鶴岡あれこれ〜

66回(昭和34年卒) 加賀山隆士
 
鶴岡あれこれ〜
◆三方国替え
 天保十一年(1840年)の十一月に庄内藩酒井家に突然、国替えの命が下った。長岡藩七万石への転封である。表高、約十四万石の庄内から、半分の長岡に移れという幕府の命令に困惑する庄内の人々の様子や、その後に起こる転封阻止運動を描いたのが「義民が駆ける」である。
 さて、庄内の人々はこの幕命をどんなふうに受け止めたのか。酒井家が長岡に移ったあとには川越から松平家が庄内に来ると聞いた領民は衝撃を受ける。村役人や地主、商人たちを中心に「借金まみれといわれる川越の殿様がきたら、根こそぎとられるぞ」というショックが走った。農民だけではなく、寺社の代表も次々と各地で嘆願を繰り返し、庄内の地元では、各地で一斉に大集会を持ち【百姓たりといえども二君に仕えず】とか【何卒居成大明神】といった幟旗を立ててデモンストレーションをした。
 庄内藩では、家老、松平甚三郎が提案した[累代藩主家の墓地下賜願い]江戸では佐藤藤佐達の運動、幕府方の当番南町奉行の矢部駿河守の裁定により現状のままの状態で問題の解決をみたのでした。
 その時の功労者を讃え、感謝し、次代にも伝えようと毎年7月16日に遊佐町の玉龍寺では「載邦碑祭」別名「文隣祭」がいまでも営まれております。
 時の藩主は十代忠器公であり、今日の十八代目は酒井忠久氏で昭和40年卒(72回)の鶴翔同窓会の会友である。これも歴史の綾とするところです。
◆藩校致道館
 庄内藩の名君九代酒井忠徳公が設立した文武両道の藩の学問所で現存する、講堂、聖廟などが国の指定史跡として現在、公開されています。文化二年(1805年)重臣・白井矢太夫に下問、藩校の名称「致道館」は、論語の「君子学ンデ以テ其ノ道ヲ致ス」からとったもので、校長にあたる【祭酒】には白井自ら就任した。古学の立場に立つ徂徠学を採用、藩校のバックボーンに据えた。
 当初は日吉町の明治安田生命鶴岡支社の所にあり、開校より11年後の文化十三年(1816年)には施設全体が鶴ケ岡城三の丸があった現在の場所に移されました。教科書として使われたのは、論語・史記・また漢書から戦国策・荘子・孟子・唐詩選まで多彩でした。場所は鶴岡市役所と道を隔てて町の中心部に位置しています。鶴岡の教育の拠り所となればと思います。人材こそ宝です。
◆蝉しぐれ
 主人公牧文四郎の父が切腹した龍興寺のモデルとされた鶴岡市泉町真言宗龍覚寺は元々は羽黒山の祈祷所で慶長十七年(1612年)現在地に庄内藩主酒井家の鬼門封じの寺院として移転しました。不動明王三尊や大日如来、勢至菩薩など多くのの仏像を保持し、庄内三十三観音霊場第二十八番札所となっております。
 五間川が内川で、杉の森御殿が松原御殿で、箕浦の湯宿は湯の浜温泉ではなかろうか。こどもの頃、龍覚寺の桜の古木には蝉が何百と鳴ききそっていた記憶があります。
 龍覚寺の境内で生を受け、幼年期を過ごし先祖の菩提寺として毎年供養に訪れるたびに小説のそこかしこに思い出と結びつけて居ります。
 藤沢先生の最終章が書きなおされたと聞くに及び二人の思いをより痛切な形で伝えようとした作者に鶴岡人のルーツを見る思いがします。
2011年01月16日