●「鶴中」と「鶴翔」

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●「鶴中」と「鶴翔」」
 私は「鶴翔」を「かくしょう」と読んで鶴中時代の昔を思い出しました。「鶴中」と書いて「つるちゅう」と読むか「かくちゅう」と読むか論議があった時に私は「かくちゅう」と読みました。それはガッキがついて元気があるように思えたからです。ところが「とんでもない野郎だ。鶴中の精神はつるちゅうだ」と言われました。ならば「鶴翔」は「つるしょう」と言うのかというと、これは「かくしょう」。
 山形鶴翔同窓会は最近出席者が減って存在感が薄れてきている。鶴中のヴァリューは山形県ではトップクラスです。山形県を揺るがすくらいのパワーの集いが山形鶴翔同窓会の総会でなければ鶴中健児などとは言えません。
 以上は去年11月の懇親会で乾杯の際に佐藤新一元会長(49回・昭和16年卒)が述べられた挨拶です。同窓会に情熱を燃やしておられた新一つぁん(私どもは親しみをこめてこう呼んでいた)は今年3月末に86年の行程を走り終えました。 
 新一つぁんは私に「大先輩の大平驩さん(27回・大正8年卒)は我が家に下宿して荘内中学に通っていた」という自慢話をしてくれました。当時、酒田にまだ中学校はなく、羽越線も開通していないため、鶴岡に下宿して荘内中学に通学し、土曜日には歩いて酒田の家に帰り日曜日午後にまた歩いて下宿に戻る中学生活。新一つぁんは親から「お前も大平さんのような立派な人になれ」と言われていたそうです。
 大平さんは酒田市生まれ、慶応義塾を卒業後に、サンフランシスコ新世界新聞、ロサンゼルス日米新聞を経て朝日新聞南京支局長。戦後引き揚げてきた昭和21年に請われて山形新聞に迎えられ常務、山形放送専務を勤めました。また山形県自然環境保護審議会の初代会長として自然保護、環境の保全にも尽力されました。
 新一つぁんも臓器移植の定着と推進を図る財団法人山形県アイバンク協会の設立に尽力、去年秋に厚生労働大臣から感謝状が贈られました。
日常会話に横文字が多かったのは海外生活をした大平さんの姿を追い求めてと思うことさえありました。人間としての生き方、またユーモアに富んだ挨拶も二人に相通じるものがありました。
 大平さんの父の出自は新潟県の佐渡。東京医学校を卒業して山形済生館医師として奉職、明治天皇東北巡幸の先触れ検分使大久保利通が酒田の宿舎で発病したときに、その見舞い医師として山形から派遣されそのまま酒田に町医者として住みついたそうです。
 戦後の混乱がやや落ち着いてきた昭和22年、山形には庄内出身者が少なかったのですが、大平さんは庄内出身の師範学校の学生の育英事業を目的にした「庄内会」の設立に奔走、長い間世話役として庄内会のカナメとなっていました。庄内選出の県議会議員を交えて郷土の発展を願いながら和やかに懇談する気風は現在に受け継がれています。新一つぁんも欠かさず出席する会員の一人でした。
 このような庄内は一つという組織があって同窓会山形支部の誕生は遅れましたが山形鶴翔同窓会は昭和58年に誕生しました。
 また新一つぁんは酒席で次のようなエピソードを教えてくれました。荘内銀行入行して間もない昭和20年代の前半、窓口に一人の客が現れました。上司に「山新の服部社長が来ています」というとその上司は「ボロ新聞社で他行では金を借りられないから来たのだ。待たせておけ。3時間待っていたら話を聞いてやれ」とのこと。会社の命運をかけた資金繰り、社員とその家族の生活などに思いをめぐらせてじっと三時間待っていたのでしょう。新米行員の私がその融資の相談を受けたのです。とても今では考えられないでしょうが山新グループが現在あるのはこのような経営者の苦労があったからというものでした。
 一昨年の懇親会の乾杯では得意の横文字で一言「drinking is best」と述べてこの瞬間を待ちわびていた会員を沸かせたあと「この会場に維持会費の未納者はいないと思うが、納入を忘れずに」と発破をかけられました。
 新一先輩に安心していただける道は、大勢の会員が集い熱気に溢れた設立当初の同窓会の再現です。お宅の床の間に掲額してあった「照古鑒今」(太田耕造元文相の書)の色紙、鑒=観で照古観今(しょうこかんきん)意味は、よく古事に思いを致して、今日如何にすべきかを知らねばならないという内容。佐藤新一先輩は「鶴翔」にこの四文字を求めていたように思われます。

  
2010年4月1日