出羽三山における神仏分離(二の2―@)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●出羽三山における神仏分離(二の2−@)
◆私が2009年11月4日付及び11月20日付で"「ワッパ騒動」と「地租改正」について(1)・(2)を"投稿したことが縁でメールを交換させていただいている先輩の現ワッパ騒動義民顕彰会事務局長の星野正紘さん(61回、昭和29年卒、)から、『出羽三山の神仏分離を語るには、羽黒出身の後藤赳司さんの著した「出羽三山の神仏分離」(岩田書院)」は必読の書である』とのご指導をいただきました。そこで遅まきながらこの本を参考書に加えるとともに、出羽三山の丑歳御縁年(平成21年)を記念して出羽三山神社が発刊された初代出羽三山神社宮司西川須賀雄の日記・「ゆくてのすさび(遊久天乃須佐備)」にも一通り目を通すことにしました。なお、「ゆくてのすさび(遊久天乃須佐備)」という日記のタイトルは古事記か日本書記に関わる言葉かと思い、「いでは文化記念会館」に照会したところ、「すさび」というのは、「心の赴くままに物事をすること」、「事の成り行きに任せること」というような意味があり、タイトルの意味は「つれづれなるままにこの日記を書きました」というような意味である旨の回答をいただいたところです。また、去る1月25日に山形県立博物館で出羽三山の神仏分離について研究をされておる山形大学農学部の岩鼻通明教授にお会いし、「絵図に見る出羽三山の神仏分離」(平成15年3月1日、山形市郷土研究協議会「研究資料集第25号」抜粋)を頂戴しました。この1879(明治12)年に描かれた「三山総絵図」には、鶴ケ岡城の姿は既に無く、代って朝暘学校が描かれ、特に仏教寺院として残存した堂舎等の地名は意図的に省略された形跡が明らかであり、この絵図が旧来の出羽三山信仰の枠組みを全否定し、新たな宗教政策のもとに作成されたものであることを知ることが出来ました。
◆ところで、前回(二の1)で述べましたように西川宮司は「照見大菩薩」の宣下状の返上(注1)や徹底的な廃仏毀釈を実行したのですが、このような情勢下、手向修験等は別当復活の計画を立てます(「出羽三山史・第八編(明治時代)・二」)。当時、本道寺口は道者の増加を見たものの、岩根沢口(注)は著しく道者の数が減ったとして別当復活を計画する手向修験等に加担し、自分たちは慶応年間、日光山に居たとき岩根沢に客分として滞留した縁がある岩手県平泉中尊寺(天台宗)の住職三依霊源(さんえ れいげん)を招き、山形県に運動請願して、岩根沢に中尊寺別院を置くことの認可を得ました。そこで、手向でも霊源を迎え、かつての羽黒山の総称としての「羽黒寂光寺」の復活を計画しました。「出羽三山の神仏分離」によれば、西川宮司は、1874(明治7)年7月、岩根沢でこの三依霊源と初対面したそうですが、激しい敵意を示したそうです。三依の出現も西川宮司が「照見菩薩」の宣下状の返上の意思を強くした一因であったようです。
(注)天宥別当の時代に羽黒山が真言宗から天台宗に改宗した際、日月寺(にちがつじ)も天宥の出身であるところから同時に天台宗に改宗しています。
◆1874(明治7)年7月30日に西川宮司が教部省宛てに送った書状には『羽黒山は容易ならぬ場所であり、恐らくは日本一の仏の巣窟であり、修験の連中も強情である』というようなことを書いたそうですが、一方、西川宮司は、1875(明治8)年7月、手向修験等の抵抗に遭いながらも蜂子神社を中心にした出羽神社の付属講社として「赤心報国教会」を設立し、そのもとへ修験を再編しようとしました。修験道の重要行事である峰中もこの赤心報国教会の練成行事として行い、西川宮司自身が講長となり大先達を勤め、分離以来黄金堂で行っていた冬峰の験競べ(けんくらべ=松例祭)も神道式に改め再興しようとしました。このことは神道によって新たな組織を育て上げ、修験等を赤心報国教会の事業に当たらせ、この中で国教である神式の作法を形の上からも植え付けようとしたものです。しかし、このような羽黒の神道化の動きに対して羽黒修験等の多くは、これを拒否して「手向村慣例保統規約」をつくり、檀那場(霞)などについて旧慣を保持し、これに違反した者には村八分の制裁を行うことを決めました。手向村の修験の約60戸のうち、神葬祭に転じた者は60戸ほどであったということですが、赤心報国教会に加わった者とそうでない者との間では、行場を争うような状態が後年まで続いたといわれています(「庄内平野と出羽三山の旅」)。この赤心報国教会は後に「三山敬愛教会」となり、神道本局の所属教会となりました。この赤心報国教会設立計画の最中三依霊源が亡くなり、手向修験等の別当復活計画も頓挫することになり、さらに、修験者の財源となっていた三山の御札を売る権利を神社に独占されたことが大きく響き、ことごとく西川の傘下に加入することになり、ここに僧侶、修験300余人は遂に神社の祝(はふり)(注2)となりました(「出羽三山史・第八編(明治時代)・二」)。
◆修験者(山伏)は江戸時代にも統制を受けており、全ての修験者(山伏)は、「天台系で京都の聖護院を本山とし、熊野一帯を修験霊場にする」本山派、「真言系で京都の醍醐寺三宝院を本寺とし、吉野の金峰山,大峰山を修業道場とする」当山派に所属させられて、幕府の統制下に置かれたのです。また、修験者(山伏)の遊行をも禁止されます。そこで、修験者(山伏)達の多くは、妻帯するなどして町や村に定住して「里山伏」となり、庶民の現世利益的な要望に応えて加持祈祷をし、活発な呪術的宗教活動を行いました。そして、今度は明治政府が1872(明治5)年に「修験道廃止令」を発し、修験道は廃止させられることになったのです。そこで、本山派及び当山派の修験者達はそれぞれ天台宗、真言宗のいずれかに所属して残るか、廃業するか、はたまた就農するか等の選択に迫られたのです。羽黒山の神仏分離の際に寺院として生きることになる北之院、経堂院、聖之院の三ケ院は、合わせて「荒沢寺(こうたくじ)」となるのですが、1945(昭和20)年まで天台宗の延暦寺の末寺となり、本山派、当山派のいずれにも属さない「羽黒山修験本宗」としての創立」(注3)を見るのは、終戦後、GHQ(連合国最高司令官総司令部)のいわゆる「神道指令」(注)によって「国家神道」廃止が打ち出され、神社勢力の後退などがあってからのことです。
(注)1945(昭和20)年12月15日、信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃し政教分離を果たすためにGHQから政府に出された覚書のことです。
 今日、この羽黒修厳本宗と出羽三山神社との対立が無くなったわけではありません。例えば、処国山伏出世の「秋峯峰入り修業」も羽黒山修験本宗の本山「荒沢寺」で行われる仏式のものと、吹越の「峯中籠堂」での神道式のものとに分かれて行われていますし、もともと羽黒修験の「冬峰修行」に当たる「松聖行事」も出羽神社の行事として 100日間参籠2人の山伏の内どちらが神意に適ったかを競い合う経競ベが中心の祭りである「松例祭」として行われており、形式化して本来の形を失っているといわれています(「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山」)。
◆ところで、羽黒山、月山、湯殿山の三山は、もともと真言宗の山でしたが、江戸の初期、羽黒中興の祖といわれる別当天宥が徳川将軍家の庇護をうけるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかり、羽黒山、月山は天台宗に改宗しました。これに湯殿山は反発して改宗せず、以後羽黒山と注連寺、大日坊、本道寺、大日寺(大井沢)のいわゆる湯殿山別当四ケ寺との対立が深刻化するのですが、1665(寛文5)年、再度湯殿山を天台宗に改宗し統合すべく羽黒側の天宥が幕府に提訴を行います。しかし、湯殿山を天台宗とすべき証拠の提出を幕府からもとめられた羽黒側の根拠が明瞭でなく、翌年3月26日の幕府の裁断によって湯殿山は真言宗であると言い渡され、羽黒山と湯殿山とは明確に分離されたのです。従って、1869(明治2)年の酒田民政局からの神仏分離の諭達の際も、真言四ケ寺では、『湯殿山の開基は弘法大師で、四ケ寺で別当を勤めてきたものであり、よって神仏を混淆していないので、御布令には抵触しない』と主張し、1870(明治3)年3月には、注連寺、大日坊名代大泉寺から1869(明治2)9月29日に鶴岡藩を改名した大泉藩に願書を出して政府にその旨申達してほしいと願い出たため、大泉藩は3月28日付で神祗官(注)に願書を申達しました。一方、本道寺、大日寺も同様の主旨の書面をもって代表が3月22日に神祗官に出向きました。しかし、神祗官は3月24日付けを以て『湯殿山はもともと神の山である』との指令を発して伺いを却下しました。
(注)1871(明治4)年に太政官の支配下としての神祇省になります。更に、神祇省が1872(明治5)年に教部省に改編されます。この教部省も1877(明治10)年に廃止となり、その事務は1873(明治6)年設置の内務省に引き継がれました。
◆これに対して注連寺、大日坊からは再度大泉藩に対して『湯殿山は古来仏山であって神山ではない』旨の伺書が出され、大泉藩はこれを3月28日に太政官の事務局へ差し出しており、本道寺も大日寺も酒田県(東京庁舎)へ同様の手続きを取っています。これについては、神祗官と太政官との間で協議がなされましたが、1871(明治4)年6月22日に神祗省から太政官に対して次のような要旨の調書が出され、これをもって湯殿山は「神山」に決し、大泉藩としてもこれに服するしかありませんでした。
 すなわち、『羽黒・月山では湯殿山と三山一体といい、三所権現と相唱え、本国近国の参詣の道者、行人の作法でも同様に唱えている。このことは古代よりの伝修であって湯殿山が独立の仏地とは言い難い。国誌、奥羽観迹聞老志、出羽国風土記等で祭神大山祇命(おおやまずみのかみ)とし、本地仏を大日如来としており、その他先達、行人の白衣の法衣を注連と名付け、神呪(しんじゅ:呪文のことです。)を唱え、この形装で温泉湧出の御宝前(神仏の御前あるいは賽銭箱のあるあたりのことをいいます。)をはじめ拝所では幣帛(へいはく:神前に奉献するものの総称のことです。)を供え大梵天(仏法の守護神のことです。)と唱えるときも幣帛を用いている。加えて当山第一の別当寺は注連寺であり、只一つの仏地において注連(しめ飾り)を寺號としている。』等々と『湯殿山は古来仏山であって神山ではない』とする四ケ寺の主張を否定したのです。
 結局神祗官は、無理な論理は承知の上で『湯殿山が仏道を以て保護してきたのは中世以来であって、往古から神地であったことは間違いない。よって、復飾して神に仕えるようにせよ』としたのです。1873(明治6)年6月12日、教部省は湯殿山を『湯殿山神社と称し、祭神を大山祗神と定め、仏像仏具を除き、神式をもって奉仕すべきである。ただし、社僧の復飾は任意である。』と大泉藩に代わる酒田県(第二次)に通達したのです。
 このことを受け、1873(明治6年)12月9日、西川宮司は、『三山は一体の山であり、今後とも羽黒山が湯殿山神社を管轄してよろしいか』と教部省に願い出るとともに、同日付で酒田県参事松平親懐(まつだいら ちかひろ、通り名は権十郎)宛てには『教部省に建議したのでよろしくお願いしたい』旨の願書を提出しています。教部省はこの事を酒田県(第二次)に照会しますが、これを受けた酒田県大参事松平親懐は『地元の意見を聞かずに直接本庁に出願したことはけしからん。』と憤慨した為、結果この案件は不認可となりました。つまり、当時の酒田県は湯殿山別祭の意向が強固であったのです。そこで、西川宮司は酒田県との軋轢を避けつつ、後日湯殿山を同列の社格となることを回避し、最終目標である湯殿山を合併して出羽三山一体化への布石として月山神社の社格昇進を酒田県でも反対しないと考えられる大物忌神社の社格問題と同時並行的に進めようと考えました。「出羽三山の神仏分離」によれば当時の社格は「中社」が最上のものであったようです。
 教部省は湯殿山を「県社」とする考えで、酒田県の意見を聞くのですが、酒田県は「湯殿山神社は出羽神社、月山神社、大物忌神社より高位であり、せめて「中社」にすべきである」旨回答します。
◆ところが湯殿山神社の社格については翌年になっても音沙汰がないため、むしろ同1874(明治7)年2月22日に酒田県は湯殿山が「県社」になるとの噂を聞いて、『予てから主張していたとおり国幣中社とするように、もしこれ以下であったら従前の通り仏道修行の霊場とするよう』に教部省に陳言しました。そして、3月7日には社格申請の書類を教部省に差し出して社格指令を促したのです。その結果、教部省は5月3日、月山神社を国幣中社、湯殿山神社を国幣小社に列し、出羽神社と月山神社と湯殿山神社の三社を合せて一社とし、その経費を定めるよう太政官に依頼します。その後、教部省と太政官との間では文書による照会、回答が数多く交わされたようですが、教部省の太政官への1874(明治7)年5月29日の回答は、『・・・湯殿山は太古より神山であって大山祇命が鎮座する霊場であり、温湯の奇験(神仏などの不思議なしるしのことです。)もあって、また大己貴命(おおなむちのみこと)をも合祭れる神社である。後世僧徒修験等の恣に、種々の附会説を取唱えて羽黒・月山・湯殿を併せて三社権現等と申し、遂に神地を仏場とした事は自明である。』というものでした。
◆「出羽三山の神仏分離」において後藤赳司さんは、『真言四ケ寺は、宗教的な基本的信仰の見地から、湯殿山は弘法大師(空海)開基説といい、羽黒山・月山とは全くの別山との主張を全面に押し出し、それゆえに神仏混淆の山ではなかったと理論的に論破せしめることとしていたのであり、さらに神祇官の神仏判然するための論拠である権現に対しても、湯殿山権現と唱えているのは、金胎両部大日如来の応化権現の意であるとするのは当然の帰結であった。だから、湯殿山自体は、神山でなく真に仏山である証左を主張するのである。』と述べられております。つまり、四ケ寺が『仏法一遍の山大日如来応化権現(おうけごんげん)唱云々』と主張したのですが、このことについて私は次の様に理解しています。すなわち、弘法大師が述べるところによれば、大日如来は宇宙の真理を表わすものとされ、又、宇宙そのものであるとしています。そして、仏そのものである大日如来は悟りを求めるとともに世の人々を救おうとする心(菩提心)が一切を包み育成するものであり(胎蔵界)、また、一切のものは大日如来の何物にも侵されない堅固な智の顕現である(金剛界)としています。この「胎蔵界」と「金剛界」の二つを「金胎両部」といい、また、大日如来は世の人々を救うために相手の性質・力量に応じて姿を変えて現れるとしています。これが、「応化権現」であって、決して本地垂迹説による「権現」の意味ではないとの主張を四ケ寺並びに酒田県は国に対して主張したのです。
 教部省のいう「神仏判然の権現の意味」については、次の様な役所同士のやり取りがありました。すなわち、神仏分離に関して太政官は、1870(明治3)年6月29日に『修験は全て仏徒である』としていました。これに対して、神祇官の方では同年11月30日に『権現号があれば全て神山となす』との見解を太政官の事務局(弁官)に送付しています。そのため太政官からは『これでは国の考え方に違いが生じて整合性を欠くのではないか』との反論がなされ、結局、神祇官としては、『権現号があることから神山としたのであって、社殿内の仏像等を取り除けば神仏混淆ではない』との苦しい判断で申し切ったのです。従って、1874明治7年8月31日に太政官が湯殿山を神山と裁断したにもかかわらず、酒田県はこの裁決に納得がいかず教部省に幾度となく願書を提出したそうです(「出羽三山の神仏分離」)。
◆前述のように太政大臣(注4)は、月山神社を国幣中社、湯殿山神社を国幣小社に列し、出羽神社(国幣小社)と三社合併するように、また経費も一つにする旨の指令を発しました。なお、月山神社は1885(明治18)年4月22日に官幣中社に昇格します。これにより西川宮司が意図したとおり湯殿山に関する案件は一切解決したのですが、真言四ケ寺は湯殿山と縁を断たねばならなくなりました。古来湯殿山を本尊として多数の信者を吸収してきた四ケ寺は本尊を奪い取られて死活問題に直面します。ここにおいて本道寺(現口之宮湯殿山神社)、大日寺(現大日寺跡湯殿山神社)の僧徒はしかたなく1875(明治7)年、寺号を返上し、社僧は復飾して翌1876(明治8)年、神社として出羽神社宮司の支配するところとなりましたが、注連寺と大日坊はあくまで復飾を拒み、真言二寺として現在に至っているのです。
 月山権現については、岩根沢に天台宗の別当日月寺を初めとする4ケ院28坊があり、ここでも、前述の通り別当復活を計画する手向修験に加担し、岩根沢に中尊寺別院を置くことの認可を山形県から得ていましたが、結果的には、神仏分離令に対して、別当、社僧、修験が帰順神勤務の願いを出し、仏教を捨てて神官になりました。この別当日月寺は、今日「岩根沢三山神社」として現存しますが、旧日月寺本堂の建築様式は、神仏混合形式をとっており、歴史的、文化的、建築的にも重要とされ国重要文化財に指定されています。
◆出羽神社、月山神社、湯殿山神社の三社が合併したところから、出羽神社西川須賀雄は初代出羽三山神社宮司となり、岩根沢の中尊寺別院計画も自ら撤廃し、肘折、岩根沢、本道寺、大井沢、田麦俣の各5口に「出張所」(注5)を設け、各郡長を置きました。これも神道による新たな組織によって国教である神式の作法を形の上からも植え付けるものでした。そして真言、天台宗時代に三山各所で唱えた「南無帰命頂禮懺悔々々六根罪障云々(なむきみょうちょうらい ざんげざんげろっこんざいしょううんぬん)」の呪文は、「諸ノ罪穢レヲ祓身禊キテスガスガス云々(もろもろのつみけがれをはらいみそぎてすがすかし云々)の「三語」と「綾ニ綾ニ奇シク尊ト月山神ノ御前ヲ拝ミ奉ル云々(あやにあやにくすしくとうとつきのみやまのかみのみまえをおろがみまつる云々)の「三山拝詞」に改めたのです。
◆西川宮司は1876(明治9)年3月26日付をもって出羽三山を立ち去り、千葉県の安房神宮宮司に転任し、同年5月26日から鶴岡出身の星川清晃が二代目三山宮司となります。星川宮司は、1877(明治10)年8月に、1872(明治5)年の太政官布告第98号による「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣随意とす」との布達に基づき月山、湯殿山の女人禁制(注6)を解いたのですが、同年秋、閉山後の月山神社が不審火により炎上したため、その責任をとって、翌1878(明治11)年12月請願辞職しています(「詩人・医師星川清躬の生涯」(阿部太一、やまがたの文学の流れを探るW・黎明期の詩人、昭和55年10月4日、山形県教育委員会)。
 奈良の吉野の大峰山は現在でも女人禁制だそうですが、明治の初期に女人禁制を解くことについては相当の抵抗があったものと思われます。
◆1879(明治12)年2月29日には内務省の物集高見(もずめ たかみ)が第三代宮司となります。この頃山内には仏式の仏堂で神社になっているものが沢山ありましたが、物集宮司はこれらの建物の破毀を中止して保存することにしました。また、1882(明治15)年には「出張所」を廃止し、さらに、衆徒の「檀那場」(注7))については、1881(明治14)年10月、三山神社より改めて檀那場知行状を授与するという形をとりました。このことは、「出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)・葉山」は、神社に宿泊地がなく、道者が父祖代々馴染んできた旧修験の宿坊に泊まることを禁じ得なかったこと、地方に神社の職員を派遣しても相手にされなかったこと、西川宮司自身が出張しても効果が上がらなかったことなどが檀那場存続許可の原因であったとのべています。
◆1883(明治16)年、物集宮司に代わって波多野春万侶が第四代宮司に任命され6年間在籍します。1884(明治17)年、内務省は『三山登山においては、先達がなくとも自由に登山することを許す』旨布達していますが、これまでは、1880(明治13)年4月19日に三山敬愛教会が県当局の許可を得て「三山参詣人保護印鑑」を発行していました。これは神社サイドが参詣人を占有する目的で行ったもので、参詣人は参詣前に本社あるいは主張所又は小月山・仙人沢・装束場にあった「印鑑改所」において住所や氏名、その員数を記入し、割印を施した印鑑の交付を受け、これを先導者(先達)に預けるものです。巡拝中に各所で改められました。吹雪や風の強い時などは、印鑑を発符しない規則でしたから遭難防止の対策も講じられていたものです(「西川町石碑石仏資料・三山敬愛教会碑」)。なお、私が所有する1889(明治22)年3月1日付三山神社社務所出版の「三山案内」には、まだ、肘折・岩根沢・本導寺・大井沢・田麦俣の各口出張所、小月山・仙人沢・装束場の各印鑑改所、三山参詣人心得が印刷されており前述の内容を裏付けています。
◆この神仏分離の嵐は、三山以外の県内数百の神社、寺院の全てに及んだのですが、例えば、山形市地蔵町一帯に壮大な堂宇を構えていた真言宗の「宝幢寺(ほうとうじ)」は、寺領1300石余を有する内陸では1,2を争う名門でしたが、神仏分離に加えて1871(明治4)年の上知令によってその境内を除いて全部の所有地を失ったため」(注)、一切国家の管掌より除外され、専ら信者の浄財によって経営を維持していかなければならず、信徒の少ない真言系寺院は、大打撃を受けて廃寺となり、時の住職浄珊(じょうさん)は、一夜にして「天童愛宕神社」の一社人(神社に仕えて末端の社務に従事する人のことです。)になり下がってしまったということです(山形百年)。
(注)明治政府の上知令は1871(明治4)年と1875(明治8)年の2回出され、江戸時代に認められていた寺社領を政府が没収しました。これにより、境内地のみの所有しか認めず、例外として、社寺が直作している土地や小作に出している土地で、年貢や諸役を農民と同じように支払えば認めるという厳しいものでした。羽黒山も幕末までは徳川幕府から羽黒修験の総本山として認められ、1500石余りの寺領を朱印地として与えられていましが、これにより経済的には大打撃を受けました。
 宝幢寺の本堂は、国分寺薬師堂が1911(明治44)年5月の市の北部火災で類焼したため、その跡に金堂として移築されるのですが、県議事堂が出来る前、1879(明治12)年3月1日に開催された第1回公選県議会の議場として使用されました。なお、宝幢寺跡地の書院と池泉回遊式庭園は、当時の面影を今に残して「もみじ公園」(山形市東原町)となり現在は市民に広く開放されています。
(注1)そもそも羽黒大権現を中心とした三所権現の開祖は、崇徳天皇皇子・蜂子皇子であることを強く主張したのは、第50代別当天宥でした。その後1813(文化10)年日光山医王院から荘厳院権僧正・覚諄が羽黒山執行・別当に着任し、1823(文政6)年、覚諄は蜂子皇子に対する「照見大菩薩」号及び「出羽神社正一位」の神階の宣下を賜るのです。神仏分離の際にはこれらの事実が神仏混淆の最大の理由とみなされ、羽黒権現の命に止めを刺す一因となりました。
(注2)神社に属して神に仕える職の一種で、普通は神主、禰宜より下級の神職をいいます。
(注3)1946(昭和21)年に独立して羽黒山修験本宗の本山となりました。本尊は大日如来、阿弥陀如来、観音菩薩です。手向の正善院が本坊です。
(注4) 明治期において天皇を補佐する政府の最高機関が太政官で太政大臣はその長です。太政官は1885(明治18)年12月に廃止となり、1200年以上にわたった歴史にその終わりを告げました。
(注5)1888(明治21)年出版の「三山案内」(図)にも見られますが、参詣人は巡拝前にここで印鑑を請求し且祓いの式を受けなければなりませんでした。これは神社としてのチェック機能を果たすと同時に遭難防止の対策でもあったようです。
(注6)1872(明治5)年3月27日太政官布告98号で「神社仏閣女人結界の場所を廃し登山参詣随意とする」としましたが、大峰山のように今もって全てに実現していません。なお、この場合の「結界」は、聖なる領域(例えば修業の場所)と俗なる領域とを分け、秩序を維持するために区域を限ることで、本来は仏教用語ですが、神道における神社などにも同様の概念があります。つまり、「女人結界」は聖なる場所として女性が入れない領域のことをいいます。
(注7)修験道の伝統を持つ山で、信仰伝播の地盤確保のために信徒を組織化した地域的縄張りをいいます。「霞」ともいいます。

2011年1月30日