クチボソカレイ(口細鰈)


64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
クチボソカレイ(口細鰈)
 庄内での肴に欠かせない一品にクチボソカレイの素焼きがあります。校友菅原幸吉さん(66回)が経営する山形花小路の「海山」は、山形鶴翔同窓会有志による寒鱈汁の会、孟宗汁の会、ダダ茶豆の会等の定例会場で、それぞれの食材の旬には酒好き話し好きの面々が集まるのですが、この席でも素焼きのクチボソカレイの一皿を欠いたことがありません。私も好きな肴の一つで、残すのは骨ぐらいで、その食べ方には自慢できるものがあります。
 このクチボソカレイは標準名でマガレイ(真鰈)といいますが、庄内では、この魚の口元が小さいことからクチボソカレイと呼び、あるいは由来は分かりませんが稀にゴンタカレイとも呼びます。菅原幸吉さんの話では、庄内では、例えば、マコガレイを鶴岡ではエンショウガレイ、酒田ではネサシと呼ぶそうですが、他にもババカレイ、アワダチ、クリノハなどカレイには様々な呼び名があって、これによりカレイが庄内の人々にとっていかに身近な魚であるかがわかるのです。鶴岡市の由良、三瀬、小波渡地区は、庄内浜でも特に美味しい魚が取れるところで知られています。その理由は科学的に解明されたものではないとのことですが、海底が砂や石であるために海水がきれいなこと、沖で真水の湧出が想定されること、餌となるプランクトンが豊富なことなどが考えられるそうです。私は若いころ2年ほど大分県で勤務したことがあるのですが、大分の城下カレイ(真子鰈)も全国的に有名な魚で、焼いてよし、煮てよし、天麩羅にしてよし、刺身でもよしというように美味な肴ですが、これを産する別府湾の海底にも豊かな湧水が噴出しているそうです。美味しいカレイの産地には海底の湧水が関係するのでしょうか。
 庄内のクチボソカレイは底引き網魚法が毎年7・8月が禁魚で、漁期は3〜6月、9〜10月で、春から初夏にかけては海岸から9〜10キロメートルほどの所、秋期に入ると魚がより深い所へ向かうのを追いかけて網を入れるのだそうです。これも菅原幸吉さんの説明ですが、クチボソカレイは「ツユカレイ(梅雨鰈)」といって6月の20日過ぎからのものが旬とのことで、あまり大きいものは大味になるので、小さくても肉厚なものを選ぶことが大切で、おおよそ15センチメートルぐらいのものが丁度いいということでした。この頃家内とよく出かける山形市内のスーパーでは福島いわき産のものをよく見かけますが、庄内のものは太平洋側のものと比べると確かにやや小振りですが肉厚で旨味が濃いように思います。
 「左ヒラメ(ヒラメ科)に右カレイ(カレイ科)」とその違いの見分け方に言われるように、我々が見るカレイの目の位置は、表の黒い皮の方を上にして頭を右にすると目が二つ並んで付いています。ただし、日本周辺に生息しているヌマガレイはカレイ科ですが左側に両目があるそうです。ところが面白いことにヒラメもカレイも孵化後20日間ほどは普通の魚と同じように、目は頭の左右に一つずつあり、背鰭を上にして浮泳生活を送っていることが分かりました。しかし、体長が1センチメートル前後に成長すると目の移動が始まり、30日ごろで左目が背鰭の直前、頭部の正中線上に移動し、40日ほどで目の移動が完了して両目が定着すると、目のある側に色素が集まり、体の色を褐色に変化させて親と同じように白い裏側を下にして海底生活を行う形になるのだそうです(ヒラメはカレイとは逆で右目が移動します。)。成魚になる過程でこのように形態が変わることを変態といいますが、変態後のカレイやヒラメの体の形や色、片側に寄った両目は、海底で敵から身を守ったり、あるいは獲物を待ち伏せして楽に餌をとったりするのに役立っているとのことです(「Q&A食べる魚の全疑問」(講談社))。まことに不思議な話です。
 郷土が誇る時代小説の大家・藤沢周平(本名小菅留治・定時制16回(昭和21年卒))の「三屋清左衛門残日録」の「霧の夜」の冒頭には、次のように庄内の美味い物の代表であるクチボソカレイと赤蕪とハタハタの話が会話的形式で出てきますます。ご存じとは思いますが参考までに一部を掲げて見ます。場面は秋のようでクチボソカレイは9月から10月にかけても美味しい時期のようです。

〜三屋清左衛門残日録・「霧の夜」・一〜
「この赤蕪が美味いな」
町奉行の佐伯熊太は、おかみがはこんで来た蕪の漬け物にさっそく手をつけた。「わしはこれが好物でな。しかし、よくいまごろまであったな。赤蕪というのは、大体これから漬けるものじゃないのか」
「そうです。よくご存じのこと」おかみのみさはそう言い、手早く清左衛門の膳にも赤蕪と、このあたりでクチボソと呼ぶマガレイの焼いたものを配った。「赤蕪もナニですけれども、クチボソもおいしいですよ。やっととれる時期になったそうで、昨日から入り出したばかりです。召し上がってくださいな」
「クチボソか。うまそうだな」
町奉行はそっちにも箸を回した。
「うむ、いい味だ」
「ありがとうございます」
「時期といえば、ハタハタがそろそろじゃないか」
「いや、あれはもっと寒くなってからだ」
と清左衛門が答えた。
「みぞれが降るころにならんと、海から上がらぬ」
「そうですね」
「涌井」のおかみは相槌を打って、清左衛門と佐伯に酒をついだ。

 ところで、カレイは世界で約 100種類ぐらいあり、日本近海でも40種類ぐらい、庄内の港でも一年を通して20種類に及ぶ水揚げがあるそうですが、北日本のカレイ類の研究では第一人者、カレイの疋田として、日本魚類学の基礎を確立した人に疋田豊治(ひきた とよじ)という方が本校の先輩にいることを知りました(荘内日報社・「郷土の先人・先覚156」 )。疋田さんは、本校(荘内中学校)、明治36年3月の卒業(通算11回)で、その後東京物理学校(現東京理科大学)を卒業し、京都府、大分県の中学校教諭を歴任したのち、1909(明治42)年、東北帝国大学農科大学水産学科(注)講師・助教授、北海道帝国大学付属水産専門部教授、函館高等水産学校教授を、1943(昭和18)年の定年退官後は北海道大学農学部水産学科講師を1953(昭和28)年まで務めて半世紀に及ぶ北方魚類の研究に専念された方です。また、シシャモの研究でも有名でその名付け親でもあります。教育者として研鑽を積まれる一方、学生ともよく酒を飲み、奥さんの三味線に合わせて江差追分を歌うなど独特の風格があり、学生に敬愛され、古希のお祝いには、同窓生招待日本一周愛の旅行ということで、稚内から鹿児島までの60日間の旅のプレゼントがあったそうです。庄内沖底魚調査のため、高齢にもかかわらず加茂にある山形県の水産試験場にもたびたび来て研究をしていたとのことです。北海道文化賞、大日本水産功労賞を受賞していますが、1974(昭和49年)10月92歳で亡くなりました。なお、鶴岡市観光連盟のホームページでは、鶴岡市の大宝館にその人物の紹介展示があるとのことなので、帰郷した折にはぜひ立ち寄ってみようと考えています。また、子息の豊彦さんも長年北海道のサケ・マス孵化場に在籍し、研究に従事した魚類博士で、細密スケッチ画の大家として知られていることも併せ知りました。

(注)疋田さんの勤務先の名称がいろいろと変わっていますが、それは次のように現在の北海道大学水産学部創設までの歴史があるからです。  札幌農学校水産学科(1907(明治40)年創設)→東北帝国大学農科大学水産学科(1907(明治40)年6月創設)→北海道帝国大学付属水産専門部(1918(大正7)年創設)→函館高等水産学校(1935(昭和10)年創設)→函館水産専門学校(1944(昭和19)年校名変更)→函館水産専門学校と北海道帝国大学農学部水産学科(1940(昭和15)年)とが新制大学発足により合併して北海道大学水産学部に(1945(昭和24)年創設)

2010年6月1日