして政府軍からは非常に恐れられたのですが、途中で、米沢藩や仙台藩が降伏し、やむを得ず鶴岡に撤退することになりました。
 酒井玄蕃は、1842(天保13)年、庄内藩家老酒井了明(のりあき)の長男として生まれ、幼名を 虎之進といいました。元服して吉弥となり、1867(慶応3)年、家督を継いでから祖父代々の通称玄蕃あるいは吉之丞と呼ばれましたが、実名は了恒(のりつね)といいます。玄蕃は剣術に秀で、また、兵学に優れていましたが、一方では漢詩を詠み、書を嗜み、雅楽に通じ、笛の名手であったといいます。戊辰戦争では鬼玄蕃と恐れられたのですが、実際の性格は温和で慈悲深かったといわれています。新庄における庄内軍の占領政策は概して寛大なものであったようで、「新庄藩戊辰戦史」には「此短日月間に意外に行届ける政治を施し、領民取締上にも手落ちの少なかりしことは寧ろ称揚するに値するものがある」と記しているそうです。新庄城を攻略した直後、玄藩が通りかかった道端に、12歳の少年が捉えられていました。事情を聴くと、新庄藩士の子弟で、戦を避けて逃げ惑っている間に、家族や従僕と離れてしまったというものでした。玄藩はこの少年の縄を自ら解き、いくばくかの金子を与えて放してやりました。先に少年を捨てた従僕は、玄藩が与えた金子を強奪して再び姿をくらましたそうですが、この少年は、後の山形県が生んだ唯一の総理大臣・小磯国昭の父となった人であったといいます。玄蕃は1863(文久3)年、庄内藩が江戸市中取締役を命じられた時は番頭となり、1866(慶応2)年には近習頭取となっています。庄内藩降伏後も引き続き中老として藩政に参与し、1871(明治4)年の廃藩置県に伴い、大泉藩大参事となりました。しかし、同年明治政府に仕官し、兵部省七等出仕に任じられたのですが、翌1872(明治5)年、病のため職を辞して療養します。先に投稿した「南州翁遺訓の上梓と頒布の全国行脚」でも触れましたが、1874(明治7)年1月には伊藤孝継や栗田元輔とともに鹿児島を訪れ、西郷隆盛に面会して西郷が「1873(明治6)年の政変」で参議を辞した事情などを聞いています。また、1874(明治7)年10月、戊辰戦争の際政府軍参謀として鶴岡入りして終戦処理を行った開拓使の黒田清隆の密命を受け、開拓幹事調所広丈(ずしょひろたけ)、庄内藩の親友・勝山重良(かつやましげよし)らとともに約3カ月の間清国の調査を行いました。1871(明治4)年7月の日清修好条規調印により日清間に対等な国交が成立しましたが、1870年代半ばから日本は清中心の冊封体制(さくほうたいせい)(注1)の否定を企画し、琉球帰属問題や朝鮮問題をめぐって清と対立していました。玄蕃らは、天津(テンチン)を中心に北京(ペキン、)、現在の煙台(イエンタイ)、上海(シャンハイ)、南京(ナンキン)、九江(チウチアン)、武漢(ウーハン)を探査して、帰国後「直隷経略論」を纏め、黒田清隆に提出しています。玄蕃は、地理、気候風土、言論、食糧事情、歴史的背景などを総合的に判断して、日本が中国大陸において戦争を行うことには反対をしていたといいます。
(注1)近代以前の中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、候などの爵位を与えて、これを蕃国とすることを冊封といいます。封は藩国とすること、冊とはその際金印と共に与えられる冊命書、すなわち任命書のことを指します。
 玄藩は当時不治の病といわれた労咳(肺結核)を病んでいたため、1876(明治9)年2月東京湯島の酒井邸で栗田元輔らに看取られて亡くなりました。享年34歳でした。東京谷中霊園に葬られますが、鶴岡の大督寺には遺髪塔が建てられています。弟には庄内柿の生みの親として有名な酒井調良(ちょうりょう)と庄内における書道興隆の基礎を作り多くの門弟を育てた黒崎研堂(けんどう)がおります。
 次に北斗七星と玄藩が逆さに描いた北斗七星を軍旗として用いた意味を簡単に纏めておきます。北斗七星は、北天にほぼ1年中見える大熊座という星座の腰から尻尾を構成する七つの明るい恒星(太陽と同様、自ら熱と光を出し、天球上の相互の位置をほとんど変えない星のことです。)で、柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名がつけられています。北極星を探す指極星として、又、北斗七星が北極星を中心に回る間、一昼夜に12方向を指すところから時刻を計る星として昔から人々に親しまれてきました。射手座にある「南斗」に対する「北斗」、北極星を「北ひとつ星」と呼ぶところから、これに対して「七つの星」、二つのサイコロを振って3と4が出たときの目・「シソウ」から「シソウの星」、七星の柄の部分を尖った剣の先に見立てて「七剣星(ひちけんぼし)、柄杓にちなんで「柄杓星」などと日本でも色々な名前で呼ばれます。この七星の名称はアラビア語が起源といわれますが、ドイツのバイエルが用いたバイエル式呼称や漢名もありますので、これらをまとめて表にすると次のようになります。
名 称 意 味 バイエル符号 明るさ 漢  名(注3)
ドゥベー 大熊の背 α(アルファ)星 2等星 天枢(てんすう)・天魁(てんかい)
〈貧狼星(どんろうせい)(注4)
メラク 大熊の腰 β星 2等星 (てんせん)
〈巨門星(こもんせい)〉
フェクダ 大熊の股 γ(ガンマ)星 2等星 (てんき)
〈禄存星(ろくそんせい)〉
メグレズ 大熊の尾の付根 δ(デルタ)星 3.3等星 天権(てんけん)
〈文曲星(もんごくせい)〉
アリオト ε(イプシロン)星 2等星 玉衝(ぎょくこう)
〈廉貞星(れんちょうせい)〉
ミザール 腰布 ζ(ゼータ)星 2等星 開陽(かいよう)
〈武曲星(むごくせい)〉
アルカイド
(べネトナシュ)
大きい棺台の娘達の頭
(注2)
η(エータ)星 2等星 揺光(ようこう)
〈破軍星(はぐんせい)〉

(注2)α、β、γ、δの四星を棺桶と棺桶を乗せる台と見立て、ε、ζ、ηが台を引く三人の娘と見立てます。そして、最後のηをその頭とするものです。
(注3)中国では、天枢、天、天、天権の四つを大きな柄杓の意味の魁(かい)、玉衝、開陽、揺光の三つを柄杓の柄の意味である標または杓(ひょう)ともいい、合わせて斗と一字で呼ぶこともあります。また、天体観測機具に(せんき)と玉衝というのがあり、これからも北斗七星が天体観測の対象であったことが分かります。
(注4)〈 〉は大正新修大蔵経にある唐の密教経典「仏説北斗七星延命経〉での名前です。
 黄河流域に絢爛たる文化を築き上げた漢民族は、宇宙を支配する最高神は天帝であり、天帝の命によって天下を治める天子は、天体を観測して人民に時を授けることが任務でした。そのため中国では古来より天文学が早くから生まれ、4千年も前から太陽や月や星の観測を始めていました。星により季節を知り、農作業の開始時期を知りました。星の中で特に季節を知る指標になったのは、北極星と北斗七星でした。北斗七星の揺光、開陽、玉衡の三星の指す方向を月建(げっけん)といいますが、「建」は「おざす」と読み、「尾が指す」の意味です。古代の中国(夏の時代)では暮六つの頃、月建が寅の方向(ほぼ東北東方向)にあるときを寅月(正月)とし、以後順に12支に割り当て卯月(2月)、辰(3月)・・・亥(10月)、子(11月)、丑(12月)としました。この原理は日本でも採用され、現在でも旧暦を使う人々によって引き継がれているそうです。また、北極星は永久に位置を変えない不動の星として信仰の対象ともなり、天の中枢にある星として星そのものが天帝でした。「天子は南面す」という言葉があり、これは天子が天帝の住む北極星の座に着くことで、天帝の意を汲んで政を行うことでした。そして、その天子を守る武人が北斗七星でした。また、中国の民衆宗教とされる道教では、最高神(太一真君)は北極星に住むとされ、北斗七星は人間の生死を司る霊力を持つものと考えられました。七星の貧狼、巨門、禄存、文曲、廉貞、武曲、破軍はそれぞれ人間の運命にかかわる機能を備え、特に破軍星は戦を司る神とされ、「この星に向かって軍をすすめると戦いに敗れ、逆に背にして戦うと必ず勝利する」という信仰が生まれました。この信仰は民衆に深く根を下ろし、やがて日本にも七星占(しっしょうせん)として伝わりました。現在でも勝負事を行う人々に強く信じられているそうです。玄蕃はこれらのことを熟知していて、北斗七星を意匠した独特で魅力のある破軍星旗を掲げ、自らと兵の気持ちを鼓舞し、自軍の勝利を信じて戊辰の役に臨んだのでした。

2010年3月11日