●山形県で唯一の間欠泉・「湯ノ沢間欠泉」
山形県には数多くの温泉が存在しており、人々に保健療養的に利用され、また、観光産業の担い手としても大きな役割を果たしております。郷里鶴岡にも「温海」、「湯の浜」、「湯田川」などの古くからの全国的に有名な温泉地がありますが、最近では日帰りが主ともいうべき「かたくりおんせんぼんぼ」、「やまぶし温泉ゆぽか」、「くしびきおんせんーTOWN」、「ぽっぽの湯」などのユニークな名称の温泉が誕生しており、ごく手軽に自然の恵みに浴することが出来ます。今回は郷里の話題からはそれますが、去る7月18日(日)に山形テレビで16時30分から17時にかけて「秘湯ロマン」として放映された山形県に唯一つで、しかも入浴可能な「間欠泉」が飯豊町の福島県境に近い山峡に「湯ノ沢間欠泉」として存在しますので、これについて紹介してみようと思います。
間欠泉を一口で言うと「一定周期で水蒸気の熱湯を噴出する温泉のこと」ということになりますが、私がこの間欠泉という言葉を初めて知ったのは、確か小学校5,6年生の頃だったと思います。『最上町に隣接する宮城県の「鬼首(おにこうべ)」というところに湯柱を吹き上げる間欠泉という温泉がある。』というような内容の記載が教科書にあったからです。長じてからは鬼首を訪れる機会が幾度かあり、10数メートルほど吹き上げる熱湯柱を実際にこの目で確かめることが出来ました。
手持ち資料によれば日本には北海道の羅臼温泉、鹿部温泉、登別温泉、宮城県の鬼首温泉、栃木県の川俣温泉等の間欠泉が有名で、噴出高さが日本一のものは、長野県の諏訪湖畔にある上諏訪温泉の間欠泉で、その高さは50メートルほどになるとあります。また、岡山県の高梁川(たかはしがわ)の支流の佐伏川沿いの石灰岸壁からは少量の水が噴出しており、日本で唯一の冷泉の間欠泉で、天然記念物に指定されていること(草間の間欠冷泉)、大分県の別府温泉の龍巻地獄が国の名勝に指定されているともあります。さらに、間欠泉といえばアメリカの国立公園・イエローストーンの誕生にも間欠泉に関する逸話があります。西部開拓時代のアメリカでは、開拓や新たに発見した土地は、勝手に開拓者なり発見者が自分のものにしてよい慣わしがありました。1870(明治3)年、ロッキー山脈一帯を探検していたワッシュボーン探検隊は探険の途中で 200フィート(約61メートル)近い間欠泉の水蒸気の大柱を発見するのです。そして探険最後の野営地で隊員の一人、コーネリアス・へッジスが、『間欠泉・温泉・大滝・大峡谷などの原始景観を呈するここ一帯の珍しい世界は、勝手に個人所有として事業を興すのではなく、皆の公園にして保存するとともに永遠に全国民の保養と感銘を享受できる場所とすべきである。』と提言したのです。この提言が契機となり、2年後の1872(明治5)年3月1日、ここに世界最初の国立公園、イエローストンが誕生したのです。
さて、話を湯ノ沢間欠泉に戻しますが、最初に場所を知っていただくために少々くどくなるかもしれませんが間欠泉への到達順路について説明します。お手元に道路地図や山形県の地図などがあればそれを見てください。
国道 113号線を車で新潟方面に向かい、米坂線「手の子駅」の手前、白川に架かる「手の子橋」を渡ってすぐに左折して山形県道4号線米沢飯豊線に入ります。ここから白川沿いの路を15分ほど進み、高さ66メートルのロックフィルダムの「白川ダム」とその管理所を左手に見てなお進むとダム上流に架かる朱色の美しいアーチ型のニールセン橋(注1)と称する「中津川橋」を渡ります。すると、ほどなく右手にダム建設に伴い水没した十四の集落を記念して建設された「白川ダム記念館(十四郷荘・とよさとそう)」が見えてきます。しかし、白川ダム記念館方向へのT字路で右折せず道路標識に従い米沢方向に直進します。すぐにY字路に至りますが、ここでは右手に進んで「須郷橋」を渡り、白川ダムに注ぐ広川原沿いに「広川原集落」へと向かいます。この広川原集落は今では過疎の集落となりお年寄りがわずかに住む集落となってしまいましたが、茅葺屋根の昔からの大きな屋敷が残存する美しい静かな集落で、集落の際奥には「山の神神社」があり、境内には、1886(明治19)年に建立された自然石の草木塔が水神様と一緒に並んで置かれています。また、スギとナラが根元で融合した珍しい合体樹も見ることが出来ます。ここからは左手に進み、カツラの巨木群が見られる東沢沿いの林道を進みます。林道は奥に進むにつれて細くなり、ところどころに待避所があるものの1車線の道ですから、スピードを出さず、気を付けて運転する必要があります。また、沢沿いの道なので豪雨後の土砂崩れなどもあり得るので、飯豊町の観光協会へ照会するなどの事前調査が必要です。白川ダム記念館へのT字路から50分ほど、林道入ってからは約35分で目的の湯ノ沢間欠泉に到着します。
(注1)上に凸な弓のように沿った曲線、すなわちアーチから斜めに張ったケーブルで橋桁を支える構造の橋で、設計者の名前からニールセン橋と称します。
湯ノ沢間欠泉は、今から 400年ほど前の天正年間(1573〜1591年)に金採掘者が湧出温泉として発見し、そのまま利用したといわれています。1911(明治44)年、当時の内務省東京衛生試験場に湯成分の分析を依頼し、療養泉として効果があるとの通知を受けたのですが、実際に温泉として利用され出したのは大正(1912〜1926)の中頃だといわれています。小屋が建てられ、風呂を設けて宿泊が可能となったため、地元民が夏場だけの湯治場としていたことが古い写真で分かります。昭和に入り林道が開設され、徒歩区間が4キロメートルほどになってからは相当繁盛していたそうです。1960(昭和35)年代から1965(昭和40)年代にかけては、中津川財産区(注2)や飯豊町が何度か開発目的のボーリング調査を行いましたが、温泉の大量湧出、安定的供給等の成果を得ることが出来なかったそうです。加えて、稀に見る豪雪地帯であるため、開発は断念されました。ところが、1972(昭和47)年に約42メートルの試掘調査を実施したところ不思議なことに湧出泉が現在の様な間欠泉になったのです。1967(昭和42)年8月、この地は未曽有の大水害・「羽越大水害」によって建物をはじめ温泉施設のすべてが流出し、その後施設は復旧されることはありませんでした。
ところが、1998(平成10)年になって、温泉管理者である中津川財産区が温泉自体の保全活用を目的として、湯量、温度調査を行うとともに露天浴槽の整備を行い、翌夏には山林管理と温泉利用のための休憩施設と湯花堆積池を保護するための防護柵整備を行ったことにより、また、山形新聞や読売新聞にルポ記事が掲載されるに及び、以来この秘湯を訪れる人々が年年多くなってきました。
(注2)中津川村が飯豊町に吸収合併される際に、旧中津川村の利益をそのままに残すため、中津川村が所有する財産(山林、原野など)で法人格を有する中津川財産区が作られました。中津川財産区はその財産を管理したり処分したりする権能を持ちますが、通例は飯豊町の町長や議会がその執行機関及び議決機関となります。
2006(平成18)年5月には、中津川地区住民有志によって株式会社が組織され、間欠泉の側に木造2階建て延べ598平方メートル、6部屋24名収容の山荘が建設され、名称を「湯ノ沢間欠泉・華の湯」として営業を開始しました。地元で採れるシドケ、コゴミ、ドホナ(クワダイ)などの山菜やヤマメなどの川魚、それに飯豊牛などを主体とする食事の提供があり、4月28日から11月初旬の紅葉期までの間開業となります。男女別の露天風呂がそれぞれあるほか、温泉を適度に沸かした男女別内湯もあります。この間欠泉は、通常は10〜30分間隔で5分前後、5メートルほど湯柱を炭酸ガスの圧力で吹き上げるのですが、運が良ければ1日1回ほど15メートルほどの湯柱を見ることも出来ます。「温泉やまがた」((社)山形温泉協会、平成11年12月10日号)によると、温泉の成分は、ナトリウム・カルシウムー炭素水素塩・塩化物温泉として登録されており、切り傷,火傷、慢性皮膚病、虚弱体質改善、慢性婦人病などに効くといわれています。温泉の温度は噴き出し口で35〜36度で浴槽内では34度ほどの低温度です。また、湯に浸かったタオルは茶色に染まるのが特徴です。さらに、宿の説明では、PHは6.6だそうです。
ブナを主体とする周囲の原生林を眺めながら、福島県境の飯盛山(1596メートル)の山並みから流れ下る清冽な湯ノ沢・東沢の渓流の音を聴きながら大自然の中でゆっくり手足を伸ばして入れる間欠泉は、他に見られないものと思われますので、興味のある方は一度尋ねられてはいかがでしょうか。ただ、残念なことに旅館営業をするまでは、外から間欠泉とそれに接続する金茶色の棚田のような湯花堆積池の全容を見ることが出来たのですが、旅館営業開始後は間欠泉の周囲に簾の囲いがなされてしまいました。
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