作家 丸谷才一氏に呆れられた話

64回(昭和32年卒) 庄司英樹
 
 2003年度「朝日賞」受賞者 丸谷才一氏は母校の先輩(51回卒)です。
 鶴岡市生まれ。東京大学文学部英文科卒の作家・評論家で「年の残り」で第59回芥川賞、「たった一人の反亂」で谷崎潤一郎賞、「後鳥羽院」で読売文学賞、「忠臣蔵とは何か」で野間文芸賞、「樹影譚」で川端康成賞、そして「輝く日の宮」にいたる多年の文学的業績に「朝日賞」と輝かしい受賞歴です。

 創立百周年記念テレビ番組「叡智の殿堂 鶴岡南高校」で母校の思い出と後輩への助言を語ってもらうお一人に選ばれました。テレビには出演しないことを公言されておられたので取材を受けて下さるか否か、同窓会が人脈をつてに丸谷氏に打診するとのことです。ある日「自宅に来るように。場所がわからない時はこの番号に電話すること。取材が終わったら電話番号のメモはすぐに捨てること」という電話を丸谷氏からもらいました。閑静な住宅街で目印になる店もなく、公衆電話で教えてもらいながらお宅に伺いました。

 「私はテレビには出演しないのですが、母校の記念番組なら受けざるを得ないですね」とにこやかに迎え入れてくれました。鶴翔同窓会事務局長の“義ちゃ”こと佐藤義三郎先生があらかじめ取材を許諾してくれるようにとお手紙を差し上げてあったようです。

 早速インタビュー開始、ドイツ文学者で文化勲章受賞の相良守峯氏が「サッカーに夢中だった」とのお話を伺った後であり「文武両道」の母校でもあります。「今は作家ですが、実は‥」といった意外なお話は聞けないものかと「当時スポーツは何かやっていましたか」と質問すると、「私にスポーツを聞くのですか」と何という愚問といった表情をされました。

 気をとりなおして母校の思い出と後輩への助言を聞きました。「昭和18年に卒業し東京の予備校に通っている時に、当時の鶴岡中学の校長が全校生徒を集めて『この決戦の時になっても丸谷はいまなお文科系に行こうとしている。こういう態度は非国民とか国賊』と言ったという話を聞いたのです。だからそういう学校の校長の意向に逆らったから現在の僕の仕事があるのです。後輩には、第一に本を読むということ。それから、もし自分が本当に信じた道であるならば校長がたとえ何と言おうと先生が何を言おうと、そんなものは無視して自分の志望を貫き信じた道を進むことです」と自らの人生をもとにした後輩への直言でした。

 百周年記念の荘内日報特集号に丸谷才一氏は「時代を映し刻む思い出」のところで「山形のテレビ局から人がきて、鶴岡南高の創立百年だから鶴岡中学の卒業生としてインタビューに出るようにとのことでした。そのインタビューの第一問にはびっくりしました。「中学校ではどういうスポーツを?」と訊かれたのです。これは調査不充分である。まるで、オリンピックの選手になった卒業生に向かって、中学時代、愛読書は何でしたかと質問するようなものだ。そこでわたしはすっかり呆れ返ってしまった。」との一文を寄せておられました。

 記念番組の制作で母校の偉大な先輩に直接お目にかかりお話を聞くことができる光栄を得ましたが、以上のようなお粗末ぶりを記念特集に紹介される体験もしました。
(2004年3月2日)

 『2012年12月7日・加筆
 丸谷才一死去の報道のあと大阪読売新聞でかつて編集委員をしていた友人からメールがありました。「故丸谷才一氏が貴君の高校の先輩であることを思い出し以前、同窓会の投稿欄に丸谷氏取材のことを書いていたエッセイを読んでみました。若き日の失敗を告白した文章に、思わず、噴出しそうになりましたが、大先輩を前に緊張した姿が想像され、ほほえましくもありました。
丸谷氏は受賞のインタビューで『健康の秘訣は』と聞かれ『スポーツをしないこと。あれは体に悪い』と笑って答えたとあります。(読売新聞 2011年10月26日)生来のスポーツ嫌いだったようです」と教えてくれました。
(追加 2012年12月7日)