山形市郊外で見られる氷河期の自然的遺産〜須川の埋没林〜

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●山形市郊外で見られる氷河期の自然的遺産〜須川の埋没林〜
◆山形市の南部に「桜田西地区」と「片谷地地区」とを連絡する「常盤橋(ときわばし)」があます。山形新聞の「やまがた橋物語」によれば、この橋は、1878(明治11)年、県令三島通庸の命令で、江戸時代の土橋から石造りの眼鏡橋に架け替えられ、永久不変の意味合いで「常盤橋」と命名されたものです。完成直前には、置賜地方から北上したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードが通りがかり、工事担当の技師から架橋工事の説明を受けたそうです。しかし、残念なことに1890(明治23)年の洪水で無残にも崩壊し、その数年後には木橋となり、1970(昭和45)年になって現在の鋼鉄とコンクリート造りの構造の橋梁となりました。
 さて、この橋の 300メートルほど下流の河床には、直径30センチメートル、水面上7〜80センチメートルの高さで、丁度太い杭を打ち込んだように褐色の突起物がぽつぽつと立ち並んでいます。2003(平成15)年、山形大学理学部の山野井 徹教授が山形新幹線の車窓からこの突起物の存在に気付き、これの生成年代等を測定した結果、約2万2千年前の氷河期のエゾマツを主とした樹木が土石流によって真空の状態で埋没してしまった「埋没林」であることが分かりました。地域の人々の話では、50年ほど前にはこのような現象が見られなかったとのことですが、流水によって川底に隠れていたものが姿を現したもののようで、今でも川の流れの状況によっては見えていたところが隠れてしまうこともあり、またその逆の場合もあるということです。右岸の新興住宅地や白亜の高層マンション群と河畔の緑を背景にして埋没林が眺められる誠に不思議な風景なのです。
◆この埋没林については、マスコミ報道がなされたとおり、2009(平成21)年5月、左岸において山野井 徹教授の手により20メートルほどのボーリングが実施され、土石や花粉などの堆積物が採取され、埋没林が形成された状況が解明されることになりました。翌2010(平成22)年6月になって、南山形公民館が主催して山野井山形大学名誉教授(教授は平成22年3月で山形大学を定年退官され名誉教授となっています。)による説明会と現地見学会が行われたのですが、このような埋没林は、現在ここ「南山形地区」と上流の「黒沢地区」及び上山市の「宮脇地区」の3か所で確認されており、いずれの埋没林もほぼ同じ気候の時代を示す亜寒帯性針葉樹を主体としたものであることから、当時この一帯はトウヒやモミやゴヨウマツなどの針葉樹の森林地帯だったことが判明したのです。
◆南山形地区の埋没林を見に行くには、@主要地方道山形・上山線(深町〜上山)あるいは同じくA主要地方道山形・上山線(南館〜上山)から下谷柏集落に至る道に入ります。@から入った場合は、集落の手前、Aから入った場合は集落を過ぎてからの果樹園と蕎麦畑のところにカーブミラーが設置してあり、このカーブミラーの直ぐ側に「南山形地区振興協議会」が設置した「氷河期の埋没林入口→」と表記された小さな案内板があって、ここから農道の様な道を通って河床へ向かいます。道の途中の斜面には石段が設置されており、また、除草も行われているので容易に埋没林を眺めるところまで歩いていけます。興味のある方は是非足を運んでみてください。
◆私は南山形公民館での説明会に参加する機会を失したのですが、5年ほど前に「南山形地区」の上流8キロメートルの「宮脇地区」で、「最上川流域プログラムネットワーク」(県内の環境教育や森林教育のボランティア活動団体の連絡会)が主催した現地見学会に参加して、初めてこの埋没林を間近で見る機会を得ました。このとき知人の本田康夫さん(山形県応用地質学会員で応用理学部門の技術士、山形大学非常勤講師)に種々話を聞くことが出来ましたので、南山形地区の埋没林とほぼ同時期に形成され、早期に調査、研究が行われていた「宮脇地区埋没林」について、その調査結果などを皆さんに紹介してみたいと思います。
◆1998(平成10)年、山形市在住の阿部龍市さん(山形県応用地質学会員)が上山市の宮脇地区の須川沿いで粘土・シルト(砂より小さく粘土より粗い砕屑物)・砂などの細粒の地層に埋没している化石化した木が多数分布しているのを発見し、県立博物館に報告したところ、当時県立博物館勤務であった長澤一雄さんも加わって翌年から2001(平成13)年にかけて調査を行い、その研究成果を「山形県応用地質」という会員誌に報告したのが世に知られる切っ掛けとなりました。ただし、地元の人々の間ではこのことは昔から周知の事実だったようで、その昔、子供たちが川遊びの際に掘り起こして遊んでいたそうです。その後、2001(平成13)年に山形大学理学部が試掘調査を実施し、2002(平成14)年、2003(平成15)年には河川管理者である山形県村山総合支庁建設部が山形大学理学部の山野井 徹教授に依頼して現地調査と現地見学会を実施し、2004(平成16)年には地元行政機関や観光事業者などと埋没林の利活用に関する意見交換会を開催しています。
◆この宮脇地区に至る道順ですが、国道13号線を山形から上山方面に向かい、「須川橋」の手前で重要文化財の指定を受けている「旧尾形家住宅」に至る道路に左折進入し、少し走って今度は宮脇公民館の前を右折します。しばらく走ると、須川に架かる「須川大橋」に到達しますが、この須川大橋の上流と下流域にわたる約 560メートルの区間に埋没林が存在します。
◆「埋没林」とは、文字通り"埋もれた森林"のことで、埋もれる原因には、火山の噴火に伴う火山灰の降下や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地滑り、海面上昇など様々あります。須川のものは前述のように土石流によって樹木が真空の状態で埋没してしまったもので、山形県の依頼で調査を実施された山野井教授は、この埋没林を「化石の森」と命名されました。この埋没林は世界中で見ることが出来るのですが、日本には40か所ほどの埋没林があり、富山県魚津市(うおづし)の「魚津埋没林」や島根県太田市(おおだし)の「三瓶小豆原(さんべあずきがはら)埋没林」等がよく知られています。「魚津埋没林」は、片貝川の氾濫による土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より下に埋没林が存在するようになったと考えられており、「三瓶小豆原埋没林」は、三瓶山の火山活動に伴って斜面崩壊が発生し、その土砂が小豆原の隣の谷筋の木々をなぎ倒して流下します。この谷は下流約500メートルの位置で小豆原の谷と合流しており、今度は流化した土砂が小豆原のある谷に向かって逆流したものです。逆流した土砂は勢いが衰えており、スギ、ケヤキなどの木々は倒されないままに埋没したのです。
◆「埋没林」の化石化に似た状態を示すものに「珪化木」があります。これは何らかの原因で土砂等に埋もれた樹木が、温泉水などに溶けきれないでいる微細粒な珪酸分などが地層からかかる圧力によって木の導管を通って内部まで染み込み、数10万年から数 100万年もの長時間をかけて細胞内部から付着して石のように硬く分解しにくくなって保存されたものです。このような珪化木は世界中で様々な時代の地層から主として陸成の堆積物に見られるそうですが、実物が見られる身近なところとして私の知るところでは、鶴岡市の「酒井氏庭園」や天童市の「御苦楽園」があり、そこでは庭園の石組あるいは石柱として使用されています。「珪化木」で世界的に有名なものは、アメリカのアリゾナ州の砂漠地帯の「石になった森(Petrified Forest(ペトリハイド フォレスト))」というところにあるものだそうです。この一帯は国立公園に指定されており、非常に広い範囲の中に、根っこのない珪化木の大木が内部の組織や形態を残したままがごろごろと横に倒れているといいます。これらは数10万年から数 100万年を要して出来あがった珪化木が土石流によって運ばれてきたものと考えられており、従って、須川の埋没林とはその成り立ちが異なりますが、石化した珪化木が集団で砂漠の中にあるということで特異な例だということです。
◆宮脇地区のボーリング調査等の結果から判明した事柄は、@須川沿いには、地表から4〜5メートルの所を境に粘土層が出現し、また、砂の層も発見されたことからこの一帯はその昔浅い川とか沼の様なものがあったことがうかがえたこと、A地中には、針葉樹であるトウヒ属(分類の基本単位が「種」で、共通の性質は持っているが、種の違うものを集めて「属」とします。例えば、トウヒ、アカエゾマツ、エゾマツなどはマツ科トウヒ属です。)の球果や葉が確認され、これらを解析した結果、森林は、いまから2万2千年以上前のヴュルム氷河期という寒い時代のものであること、B現在の地表面から 1.5メートルから5メートル近くの所に地中にしっかりと根の張っている切り株があり、立株状のものの中にはほぼ垂直に立ち割られ、やや角張った礫が化石となった木の中に食い込んでいることから森林がこの場所で生長し、土石流によって埋没林となったこと、C放射性炭素(炭素14)により土壌、須川大橋の上流の幹・根っこをそれぞれ年代測定した結果、埋没林は約2万2千年前に形成されたということ、D切り株のあるところから下の約30センチメートルから40センチメートルの所に、厚いものでは5センチメートル、薄いもので3センチメートルのガラスの様なものが混じっている灰の層が見つかり、これは、今から2万3千年以上前の南九州の鹿児島湾で大噴火を起こした時の「姶良(あいら)テラフ」であることなどです。テラフというのは、「広域的に降下する火山灰」を意味する言葉だそうですが、この姶良テラフは置賜の白龍湖、羽黒川、それに北村山の尾花沢でも確認されているとのことです。これらの地域と姶良火山との距離は1,200キロメートルほど離れているのですが、火山灰が山形県まで飛んできて堆積したことになるわけで、人間の尺度では計り知れないスケールの大きい話です。2010(平成22)年3月20日のアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル火山の噴火は、火山灰を偏西風に乗せて拡散させ、ヨーロッパ上空の大部分の空域の閉鎖原因となり、北西ヨーロッパの航空混乱をもたらしたのですが、姶良テラフの本県への飛来の時もこのような現象が起きたのでしょうか。なお、東北の海岸部の埋没林の例では青森県つがる市の日本海に面した「出来島(できじま)埋没林」がありますが、ここにも須川の例のように姶良テフラがあって、これの調査によってここの埋没林は、今から2万8千年ほど前に洪水により形成された埋没林で、泥炭層に埋没している樹木はカラマツの仲間とトウヒの仲間であることが判明しています。
◆宮脇地区の「埋没林」は本県では勿論のこと、東北の内陸部で最初に発見された埋没林であり、その点でも貴重な自然的遺産といわれています。ただ、ここの化石の森は、須川沿岸に分布するため、雪解けや降雨に伴う僅かな増水によって化石木が流出し或いは埋没することが危惧されています。この化石化した埋没林は、年輪が明瞭に残っており、現場ではナイフや鋸で容易に切断できる程度の硬さで、乾燥すると収縮し、生きよいよく燃えるので燃料として利用され得るため、その保存に苦慮しているようです。特殊な化学物質を用いての保存方法もあるようですが経費的な問題が絡むそうです。さらに、埋没林の炭化度は、それほど高くないので、そのまま放っておくとバクテリアなどにやられる可能性も指摘されています。
 そこで、河川を管理する山形県では、この「化石の森」について、@化石木が下流に流されないように河床の低下防止の工事を行い河床を安定させる、A化石木を埋没させたまま保存するため、河川の局所的な浸食を防止し、河床の高さを一定に保つ目的で砂防ダムに似た小型のダム様の構造物を築造する「帯工」を施し、土砂を1メートルほど堆積させる、Bあるいは具体的な案はないようですが積極的に一般に公開して保存する等々、埋没林の保全についての対策をいろいろと模索している現状です。 それにしても今から1万年前というと日本は縄文時代、また、日本列島が現在の形になったといわれる時代ですが、これよりさらに1万年も前の氷河期の終わりの自然現象の痕跡を現在この目で身近に眺められるということは太古へのロマンを駆り立てるものがあります。
2010年10月1日