出羽三山における神仏分離(二の1)


64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
出羽三山における神仏分離(二の1)
 ◆我が家に一寸変わった絵図があります。この絵図は羽黒山から月山、そして湯殿山に至る山塊を西側から俯瞰したものですが、湯殿山と品倉の尾根筋は西の方向に延びているため、この部分だけ捻じれており、北側から俯瞰したように描かれています。庄内と最上とを分ける虚空蔵岳や黒森山や板敷山等の山並みも淡く背後に書き加えられています。そして、絵図の左から門前集落にある正善院黄金堂、門前集落である手向村、これより羽黒山内を示す隋身門、五重塔、2446段の石段、社務所、南谷、出羽神社、吹越、荒沢、野口、掛茶屋、階道坂、小月山、神子石(みこいし)、強清水(ごうしみず)、狩籠(かりごもり)、平清水、冷清水、御田原、仏水池、役行者戻(えんのぎょうじゃもどし)、月山神社、月山泊小屋、鍛冶屋舗(かじやしき)、牛ケ首、装束場、湯殿山と施設名あるいは場所名が記入されています。また、絵図の左上には、「此色神地申立置候場所」(五重塔、南谷、吹越の箇所)(茶色)、「此色仏地御届申上置候地」(黄金堂と荒沢の箇所)(黄色)、此の色道(茶色)、此の色川(水色)の凡例があります。絵図を描いた年月日、作者の記名はありませんが、鶴岡出身で母方の曽祖父にあたる国学者で二代目出羽三山神社宮司・星川清晃(ほしかわ きよあきら)がその在職中(1876(明治9)年〜1878(明治11)年)に描いたもので、伯父(母の兄・星川清健(後に野坂の養子となり、更に出家して是勇と名乗る。)・第34回卒・1924(大正13)年に白虹社(現白甕社)を創設した者の一人)が存命中の1980(昭和55)年11月29日に私が譲渡しを受け、山形市の彩画堂に依頼して表装し額入りに仕立てたものです。
◆現在この絵図は、去る12月18日から来る2月13日までの間、山形県立博物館で開催されている同博物館と同博物館友の会共催による『第二回共同企画展「私の宝物」』に出展しております。この絵図は凡例から見ても明治初期の神仏分離令と深く関係するものであり、このたびの出展を機に当時の出羽三山における神仏分離の状況について私なりに纏めてみました。纏めるにあたっては、山形県総合学術調査会が1975(昭和50)年10月25日に発行した「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山」」の中の「羽黒山を中心とした三山信仰の歴史・集落地理」(池田義則)及び「湯殿山を中心とした三山信仰の歴史地理」(宇井 啓・岩岡 認・那須恒吉)、山形百年(毎日新聞社)、「出羽三山文学紀行」(一粒社)、出羽庄内地域文化情報誌の「Cradle/2010・9」、「庄内人名事典」やインターネットで入手したものですが歴史家として偉大な業績を残した大先輩の阿部正己さん(第8回・明治33年3月卒)の「出羽三山史」や同じくインターネットで入手した「日本の塔婆」の「羽黒大権現」、「シリーズ人とまつり第4回・出羽三山と柴燈護摩・「廃仏毀釈の爪あと」(荘銀総合研究所主席研究員・加藤和徳)、「庄内平野と出羽三山への旅」(佐藤けんいち)、羽黒町観光協会ブログ等を参考にしましたが、私が誤解している部分、補足が必要な事項など多々あることと思いますので、その場合はご指摘をいただきたく存じます。
◆明治維新政府は、復古神道(注1)の影響下で天皇を神聖化することを目的とする神道国教化の方針から「神仏習合の慣習」(注2)を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別するため、1868(慶応4)年3月13日(1868年4月5日)から1868(明治元)年10月18日(1868年12月1日)までに太政官布告、神祇官事務局達(たっし)、太政官達など一連の通達を出しました。これらを総称して「神仏分離令(神物仏判然令)」といいます。すなわち、3月13日に太政官布告により「王政復古・祭政一致を宣言し、古代の律令制で設置された祭祀を司る国家機関である神祇官の再興」を布達しました。また、4日後の同年3月17日には神祇事務局から諸社に対して「神社における僧職の復飾(僧が還俗することです。)」の命令が発せられ、さらに3月28日には、神祇事務局達として「神号を仏号で称えることの不快感の表明と神社・神前から仏教的要素の排除」を命じました。(注3)。さらに、全国で極端な廃仏の動きが巻き起こることを危惧し、4月10日には太政官布告として「神仏判然の主旨と私憤ヲ斉シ候之所業、粗暴な振舞等への戒め」を布達し、閏年4月19日には、神祇事務局から諸国神職に対して「神職とその家族は神葬祭を行うこと」を命じています。さらに10月18日(1868年12月1日)には、法華宗諸本寺に対して「三十三番神(法華経守護神)信仰の禁止、曼荼羅に天照大神・八幡大菩薩の書写の禁止」などを太政官から指令しています。これらに基づき全国的に公的に神仏を分離させ、神に「菩薩」または「権現」と唱えることを止めさせ、仏像をもって神体とすることを禁じることが行われました。
◆1869(明治2)年3月には古代以来前例のない天皇の伊勢神宮参拝が実現し、7月には太政官の上位に神祇官(明治新政府の組織で神祇、祭祀をつかさどる役所のことです。)が置かれました。さらに、1870(明治3)年1月3日(1870年2月3日)には、天皇に神格を与え神道を国教と定めて日本を祀政一致の国家とする「大教宣布(だいきょうせんぷ)」の詔が出され、天皇をトップにいただく神道が「大教」の名で全国に布教されることになりました。これは国民の精神的団結のシンボルの一つを天皇とし、天皇の多くが神祭となっていること、日本書記などの神話もあることなどからもう一つのシンボルを神道に求めたものであり、そして、「これからは一切の政治を現人神である天皇が行うので、神を祀った神社が神か仏か判然としないのでは困るので、神仏を明瞭に区別して、本来神社であったところから一切の仏色を取り除きなさい。」というのが神仏分離の趣旨でした。
◆ただ、この神仏分離令は決して仏教排斥を意図したものではないといわれていますが、結果として、神仏分離令が出されたことをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、前述の通り、1868(慶応4)年に粗暴な振舞等への戒めについての太政官布告が出たにもかかわらず各地の寺院や仏像・仏具の破毀が大々的に行われてしまったのです。これについては、江戸時代にキリスト教弾圧のために「檀家制度」(注4)が設けられたのですが、このことが結果として寺院が封建支配の末端組織を担い、民衆を拘束し抑圧してしまったことが大きな原因であるといわれています。
◆神仏分離令が発せられた山形県地域において最も注目すべきは出羽三山の場合といわれます。神仏分離令が発せられた当時の庄内は、まさに戊辰戦争に突入せんとしていた時期であり、このことは直ちに当地には布達されませんでしたが、1868(明治元)年9月23日、庄内藩と松山藩は政府軍に降伏、26日夜半、13代藩主・酒井忠篤(ただずみ)が藩校致道館において、いわゆる黒田清隆参謀の前に謝罪し、翌9月27日には鶴岡ケ城が明治新政府に明け渡されて、庄内地方における戊辰戦争は終焉を告げ、酒田に民政局と軍政局が置かれて1869(明治2)年1月、西岡周碩(にしおかしゅうせき)が民政局長官となり、2月20日、東京から着任してから追々明治維新政府の布告が諭達されます。そして、初めて「神仏分離令」が当地に伝達されたのは、5月4日になってからです。7月20日になると酒田民政局は廃止となり、酒田県(第一次)となりますが、知事が欠員で大参事西岡周碩、権知事津田山三郎が事務を執ることになります。
◆1869(明治2)年12月、酒田県知事に大原重実が任命され、1870(明治3)年1月22日に着任(〜1870(明治3)年9月)しますが、3月になって神祇官は『「羽黒権現」(羽黒山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、正観世音菩薩を本地仏とし、伊波神(いではしん)・稲倉魂命(いなくらたまのみこと)を祭神とします(羽黒権現)。)を廃して「出羽神社」に改組し、山内の社僧は復飾すること、また、仏像や寺院は神域から取り除くこと』を命じ、これが酒田県(第一次)経由で羽黒権現に伝えられました。当時の羽黒権現は、別当・覚諄の時代の1823(文政6)年に「能除太子(蜂子皇子)」に対する「照見大菩薩」の諡号(しごう)と共に「羽黒三所権現(羽黒・月山・湯殿山権現)」に対する「出羽神社正一位」の神階(注5)の宣下を賜っていた事実もあり、また、1869(明治2)年5月の「神仏分離社僧復飾」の布達もあって、羽黒修験は復飾しなければ神社に出仕出来ない状況下にありました。
◆9月28日に山形県(第一次)が成立し、酒田県(第一次)は山形県(第一次)酒田出張所になります。そして、10月に入ると羽黒権現の別当・官田(かんでん)及び一山の総代らが山形県酒田出張所から出頭を命じられ、「山内の諸堂を速やかに神社に改め、別当以下衆徒は全て復飾すること」を改めて命じられました。しかし、官田は一山の代表を上京させ、神祇官に従前通りの措置を嘆願したのですが許されず、結局、複飾しないと山を去るしかなかったため、荒沢寺、積善院(山頂)、金剛樹院(手向)を除き、その他の寺を廃して住職には神勤させることとし、僧侶は復飾改名し、自らは名を羽黒宝前と改め、表面上の復飾をして「出羽神社」社司に任じられました。しかし、彼らは帰宅すれば僧形に戻り読経をしていたといわれています(「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山」(山形県学術調査会))。なお、1870(明治3)年6月28日、天台宗総本山の比叡山延暦寺(開祖は最澄)からは「明治維新政府の神仏分離布告は、仏道を廃止するという意味でないから修学を怠らないように」という内容の宗布告が出され、これが羽黒に到達したのは11月6日のことでした。
◆羽黒権現最後の別当である官田という人は、山形県村山郡船町(現山形市)の生まれで山寺立石寺の弟子となり、後江戸に上り上野福聖院住職において東叡山貫主の御内陣(本尊を安置している奥の間)係を勤め、北白川宮能久親王(きたしらかわみやよしひさしんのう・1847(弘化4)年〜1895(明治28)年))の御養育に当たり、功によって1861(文久元)10月に羽黒山別当に補せられ第80世の執行を兼ねて権僧正となった人です。没して羽黒南谷に葬られました(「庄内人名事典」)。
◆1871(明治4)年になると酒田県(第一次)から羽黒山に対して「羽黒山麓仁王門から月山山頂までの末社や路傍に祀られている仏像類の撤去」が命じられましたが、この時点でも羽黒山の山内はまだ頑強に抵抗をしていたと思われます。
 ここで出羽三山の本地垂迹説(注2)による神と仏・菩薩の関係をまとめると次表のとおりとなりますが、この場合、本地垂迹説によって日本の神に「仮の」を意味する「権現」といった呼称がつけられます。

《出羽三山の本地垂迹説による神と仏・菩薩の関係》
山 名 社   名 祭  神(垂  迹) 本   地
羽黒山 出羽神 波神(いではしん)・稲倉魂命
(いなくらたまのみこと)(羽黒権現)
正観世音菩薩
月 山 月山神 月読命(つくよみのみこと)
(月山権現)
阿弥陀如来
湯殿山 湯殿山神社 大山神(おおやまずみしん)
・大己貴命(おおなむちのみこと)
・少彦名命(すくなびとのみこと)
(湯殿山権現)
大日如来

◆一方、いわゆる出羽三山登山口七方八口(注6)に発達した修験者を中心とする集落は各々別当寺(注2)の管理下にあり、神仏分離令に対する反応は、各口各様であったといいますが、手向の修験 300坊は未だ真に複飾せず、名より実をとり、複飾、改名したものも手向修験者達は神社勤務から自宅に戻れば僧形に戻り読経をしていたといわれています。湯殿山に関わる本道寺、大日寺、注連寺、大日坊の真言四ケ寺(総本山は高野山金剛峯寺、開祖は空海)ではあくまでも復飾することを拒み、大泉藩を経て湯殿山仏道奉仕を願い出ましたが、1871(明治4)年6月、神祇官より湯殿山は神山であるからと仏道奉仕を禁止され、教部省から石丸八郎が出張し、七口の先達等を集めて神職になるよう説諭したところ、本道寺、大井沢、岩根沢、肘折は復飾しましたが、注連寺、大日坊はそれでも復飾しませんでした(これについては次回に詳述します。)。
◆1872(明治5)年2月、羽黒宝前・官田は所用で鶴岡に向かった帰路急死し、翌1873(明治6)年3月、教部省の大講義で平田篤胤門下の35歳の西川須賀雄が出羽神社宮司に任命され、8月12日赴任します。これより先、3月7日には「出羽神社」が「国幣小社」(注7))に列せられています。西川宮司は羽黒山が以前と変わらず仏教色を濃厚に残している実情を見て神仏分離の徹底していないことに憤慨し、手向修験に完全なる復飾を説諭しましたが、千年余来の信仰と慣習はこの説諭に容易に応じないばかりか、手向修験300坊は天台宗(注8)に帰入することにし、7月、手向の宗徒代表桜林坊は天台宗務庁に書類を提出し、月山権現を山頂北方百間の御峰に安置存続の取り計らい方を依頼するとともに、10月には、手向27坊が西川宮司の企てである「出羽三山の開山の祖・能除太子(蜂子皇子)の諡号である「照見大菩薩」を返上して「蜂子命(はちこのみこと)」とし、「開山堂」を「蜂子神社」と名称変更して神祭執行をすること」に反対する旨の書面を西川宮司に提出しました。これにより、西川宮司は徹底した廃仏毀釈に着手することを決断し、教部省から常世長胤(とこよながたね)、宮崎晴海等の出張を請い、石工を雇って石造物並びに鋳造仏像を破壊し、木造の仏像、仏具類は随所に集めて燃やし、石碑の類は渓谷、池、沼に投捨しました。破壊を免れた仏像仏具は、手向の金剛樹院、荒沢の北之院、聖之院、経堂院(注9)等に移したのですが、この荒沢三院の内、北之院、経堂院は、後に無住で火災に遭ったため仏像は悉く焼失し、他の寺院に移されたものもほとんど散逸したということです。羽黒本社をはじめ各寺院の仏像は数多くありましたが、前述の通り破毀焼却あるいは散逸してみるべきものは残存しておらず、かつ、各寺院は火災にも遭っているので、古いものはほとんど見当たらないということです。ただ、弥陀ケ原にあった1332(元弘2)年6月と銘のある阿弥陀坐像(銅鋳)は、月山御田之無量寿仏の銘もあるのですが、廃仏毀釈の騒動後、銅屋に売却されることになりましたが、既の事に手向の早坂さんという人に買い取られたということです。しかし、1895(明治28)年、再度鶴岡の骨董商に売却され、これを酒田の鈴木久弥という人が70円で買い取り、同氏の子孫が持ち伝えているとのことですが、その後の消息は不詳です。
◆次に寺堂塔の破毀が行われ、「庄内人名事典」によれば、月山・羽黒より手向に至る寺院堂塔 113棟のうち85棟が取り壊されたということです。また、「日本の塔婆」の「羽黒大権現」を参考にすると、羽黒山(羽黒山内及び門前集落の手向、奥の院の荒沢を含む。)では、 109堂塔坊舎中、取り壊されたものが59堂塔坊舎(54%)、仏堂を神社施設に転用したもの33堂塔坊舎(30%)、仏地として残された堂塔坊舎12(11%)、稲荷社のまま残ったもの5社(5%)という状況で、これらの行為は1873(明治6)年9月から翌年までに行われたといいます。五重塔は寺院に与えられ他に移転することになりましたが、移転経費に多額を要するところから対応に長い時間が経過し、結局は神社所有となりました。なお、五重塔というのは俗称で、現在は出羽三山神社の末社の「千憑社(せんよりしゃ)」といい、大国主命を祀っています。また、五重塔前の念仏宗の道栄寺も復飾しなかったため移転を命じられ野口に移転地をもらったのですが、これも経費の都合がつかず、結局破毀となりました。別当寺に次ぐ宿老の住まいした三先達寺であった華蔵院(三ノ坂上)、智憲院(現山頂駐車場西側)、正穏院(現博物館前)のうち、智憲院、正穏院は、取り壊しに遭いましたが、智憲院は、間口16間、奥行16間、建坪 257坪5合、正穏院は、口14間半、奥行15間半、建坪 241坪九合の大伽藍でしたが、取り壊した用材が多すぎて買い取る者が無く、後にわずか16円で売り払ったといいます。なお、華蔵院は破壊をまぬがれ、現在斎館として残っています。江戸中期以降足跡が途絶えて遂に倒壊した南谷の紫苑寺(別院)の跡地に、三の坂の上にあった玄陽院を移築し、秋の峰一つの宿に当てました。ここは俳聖松尾芭蕉が奥の細道紀行の折、6日間滞在した由緒ある施設でしたが存続の希望叶わず後に破毀されてしまいました。二の坂上の執行寺である宝前院(若王寺)は最大の建築物で、間口29間、奥行37間、建坪 662坪4勺あり、一時出羽三山神社の社務所が置かれましたが、これも後で取り壊されてしまいました。ただ、書院の一部は社務所として麓に移転されたのですが、これも1923(大正12)年に焼失してしまいました。ただ、冒頭に掲げた絵図に「社務所」として図示してあります。また、玄陽院もこの時点では取り壊しにあっていなかったと見えて、建物があるように図示されています。
◆ついに、西川宮司は1873(明治6)年12月2日付で教部省に「照見大菩薩」の諡号返上を書面で願い出、これを受けた教部省は、更に太政官(三条実美太政大臣)に伺ったところ、1873(明治6)年12月28日にこれを聞き入れたため、1874(明治7)年2月7日、「開山堂」は「蜂子神社」と改められました。
(注1)江戸後期の国学者・本居宣長によって唱えられ、平田篤胤によって発展大成させられた神道理論のことで、古事記、日本書紀などの古典に立脚し、仏教も儒教も排して国体の尊厳を称揚しました。
(注2)「神仏習合」と「神仏混淆」は、一般に同じとされていますが、「仏教と神道」(ひろ さちや)によればそれは決して同じではないとしています。6世紀の半ばに仏教が我が国に伝来した時、神道と仏教との間には対立・緊張があり、寧ろ仏教は弾圧を受けていました。ところが、聖徳太子の時代の7世紀以降になるとこの緊張は無くなり、仏教と神道は平和的に共存し始めます。そして、奈良時代になると日本の神もまた仏教を信仰し、仏道修行をされるといった考え方が成立し、神社に寺院が建立されます。この神社に付属して建てられた寺のことを「別当寺」といいます。明治維新まで、一部の例外を除き神社(権現、明神)の経営には特定の寺院が当たり、境内地に多くの寺院がある場合は、一山の寺務を統括する寺を執行寺と呼びました。つまり、仏教僧侶が神社(権現、明神)を支配し、神殿と仏堂が同居し、神殿に仏像・仏器が置かれ、僧侶が神に奉仕し、神前で読経等が行われていたのです。この時代の仏教と神道の平和共存的あり方を「神仏混淆」と呼ぶべきものとされています。それに対して「神仏習合」は神と仏が全く一つに融合してしまうことです。すなわち神と仏は水と並の関係(神と仏は水波の隔)で、形は違っていても元は同じだと見るのです。これを「本地垂迹説」といい、おおよそ10世紀の平安時代からこのような思想が成立します。すなわち「本地垂迹説」とは、神道と仏教を両立させるには、奈良時代から始まっていた神仏混淆という信仰行為を理論づけし、整合性を持たせるために成立した考え方で、「本地」とは、仏・菩薩の本身のことで、「垂迹」とは、仏・菩薩が衆生(民衆)を救済するために生まれ変わって、仮にこの世に出現することを意味します。
(注3)いわゆる「神仏判然令」の中心をなす「達」です。
1 中古以来、某権現或は牛頭天王の類、其外仏語を以神号に相称候神社不少候、何れも其神社の由緒委細に書付、早々可申出候事
2 仏像を以神体と致候神社は、以来相改可相候事
付、本地杯と唱へ、仏像を社前に掛、或鰐口、梵鐘、仏具等の類差置候分は、早々取除き可相事
というもので、第1条では、仏語で神号を称している神社に対して、その由緒の提出を命じ、第2条においては仏像を神体にしている神社にその改変を求めたものであります。
(注4)1640(寛永17)年、幕府は宗門改役を設置します。人々はキリシタンや日蓮宗不受不施派でないことが証明されると、現在の戸籍に該当する宗門改帳(宗旨人別帳)に記載され、記載された人々は、強制的にある決まった寺(檀那時)に所属させられ檀家とか檀徒(施主)となります。一度定められた寺院を変更することは出来ませんでした。こうした制度を「檀家制度」あるいは「寺請制度」といいます。住居の移動、結婚、就職、旅行の際には檀那寺で発行する「証文」が必要でした。やがて、この制度は徳川幕府の維持には不可欠の制度となっていくのです。
(注5)神道の神に授けられた位階のことです。正一位、従一位、正二位、従二位、正三位、従三位、正四位上、正四位下、従四位上、従四位下、正五位上、正五位下、従五位上、従五位下、正六位の15位階があります。
(注6)八口とは荒沢口(羽黒口)、七五三口(注連口)、大網口、岩根沢口、肘折口、大井沢口、本道寺口、川代口をいい、七五三口(注連口)と大網口は同じ大網にあったので、これを一口として七方としました。
(注7)社格は「官社」と「民社」に区分されます。「官社」には宮内省から幣帛(神への供え物)を捧げられた神社である「官幣社」があって、官幣大社、官幣中社、官幣小社、別格官幣社がありました。更に国庫から幣帛が供進された神社である「国幣社」があって、国幣大社、国幣中社、国幣小社がありました。この官社の序列は、官幣大社・国幣大社・官幣中社・国幣中社・官幣小社・国幣小社・別格官幣社の順です。「民社」には府県社、郷社、村社があります。
(注8)修験道は、山へ籠って厳しい修業を行うことにより、様々な「験(呪術的力)を得ることを目的とする日本古来の山岳宗教が本地垂迹説により仏教と融合したもので、寧ろ仏教の方が日本化したと云うべきものです。そして、修験道の実践者を修験者又は山伏といいます。江戸幕府は修験道(山伏)の活動を統制下に置くために、すべての山伏を本山派(天台系)か当山派(真言系)に所属させるとともに、山伏の遊行を禁止したため、町や村に定住して「里山伏」になりました。更に、1972(明治5)年9月15日、「太政官は修験道廃止令」によって全国の修験宗を廃止して、本山派、当山派の修験者はそれぞれ天台、真言両宗に所属させられました。中には神職に転じた人もおり、また、帰農した者もおりました。
(注9)北之院、聖之院、経堂院を合わせて荒沢寺とします。1945(昭和20)年まで天台宗の比叡山延暦寺の末寺となりますが、翌1946(昭和21)年、独立して羽黒修験本宗の本山となります。

2011年1月9日