出羽三山における神仏分離(二の2−A)

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
●出羽三山における神仏分離(二の2−A)
◆最後に絵図についてのまとめとこれを描いた星川清晃宮司について述べることにします。
 羽黒山における廃寺の動きは1874(明治7)年前後といわれておりますが絵図から見て幾つかの建物はまだ残存しておったものと推定されます。
 星川清晃宮司が着任したのは1876(明治9)年5月26日ですが、この頃はまだ一般の人々にとって神仏を分け放つことは容易でなかったようで、「出羽三山の神仏分離」によれば、同年1月13日付で鶴岡県令三島通庸代理鶴岡県七等出仕吉田清英名により各区・区長・戸長宛てに「仏像を神体とすることを禁ずる布達乙第2号」が発せられています。その内容を現代表記にしますと、『・・・神仏混淆は明治元辰年の公布を以て廃止になったので、諸神社においては仏像仏具等を置いてはいないと思われるが、現在も旧習を廃し出来ず仏像をもって神体にし、或いは神社境内に仏堂及び梵鐘等を置き、勝手に境界を立て、又は梵字仏名等を刻んだ石碑を建て置くものが往々にして見受けられる。これらは不都合なことであるから右等の類は速やかに取り除きなさい。』というものでした。翌1877(明治10)年には、その年の閉山後に月山神社が不審火で炎上し、この責任を取って星川宮司が翌1878(明治11)年12月に宮司職を請願辞職したことからみても出羽三山における神仏分離騒動の余波は依然残っていたものと推察されます。
◆「出羽三山の神仏分離」には、『羽黒権現最後の別当官田が一山会議を開いた結果、山上の能林院、積善院、荒沢の荒沢寺、手向の金剛樹院の四坊を除き寺院は全て廃寺と決めたものの、@開山堂、鐘楼、五重塔は仏堂として残し、その境内は仏地として残すこと、A南谷、吹越も仏地とすること、B本社の本尊その他の仏像・仏具は前述の各院に移転すること、C復飾神勤する者の住坊等はその者の所有とすること、D檀那場等は従来通りの所有者のものとすること、E本坊(宝前院)を神務所(社務所)に改名し従来通り山務を取り扱うこと、F月山の御峰に小さい祠を設け本尊を安置し、仏地とすること等を議決した。』と書いてあります。さらに、初代の西川須賀雄宮司の時代の1874(明治7)年に、西川宮司着任以前に天台宗に帰入していた手向修験の代表から『@手向の「正善院黄金堂」、A祓川の「五重塔」、B南谷の「玄陽院」(本坊の別院)C吹越の「開山堂」をそれぞれ仏地として残してほしい』等の嘆願書が酒田県に出されており、これを受けた県からこれに対する回答を出頭のうえ求められた西川宮司は、1874(明治7)年8月12日付で代理を使わし『黄金堂と荒沢は仏地としても異存ない。吹越は元照見大菩薩を神号に改正しているので当然神地である。五重塔は参道の傍にある建物であり、南谷は社務所と本社の中間にあるので、神仏分離の趣旨に反するから、羽黒山山内は全て神地でなければならない。』と回答しています。なお、「出羽三山史・第八編(明治時代)・二 神仏分離と三山神社」は、『五重塔は寺院として他に移転することになっていたものの経費、移転場所のことなどで逡巡しているうちに神地となった。』と述べております。
 1689(元禄2)年6月3日(1689年7月19日)に松尾芭蕉は羽黒山を訪ねました。この頃は南谷にあった「紫苑寺」はすでに無くなっており、代わりに山頂から移築された「玄陽院」が「宝前院」の別院としてあって、宿泊施設としての機能を果たしており、芭蕉はここに延べ6日間滞在します。
◆結局、羽黒山において仏地として残すことを希望した寺院塔舎については「随神門」から山上までの施設は全て神社有地となりました。この随神門は仁王門が神社施設に転用されたもので、随身像がまつられていて、ここからが神域となります。
 「五重塔」は観音菩薩像、軍莉明王(ぐんだりみょうおう)像、妙見菩薩像を廃棄して大国主命を祀って出羽三山神社ノ末社の「千憑社(せんりょうしゃ)」になり、松尾芭蕉が奥の細道紀行の折に滞在した南谷の「玄陽院」は取り壊しとなりました。なお、私見ですが極めて仏教的な建物である現国宝指定の五重塔が廃仏毀釈による解体を免れたのは、当時においてもその建築物としての価値というものを西川宮司始め多くの人々が認めていたからではないかと思います。また、吹越の「開山堂」は山上の開山堂同様「吹越神社」と改められることになり、一山会議で寺院として残すことに決めていた「能林院」と「積善院」も取り壊しになりました。つまり、仏地として残ることになったのは、当初の方針通り、手向の「金剛樹院」と現在国の重要文化財に指定されている「正善院黄金堂」、更に当初から仏地として残す方針だった羽黒山の奥の院で「常火堂」を管理していた荒沢の「北之院」、「経堂院」、「聖之院」を併せての「荒沢寺」だけでしたが、明治初頭に無住であった「北之院」、「経堂院」は火災により焼失しましたので、結局、「聖之院」だけが荒沢に残りました。しかし、この聖之院も西川宮司が羽黒を離れる1878(明治9)年の春に焼失し、仮本堂が再建されたのは1885(明治18)年になってからだそうです(「絵図に見る出羽三山の神仏分離」)。なお、「荒沢寺」より先は、1877(明治10)年8月に星川宮司によって月山、湯殿山の女人禁制が解かれるまで「女人禁制」で、境内には今でもこの旨を記した石塔が残っています。
◆絵図に描かれている通りこの時点での社務所(神務所)は、1665(寛文5)年、羽黒山の中興の祖と言われた天宥によって建造され、羽黒山の執行寺であった「宝前院」にありました。この建物は後に書院の一部を麓に移し社務所とし、寺院は取り壊しになります。移転した書院も1923(大正12)年に火災で焼失したということです。同様に南谷の玄陽院も描かれていますので、これらの建物の取り壊しは1866(明治9)年以降であったものと思われます。
◆次に絵図で興味を引くのは凡例の表記です。すなわち、神地に係る部分は、公的機関や上位者などに対して、自分の意見や希望を強く主張する、あるいは、特に取り上げて強く言う表現としての『申立置候場所』の表現を、また、ある広がりを持った土地あるいは神を祀る場所の意を持つ「場所」という文字を用いています。一方、仏地に関わるものは、動詞の連用形や動作性の体言の上に「御」あるいは「お」を付けて動作の対象に対する敬意を表す『御届申上置候地』という表現にし、また、特定の場所を示す「地」という文字を用いています。当時における当地の情勢をよく示していると思われます。
◆星川宮司は着任した際、以上の結果を自分自身が確認するとともにこのことを広く一般に知らしめるために、特に羽黒山を中心にした状況を描くとともに、三山全体の様子を付けくわえて描いたものではないかと思っております。
 なお、星野正紘さんのお話によれば、黄金堂周辺のことを地元では「堂庭(どにわ)」と呼び、かつては数多くの堂がありましたが、ここでも月山堂、観音堂、地蔵堂など多くの建物が破壊されてしまったということです。当時の情勢が許さなかったことと思われますが、神仏分離によって羽黒山上、山麓のこれら数多くの建物や仏像あるいは経典などが破壊あるいは破毀されることなく今日まで保存されていたならば、文化遺産として、又観光の面でも脚光を浴びたであろうと思われ、誠につくずく残念なことをしたものだと思います。
◆維新政府の打ち出した「神仏分離令」という未曽有の大嵐は、1869(明治2)年5月4日に羽黒山に上陸して以来、5年の長きにわたり三山に吹き荒れ、最終的には初代宮司として当地に乗り込んだ西川須賀雄の思惑通りにそれぞれのお山を神山に替えてしまいました。「羽黒大権現」は、1869(明治2)年5月4日の酒田県からの神仏混淆禁止の伝達を受けて「羽黒神社」と改められ、1873(明治6)年3月には更に「出羽神社」と改名して国幣小社に列せられたのを手始めに、翌1874(明治7)年8月31日には、太政大臣の強権によって「月山権現」が「月山神社」として国幣中社に、「湯殿山権現」が「湯殿山神社」として国幣小社に列せられ、同時に「出羽神社」と三社合併し、「出羽三山神社」という一つの組織体にまとめ上げられ、ここに西川須賀雄は初代出羽三山宮司となったのです。なお、1888(明治21)年3月1日出版の「三山案内」(非売品)を見ると「官国幣三山神社社務所」とあり、1885(明治18)年4月22日に月山神社が官幣中社に昇格していることを示しています。さらに、月山神社は1914(大正3)年1月4日に官幣大社に昇格していて、明治の社格制度では東北地方唯一の官幣大社でした。また、今日我々は「出羽三山」という言い方をしていますが、この時点ではまだ「出羽」という文字は見受けられず、「三山」という表記だけになっています。
◆次に出羽三山神社二代目宮司・星川清晃について紹介します。なお、纏めに当たっては「新編庄内人名事典」(昭和61年11月27日、庄内人名事典刊行会)、「星川清躬(ほしかわ きよみ)全詩集」(佐藤朔太郎、昭和53年5月10日、さとう工房)、やまがた文学の流れを探る「詩人・医師・星川清躬」(阿部太一、昭和55年10月4日、山形県教育委員会)を参照するとともに私が一部言葉の意味、説明を追記し、文体を「です。ます。」調に揃えました。
 星川清晃は、1830(天保元)年2月18日に庄内藩給人星川清山(きよたか)の子として生まれました。1840(天保11)年に家督を継ぎ、禄八石二人扶持を給されて普請方となり、その書役、次いで小頭を勤めて2石を加増されました。鉄砲術を修め戊辰戦争では新式練兵の二番大隊に属し、上田伝十郎組の分隊長として新庄・秋田方面で転戦を重ね一石を増され、終戦後の1872(明治5)年には松ケ岡開墾に参加しました。若いころには狩野派の狩野了承の門人中村了斎に師事して絵を習い、1846(弘化3)年からは皇学を志して本居宣長(1873〜1801年)、平田篤胤(1776〜1843年)の学説を独学し、1847(弘化4)年には皇学者鈴木重胤(1812〜1863)の庄内来訪の機会を得てその門人になりました。また、志賀義貫(しがよしつら)より語学・韻学(注1)及び和歌を学び、後に国学の大家と称せられるようになりました。1874(明治7)年上京、同郷の照井長柄(てるいながら)、安濃固成(あのうこせい)と協力して重胤の「日本書記伝」を校合(きょうごう)(注2)、これを教部省(注3)に提出して権中講義に補されて教導職(注4)となりました。1876(明治9)年5月26日、出羽三山神社宮司を命ぜられて権大講義となりましたが、前述の通り、1877(明治10)年秋の月山閉山後から翌春の融雪期までの間に月山本社が不審火で炎上したため、1878(明治11)年12月に請願辞職しています。宮司在職中には、奈良春日神社から富田光美夫妻を招き、大和舞による神楽を整備し、1877(明治10)年8月には女人禁制を解いています。
 本居豊穎(もとおりとよかい)、物集高見(もずめたかみ)、副島種臣(そえじまたねおみ)等とも親交があったことは、医学修業のために上京中の長男清民への手紙からも読み取れます(「星川清躬全詩集」)。
 1882(明治15)年鶴岡神道事務局に勤務、1884(明治17)年教導職の廃止で権少教正に補され、権中教正を経て1894(明治27)年権大教正に補されました。絵をよくするとともに歌道にも通じて多くの門人を指導しました。1894(明治27)年11月11日に享年65歳で亡くなり、常念寺に埋葬されました。同寺境内の山門を入ってすぐの駐車場の東背後には1898(明治31)年、門人らによって頌徳碑(しょうとくひ)が建てられました。

(注1)漢字の音韻について研究する学問です。
(注2)二種類以上の写本・刊本等を比べ合わせて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすることです。
(注3)1872(明治5年3月14日に神祇省及び大蔵省戸籍寮社寺課を廃止し、「教義に関する一切の事務を統理する目的で設置された政府機関で、いわば「宗教省」ともいうべき機関です。政府はこの省のもとで「三条の教則」を定め、神官のみならず僧侶などを教導職に任命、また、神仏合同の教院を設けて、天皇思想を国民に広める一代教化運動を展開しました。しかし、欧米諸国の批判や、国内における思相家、仏教徒やキリスト教徒による信仰自由論により間もなく挫折し、1877(明治10)年1月11日に廃止され、宗教行政は内務省社寺局で扱うことになりました。5年間の短命な機関でした。なお、三条の教則とは、第1条 敬神愛国の旨を対すべし、第2条 天理人道を明らかにすべき事、第3条 皇上を奉戴し、朝旨を遵守せしむべき事の三条をいいます。
(注4)明治初期、教部省におかれた国民教化官で、その官位には大教正、中教正、少教正、大講義、中大講義、少講義、訓導等があり、それぞれ正と権がありました。

2011年2月4日