全国でも最大級であった朝暘学校

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●全国でも最大級であった朝暘学校
 山形県立博物館教育資料館開館30周年記念展「三島通庸(みしまみちつね)と洋風(ハイカラ)学舎」が去る7月17日から9月26日までの間、県立博物館で開催されており、過日その展示解説会に参加してきました。展示は本県における教育の近代化の過程を紹介したものですが、その中でも初代山形県令三島通庸が鶴岡県令時代に建設した全国でも最大級の学舎であった「朝暘学校」の平面図や模型や関連する資料等が展示スペースのかなりの部分を占めており、また、教材である「減算九九図」や「単語図」など初めて見る資料などもあって見ごたえのある展示でした。

 1872(明治5)年9月5日(8月3日)に明治維新政府は太政官布告第 214号で「学制」を公布し、これにより国民誰でもが教育を受けることが出来るようになりました。学制の内容は、まず「全国の学制は之を文部一省に統(す)ぶ」と教育の国家管理の原則を明確にし、学制はフランスの学制にならって学区制をとりました。まず、全国を8の大学区に分けます。そして、1大学区を32中学区に分け、 256中学校を、更に1中学区を 210小学区に分け53,760の小学校を置くことを定めたのです。学校は、下等、上等小学校(各4年)、下等、上等中学校(各3年)、大学(年限無規定)とし、そのほか、師範学校、後に専門学校、外国語学校などが加わりました。小学校は、正規の学校以外に女児小学、村落小学、貧人小学(仁恵学校)、小学私塾をその範囲に数え、中学校も正規の中学校以外に工業学校、商業学校、庶民学校(定時制)なども含み、学校経営は授業料と学区住民の負担を原則とするところにその財政的特徴がありました。

 1868(明治元)年12月7日、現山形県に属する地域の幕藩所諸領のうち、幕領の@柴橋及びA尾花沢の代官支配地とB鶴岡藩から削られた酒田にそれぞれ民政局が置かれ、米沢藩、上山藩、天童藩、松山藩から削られた所領を併せて支配したほか、置賜にC米沢藩とD米沢新田藩、最上にE新庄藩、庄内にF鶴岡藩とG松山藩、村山にH山形藩・I長瀞藩・J上山藩・K天童藩及びL佐倉藩・M館林藩・N土浦藩・O棚倉藩・P館藩(たちはんはん:旧福山藩)の各分領・Q旗本高力領が錯綜したまま、それぞれ「藩」として認定されました。その後1869(明治2)6月24日にCとDが併合されて米沢藩に、同じくGが松嶺藩となり、7月20日には上記@・A・B・Iが合併されて酒田県(第一次)となり、更に同年9月29日には鶴岡藩が大泉藩となりました。翌1870(明治3)年9月28日には、H・L・M・N・O・P・Q、それに酒田県(第一次)が併合されて山形県(第一次)が成立し、また、同日付で旧酒田民政局は山形県(第一次)出張所となりました。このような変遷を経て1871(明治4)年7月14日の廃藩置県により府藩県三治制が廃され、三府 302県が成立したとき、山形県(第一次)はそのままでしたが、それまで存在した各藩はそれぞれが米沢県、上山県、天童県、新庄県、大泉県、松嶺県となります。そして全国の府県数を三府72県に整理した11月2日の改置府県では、米沢県が置賜県に、山形県(第一次)と上山県と天童県と新庄県とが併合されて山形県(第二次)に、山形県(第一次)酒田出張所と大泉県と松嶺県とが併合されて酒田県(第二次)になりました。この後、1875(明治8)年8月31日、酒田県(第二次)は県庁を鶴岡に移して鶴岡県と改称されましたが、1876(明治9)年8月21日、置賜県、山形県(第二次)、鶴岡県を統合して現在の山形県が成立することになり、鶴岡県令であった三島通庸が初代県令となりました。
 山形県での小学校設立は、置賜県が1871(明治4)年と一番早く(注1)、次いで山形県(第2次)が1872(明治5)年、遅かった酒田県(第2次)では、酒田で1874(明治7)年、鶴岡では、1874(明治7)年5月でした。その結果、鶴岡の旧城下では8校が開校したのですが、学校は主として寺院が当てられ、平田学校(禅源寺)・華山学校(極楽寺)・雲山学校(龍蔵寺)・保春学校(保春寺)・本鏡学校(本鏡寺)・蓮池学校(高町・蓮池方、後に鳥居町に移り鳥河学校に改称)・大宝学校(般若寺)・苗秀(びょうしゅう)学校(致道館)と呼ばれ、苗秀学校は士族の子弟専用の学校でした。さらに、7月以降は農村部での設立も進みました。ところが、1875(明治8)年に酒田県(第二次)が鶴岡県と改まり県庁が致道館に置かれることになったため、苗秀学校は藤沢文学の「又蔵の火」で有名な総穏寺へ移転します。また、翌年には鶴山学校(常念寺)・東昌学校(東昌寺)・啓蒙学校(八坂町・阿部方)の3校が増設されました。授業料月額は、下等5銭、上等9銭で、現在の価格に換算すると200円から500円に相当します。移転した苗秀学校には各校から優等生が集められることとなり、10月には女子の優等生用の明倫学校が開設されました(注2)

 (注1)学制頒布以前の1871(明治4)年7月,置賜郡成田村(現長井市)では既に成田学校が出来ていました(「山形県の百年」(株式会社山川出版社、1985年8月30日1版1印発行))。
 (注2)鶴岡中央公民館生楽学習情報誌「まざれ」2009年冬号/NO.38並びに2010年春号/NO.39「明治・大正期の鶴岡物語」@及びA、みどり町、加賀良雄及び「山形県の百年」(株式会社山川出版社、1985年8月30日1版1印発行)

 当時の庄内では士族は平民と同席して勉学することを嫌っていたといいます。藩政時代においては、庶民の子供たちは寺子屋で読み書きを習い、武士の子弟が学ぶ藩校への入学は決して許されませんでした。旧藩士族が庶民と机を並べて学問することに対する、なお根強い抵抗があったのです。三島県令はこうした人心を一新し、「四民同席」により学問をすることを願い、1876(明治9)年に鶴ケ城を解体するとともに、苗秀学校を洋風建築で新築することにしたのです。そして「千畳敷」という前代未聞の大規模学校を建設するよう発議し、1876(明治9)年4月に起工、同年8月に竣工させました。総工事費3万5千円(現在価格で8千万円ほどになるでしょうか。)の巨費を投じた学校でした。計画当初、巨額な資金を一学校の建設に費やすよりは、郡部にいくつかの学校を作るべきとの反対意見もあったそうですが、これに対して三島県令は、「県下ノ民智見狭隘(きょうあい)吾郷国アルヲ知ッテ他アルヲ知ラズ。此ノ時ニ方(あた)リ、宜シク先ズ模範トシテ盛大ナル一学校を建築シ、以テ内外ヨリ其ノ耳目ヲ一新シ,因ッテ次第ニ郡村ニ及ボサン」と応じたそうです。また、鶴岡市役所入口右手構内に道路に面して現存する重野安繹(しげのやすつぐ)撰文、有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)題字書による建設記念碑「朝暘学校記」には「学舎不壮大則亦無以示衆(学舎壮大ナラザレバ則チ亦以テ衆ニ示ス無シ)」と記されています。時に朝暘学校は現在の山形県成立(1876(明治9)年8月21日)直前に竣工したのですが、校名は「苗秀学校」から「朝暘学校」(扁額は三条実美(さんじょうさねとみ)書)と改称され、旧城下の学校の多くが統合され、約 1,200名もの生徒が学びました。そして、女子の「明倫学校」も同一校舎に置かれましたが、学校としては別のものでした。この朝暘学校を本校と呼び、第一分校を平田学校、第二分校を鶴山学校、第三分校を大宝学校、第四分校を本鏡学校、第五分校を鳥河分校として、市内の小学校を再編成しました(注3)。朝暘学校の「朝暘」の意味は、洋風3階建の最上階から朝日連峰が遠望されたこと、生徒の成績が朝日のように向上することを願い名付けられたといいます。ちなみに連峰の主峰大朝日岳(1870メートル)は、20万分の1の地形図上で測ってみると鶴岡市役所から直線距離でおおよそ53キロメートルの位置にあたります。なお、現在鶴岡市内にある第一から第六までの小学校は、何れもこの「朝暘」の二文字を頭に戴いています。
 (注3)鶴岡市生楽習情報誌「まざれ」2010年春号/NO.39「明治・大正期の鶴岡物語」A東北一の朝暘学校、みどり町、加賀良雄

 大久保利通を中心とする新政府にとって庄内は問題の地方でした。最初酒田に新政府の統治機関である民政局が置かれましたが、米の流通を無視した政策に反発して「天狗騒動」と呼ばれた民衆運動が1869(明治2)年10月に起こり、1874(明治7)年10月には「ワッパ騒動」と呼ばれる農民1万数千人が蜂起した大騒動が起きていました。また、庄内の士族は松ケ岡の開墾にあたって軍事組織を保持しつつ行うなど、西郷隆盛と呼応して立つかもしれないとの不気味さを新政府に与えていました。このような時、大久保利通は三島通庸を酒田県令として派遣し当地を統治させようとし、1874(明治7)年12月16日に酒田(第二)県令として赴任させました。赴任した三島は、先ず「ワッパ騒動」に係る農民を治めることに没頭しました。前述のように1875(明治8)年8月31日、酒田県(第2次)は鶴岡県となり、同時に県庁の所在地も鶴岡に移転し、三島県令はその県令室を庄内士族の精神的支柱となっていた旧藩校「致道館」(注4)の藩主の御成りの間であった「御居間」に据え、そして目前に朝暘学校の壮大な西洋建築がかつての藩学の殿堂を見下ろすように屹立させたのですが、これはまさしく時代の新旧交代を象徴する構図だったのです。ただ、全国的にも稀なこの大校舎も1883(明治16)年3月の失火のため焼失してしまいましたが、旧士族の中には「いらざる普請の学校故誰も惜しむ者なし」と酷評する者もおったそうです。
 三島県令は、軍事的目的から架橋されていなかった赤川に長大な「三川橋」を架設し、また、川船に頼っていた内陸地方との間には「磐根(いわね)新道」を、馬も通わぬ難路であった秋田県境の三崎に「三崎新道」をそれぞれ開削しました。初代山形県令としての在職6年間は土木建築事業で夜を以て日を継ぐ有様で「土木県令」の異名をとったのです。しかし、県内の近代化は一挙にすすんだものの、その強権には反発も強く、後に赴任した福島、栃木両県では「福島事件」、「加波山(かばさん)事件」を起こしています。
 (注4)藩校としての致道館は、開校以来約70年の歴史を刻みましたが、明治維新のうねりの中でその役割を終え、1873(明治6)年に廃校の日を迎えました。なお、現存の致道館の扁額は、庄内藩医で、教育家、思想家としても著名であり、致道館の助教(教授)を兼務した重田道樹(しげたどうじゅ)の手によるものですが、重田道樹については、校友の黒羽根洋司さん(第70回(昭和40年卒))が「病者のこころを心としてー庄内の医人たちー」(平成22年5月21日初版第1印発行、メディア・パブリッシング)で詳述しています。

 朝暘学校がいかに大規模のものであったか、展示されていた、平面図・全面図・側面図と記念誌「三島通庸と洋風学舎〜近代やまがたの学校〜」(2010山形県立博物館)をもとにその内容を纏めてみると次のようになります。なお、鶴岡市郷土資料館保存の平面図・前面図・側面図は着色され縮尺50分の1で描かれています。また、建築に当たっては三島県令が自ら筆を執ったとのことです。
 その敷地面積は、1,713坪(5,662.8平方メートル)、建坪439坪(1,451.2平方メートル)、前面幅15間(27.3メートル)、側面幅38間(69.1メートル)、建物の総高さ6丈2尺6寸(19.0メートル)で、外周は下見板張りで、上下に開閉する両開き鎧戸付きの窓があります。車寄せ部分は円柱をたて、出入り口上部には色ガラス入りのアーチ型欄間を入れ開くようにしています。なお、採光の関係で施設はロの字型に配置されており、建物に囲まれた中庭・140坪(463.0平方メートル)は錬体場として利用出来る様にしてありました。
用途 室番 畳数(A) 室数(B) A×B
玄関 1,2 16 2 32
応接所 3,4 20 2 40
教員詰所 5,6 32 2 64
教場(教室) 7〜18 32 12 384
小計       18 520
王座 19 24 24
礼拝人席 20 24 1 24
御次 21 16 1 16
大臣参議以下席 22 32 1 32
官員扣(ひかえ)所 23 40 1 40
上段 24 12 1 12
試験席 25 60 1 60
教場 26〜37 32 12 384
不詳(教場と思われる) 38 32 1 32
小計       20 624
御写真 39 16 1 16
教場 40 32 1 32
上等生徒教場 41 18 1 18
上等生徒教場 42 40 1 40
小計       4 106
合計       42 1,250
2010年9月1日