名勝・金峰山

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●名勝・金峰山
 金峰山は鳥海山、母狩山(ほかりやま)とともに城下町鶴岡の街づくりの際に「山当て」とされた山で、古くから鶴岡市民にとっては日常生活に溶け込んだ山であり、私にとっても、朝な夕なに眺めた原風景の一つともいうべき山です。また、休日などにはよく日帰り登山をしました。往きは内川にかかる檜物町の「筬橋(おさばし)」を渡り、今の県道349号線(鶴岡・村上線)を青龍寺集落までおおよそ1時間ほどかけて歩いて行くのです。青龍寺集落から金峰山博物館までの車道が当時あったかどうかは記憶が曖昧ですが、私たちは集落からの登りでした。標高 459メートルを示す三角点のある山頂までは1時間20分ほどの行程でしたので、9時前後に銀町(現三光町)の自宅を出かけても昼までには頂上に到達できました。登山路沿いの鬱蒼たるスギの並木の大木のこと、そのスギの大木の根が作り出す自然の階段の特異な形のことは今でも強く脳裏に焼き付いています。山頂で昼食を摂ってからは、往復50分ぐらいかかる奥の院に出掛けるなどして遊び、帰路は1時間30分ほどの距離を湯田川温泉に下ります。温泉街にある共同浴場で汗を流す楽しみがあったからです。今でも「正面の湯」と「田の湯」と二つの共同浴場がありますが、私たちが利用したのは「つかさや旅館」の隣の「正面の湯」でした。広い浴槽で泳いだりして今度は湯田川街道(現国道 345号線)を1時間ほどの時間をかけて青龍寺川にかかる「稲生橋(いなおいばし)」経由で自宅まで歩いて帰るのですが、当時の道路は未舗装部分が多く、行き交う車の後塵を浴びてしまうため、結局は再度帰宅後に街の銭湯に行く羽目になるのでした。当時の稲生橋上流付近は赤川とともに遊泳河川に指定されていましたので、夏はよく泳ぎに行きました。また、小さい堰堤の下の川底を箱メガネで覗くとカジカがたくさん泳いでいたことを懐かしく思い出します。
 地元の人々が「きんぼうやま」と呼ぶ金峰山(きんぼうざん)は、 671(天智10)年、役の行者小角(えんのぎょうじゃおずの)の開基で、金剛蔵王権現を祀ったといわれています。古くは山頂を「仏」、ふもとの丘陵を「蓮華」に見立てて蓮華峰あるいはハスの花の八枚の花弁を放射状態に並べたものを「八葉」というところから「八葉山」などと呼ばれていたそうです。承歴年間(1077〜1088年)、大和の宇多郡から丹波守盛宗という人物が出羽に移り、吉野の金峰山(きんぷせん)を勧進してから山名を金峰山(きんぼうざん)に改めたといいます。古くから朝野の区別なく尊崇され、 801(延暦20)年、征夷大将軍坂上田村麻呂が祈願したと伝えられるほか、武藤家、最上家、酒井家と歴代の領主の尊崇も厚く、1608(慶長13)年には最上義光が本殿を造営し、1736(元文元)年には酒井家が神社を営繕したとの記録があり、戦前は県社でした。
 出羽三山の修験道研究の泰斗である戸川安章さんによれば、金峰山は寛永(1624〜1643)の末までは羽黒山の末山(まつざん)で、その支配下にあり、山内には学頭(注1)一人、別当(注2)三人のほか清僧(注3)、妻帯の修験(注4)、行人(注5)、承詩(しょうじ)(注6)、社家(注7)などが大勢おり、20近くの坊を擁して東・西田川郡内に20か所ほどの末寺が存在していたといいます。しかし、その後羽黒山から離脱し、1692(元禄5)年には新義真言宗智山派の末寺になりました。古くから金峰修験の場で、天正年間(1573〜1591)末までは「逆峰修行(ぎゃくぶしゅぎょう)」をたて、以後は1870(明治3)年まで「順峰修行(じゅんぷしゅぎょう)」が行われていたといいます。「逆峰」というのは、金峰山、母狩山、麻耶山を大和の金峰(きんぷ)、大峰、熊野にあてて金峰三山とし、金峰神社、瀧澤、上山谷、金谷、谷定、西荒谷杉下、母狩山、三つ俣山、湯沢山、黒森山、尾浦橋、大平、菅生峰、松沢、倉沢を経て麻耶山に至り、その後相模山、誉山(大日山)を拝した後、ここで行水をして出峰・解散する厳しい修業のことをいい、一方の「順峰」というのは金峰山、青龍寺、高坂、赤坂、二つ屋、藤沢、大日坂、水沢熊野神社、大広、熊野長峰、虚空蔵山、蓮花寺、関根、東目五十川俣、大机、砂谷(いさごだに)、長滝を巡り、再度金峰山に戻る修業のことをいうのだそうです。明治初期までは月山と同様に女人禁制の山でありました。明治の「神仏分離令」が発せられるまでは、山内には中の宮の観音堂、現社務所の南頭院、元博物館の金剛院のほか数多くの寺院、仏像があったそうですが、「神仏分離令」により多くの仏体は山麓の青龍寺に移されたのですが、同寺の火災によりその大部分が失われました。また、金峰山には死者の霊が宿るといわれ、映画「隠し剣鬼の爪」の庄内ロケで使用された登山道の両側のスギの大木の根元には多数の石塔が並んでいますし、その他記念碑、歌碑なども沢山あります。
 (注1)一宗の学問の総括者 (注2)寺務を総括する人 (注3)妻帯をしない僧 (注4)苦行を積み、霊験のある法力を身に付けた僧 (注5)修行者 (注6)寺院で雑務を務める人 (注7)寺院専用の奉仕者
 この金峰山は、1941(昭和16)年4月23日に国の「名勝」の指定を受けています。名勝というのは、文化財保護法第109条第1項の規定により、国が@公園・庭園、A橋梁・築堤、B花樹・花草・紅葉・緑樹などの叢生する場所、C鳥獣、魚虫などの棲息する場所、D岩石・洞穴、E渓谷・瀑布・渓流・深淵(しんえん)、F湖沼・湿原・浮島・湧泉、G砂丘・砂嘴(さし)・海浜・島嶼(とうしょ)、H火山・温泉、I山岳・丘陵・平原・河川、J展望地点の11項目について、日本にとって芸術上または観賞価値の高いものを指定するものです。
 金峰山の場合は、瀬戸内海の多島景観を眺望するのに絶好の岡山県の鷲羽山(わしゅうざん)と同様、この指定項目のうちの「展望地点」に該当するのですが、最近目にした「つるおか田川文化財散歩」(1976(昭和51)年3月初版、鶴岡市文化財保存会)に指定に際しての経緯が書いてありましたので、紹介してみたいと思います。
 漢詩人、新体詩人で知られる「国府犀東(こくふさいとう・1873(明治6)年〜1950(昭和25)年)」が1941(昭和16)年,現鶴岡市陽光町の伊比清利氏を同行者として金峰山を調査し、その結果を下記囲みのとおり名勝指定の調査書として文部省に提出しました。国府犀東という人は石川県金沢市の犀川畔の生まれで、東京帝国大学法科を中退した後、1907(明治40)年に内務省に入り、後宮内省御用掛となり、更にその後慶応大学講師、東京高等学校教授を勤めた人です。大正、昭和初期の詔勅(しょうちょく)等を起草したともいい、また「太陽」や「大阪毎日」で時事を論じたともいいます。犀東の生誕から16年後の1889(明治22)年に犀東の生まれた対岸で詩人であり作家でもある室生犀星(本名照道、1889(明治22)年〜1962(昭和37)年)が生まれたのですが、この「犀星」というペンネームは同郷の先輩犀東を捩って付けたといわれています。

 金峰山、高さ 460メートル、東には羽黒山、月山、湯殿山の緑をつらぬるあり、北には鳥海山の巍々(ぎぎ)(注8)たる雄姿をぬきんずるあり、西には日本海の縹渺(ひょうびょう)(注9)たるあり、その北部には飛島の浮かべるあり。頂点並びに高所より視界に入るもの更に旧庄内の田野大半遠くつらなるあり、最上の長川これを貫流して海に注げるあり、我が国展望の壮観としてまことに稀有に属す。山上この如き地点多く、上中下位によっておのおのその景観を異にする。山また佳林を帯びてその中幽致に富めるすくなからず。
 (注8)「 高大なさま」という意味です。(注9) 「広くて果てしないさま」という意味です。

 この調査書の文面から見てもお解りのように、国は、金峰山そのものが奇岩怪石等に富むため美しく、また、景勝の渓谷・瀑布が存在するなどの理由によって名勝としての価値を認めたものではなく、『山の上・中・下位によっての眺望景観が異なり、このくらい展望のきく山は、全国的にも稀である』という理由で名勝に指定したものです。事実これは誇張ではなく,梨の木台の展望台に始まり、鳥海山遥拝所、中の宮、八景台と高度を上げるに従ってその展望が開け、頂上の展望台に至っては、まさに天下の絶景庄内地方の大半が頭を廻らして眺め得ることになります。また、金峰山中にはブナやスギの大木が多くあり、奥深い趣を醸し出しているのです。
  
2010年7月4日