●「白甕社の創設」と「伯父星川清健(後の野坂是勇)」
《白虹社の創設について》
2011(平成23)年2月5日(土)から3月6日(日)までの間、鶴岡アートフォーラムにおいて「庄内の美術家たち」展のシリーズ第6回「白甕社の誕生」が開催されています。私も致道博物館学芸部長の酒井英一さん(78回、昭和46年卒)から開催通知を受けるとともに鑑賞についてのご配慮をいただき、去る2月25日からの鶴岡行きの機会を捕えてこの絵画展を鑑賞してきました。
今年で創立87周年を迎える「白甕社」は、創立以来一貫して地域に根差した美術活動に取り組み、多くの優れた美術家を輩出してきました。現在では庄内を代表する美術団体として、1954(昭和29年)には「鶴岡市制30周年文化功労賞」を、1994(平成6)年には酒田市の「庄内文化賞」をそれぞれ受賞しています。さらに、1960(昭和35)年には山形県の第6回「斎藤茂吉文化賞」を、1993(平成5)年には「山形県民芸術祭賞」をそれぞれ受賞し、1981(昭和56)年にはサントリー文化財団の「サントリー地域文化賞」を受賞して、今や全国的にも高い評価を受ける団体となっています。
今回の展覧会は、第1回展及び第2回展の出展者の作品に加えて初代及び2代目会長の作品とそれぞれの画業を紹介していました(氏名の敬称は省略します。)。出展数は、初代会長の新穂源次郎のものが1点、2代目会長の地主悌助のものが9点、生徒のものは、野坂是勇(旧姓星川清健)が6点、斎藤求が9点、武田儀助が6点、2回目から出展した生徒の作品として平田龍士が5点、同じく丸谷八郎が4点、合計43点の展示でした。 出展作品は、自画像、人物、花、果物などの静物、風景と多岐にわたり、大胆な構図、豊かな色彩、宗教的雰囲気を感じさせるものから石や紙などをモチーフ(主題)とするものまで印象的な作品が多かったように感じました。これらは大部分がキャンバスに油彩したもので、大きさも130.3×193.9センチメートルの大作から23.5×32.5センチメートルまでの作品まで様々でした。
また、今回の出展者は、中学卒業後、星川は川端画学校に、斎藤、武田の両名は東京美術学校(現東京芸術大学)に、平田は第二高等学校、東京大学文学部美術史科に進みましたが、残念ながら在学中に夭折しています。丸谷は大阪大学医学部に進学し、軍医として勤務した後帰郷し、地域医療に貢献しました。私の在学中、美術担当は斎藤 求先生でしたが、私は美術を選択しなかったので直接お話ししたことはありませんでした。
当時山形県立鶴岡中学校の4年生であった星川清健(私の母の兄で伯父に当たります。34回、大正15年卒)が、当時鶴岡に手薄だった洋画の研究と地方美術の振興を目的として、同志を糾合して「白虹社(はっこうしゃ)」を1924(大正13)年11月に創設したのが現在の「白甕社」の始まりです。太陽や月に薄い雲がかかった際にその周辺に光の輪が現れる大気光学現象のことを暈(かさ)といいますが、特に太陽の周囲に現れたものを日暈(ひがさ、にちうん)、月の周りに現れたものを月暈(つきがさ、げつうん)といい、虹のように見えることから白虹(はっこう、しろにじ)ともいい、会の名称はこれによったものです。
創立81周年「白甕社美術展・鶴岡アートフォーラム開館記念」(2005年、白甕社)によると、会創設の同志とは、星川清健、斎藤 求、榎本農夫吉、武田儀助、酒井吉之助、佐藤豊太郎、鶴岡工業学校在校生山村義雄等で、鶴岡中学校図画教師・新穂源次郎の賛同を得るとともに新保を会長に戴き、鶴岡公園の「大宝館」において第1回展を開催しています。第1回の展覧会への出展者は、星川清健、斎藤 求、榎本農夫吉、武田儀助、酒井吉之助、佐藤豊太郎、富樫精一、それに鶴岡工業の山村義雄等で、この人たちが創立会員でした。当時、中学校在校生の校外活動は禁止されていましたが、会長や創設会員の熱意により、「大宝館」での開催が実現したようです。今も現存するこの大宝館は大正天皇の即位を記念して1915(大正4)年10月に完成した洋風建築で、1階が物産陳列場や図書館で、2階は会議室と食堂であったそうです。私たちが高校生の頃は市立図書館でしたが、現在は、郷土人物資料展示施設として明治から昭和にかけて各分野で活躍した鶴岡出身者や鶴岡の発展に深いかかわりのあった故人の資料を定期的に展示替えしながらその業績を紹介しています。
《白甕社への改名について》
ところが「白虹社」なる名称については、伯父の父で医師であると同時に国学者、歌人でもあった清民から『「白虹日を貫く」(角川新字源・「史記」荊軻伝)において「白虹」は兵士を、「日」は君主を意味し、この言葉は君子に危害の及ぶ徴候を意味するので、会の名称としては縁起が悪い』との意見が述べられ、伯父は父の意見に従って白虹社創設の翌年7月に会の名称を「白甕社」と改めることにするとともに展覧会場も公会堂(旧西田川郡郡会議事堂、現在の鶴岡市役所北側の裁判所の地)に変更しました。ただ、手持ちの角川新字源や学研漢和大字典等を見ると、「白虹日を貫く」には、「真心が天に通じた現象」とか「天が人の誠意によって感動して現す現象のこと」という説明を最初にしているので、必ずしも縁起が悪いとは思われないのですが、伯父達はともかく「白虹」を「白甕」に改めたようです。同年8月になって初代会長の新穂源次郎が急逝し、皆が悲嘆にくれたのでしたが、11月に新しく赴任した図画教師地主悌助が快く新会長を引き受けたので、中学在校生を1部会員、卒業生を2部会員とし、また、展覧会を年2回開催することに決めました。前述の創立81周年「白甕社美術展・鶴岡アートフォーラム開館記念」(2005年、白甕社)によると、2回展の出展者は、星川改め野坂清健、武田儀助、平田龍士、丸谷八郎、富樫精一、川上平太郎、庄司春吉、田沢良策、小林勇太郎、阿部 保、北郷秀二、三井五郎、池田喜三郎、三浦信吾、新穂栄蔵、伊藤保次郎、荒木文三、志田源治、松森秀一、三浦善作、佐藤嘉六の諸氏でした。また、3回展は清健の長兄である清雄(輝洋)の遺作の一部を併設し、酒田の小野幸吉、佐藤三郎も出展しました。また、記録すべきは、伯父の次兄である清躬と佐藤徳之助の両氏が運営面での助言を、風間幸右衛門、三井光弥、秋野光広、平田吉郎の各氏が資金面で協力したとのことです。5回展では、入場者を増やすために小学校40校の教師、児童の作品を陳列したので入場者で賑わったそうです。また、日本画部門設置の試みとして横山鉱治や工業学校から成沢精一、三浦善作、山口三吉等が出展しましたが、1911(明治44)年から別途開催されていた「教育絵画展」(第10回展までは「絵画展覧会」という名称で、1943(昭和18)年まで通算30回開催されました。)との関係もあって、小学校からの出品と日本画の展示はこの年だけとなりました。1927(昭和2)年の6回展には星川清健の働きかけにより在京の布施信太郎、布施の友人である奥瀬栄三の作品や東京美術学校から植物写生画等を借用して特別に展示し、翌年の7回展には前述の星川清雄(輝洋)の遺作展を併設しています。
その後の白甕社は毎年展覧会を開催して発展し、第二次世界大戦の戦中及び戦後の世相混乱期にも、一度たりとも休むことなく展覧会を開催し続け、1948(昭和23)年に同好会形式を改めて、広く一般にも開放する公募団体として新発足しています。1945(昭和20)年には彫刻の部門を設置しましたが、1955(昭和30)年には日本画の団体である「丹青社」が「白甕社」に加わり、「洋画」、「日本画」、「彫刻」の三部門を擁する美術団体となり、今日では会員による「春季展」と、一般からの公募を含む「秋季展」とを開催して庄内地方の美術界の牽引役として大きな存在となっています。
《伯父星川清健(後の野坂是勇)について》
白甕社創設のリーダー格であった星川清健は、1907(明治40)年1月18日、前述の星川清民の四男として鶴岡市鳥居町に生まれました。山形県立鶴岡中学校卒業の年の1926(大正15)年に母方の叔父である軍医野坂徳治の養子となり、中学卒業と同時に上京、「川端画学校」に入学して洋画を専攻しましたが、父の意思と異なったため、余儀なく1928(昭和3)年で退学し、養父の住む九州天草に渡り、絵画の道に励みました。その後天草を離れ姉たちを頼って朝鮮、弘前、盛岡と巡りましたが、その間絵画研究の道を怠ることはしませんでした。
伯父の学んだ「川端画学校」とは、1909(明治42)年に東京都小石川下富坂町に設立された私立の美術学校で、日本画家の川端玉章が創設者です。当初は日本画家を養成する画塾として開設されましたが、玉章自身が1913(大正2)年に逝去した後も、主任教官に藤島武二を据えて1914(大正3)年に洋画部も併設し、第二次世界大戦の最中に廃校となるまで海老原喜之助、大野五郎、島崎鶏二、新海覚雄、中谷 泰、中谷 淳、西村元三郎、野口弥太郎などの洋画家を輩出しました。なお、大石田町出身で晩年京都に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残し「大原の画仙人」と称せられた日本画の小松 均もこの川端画学校の出身者のひとりです。また、加えて清酒「黄桜」のメインキャラクター・カッパのイラストで有名な漫画家小島 功もこの画学校の卒業生です。
伯父は次兄清躬が主宰する「協同運動」、すなわち、当時の疲弊した農村の復活のためには、協同組合理論を導入し、物資の協同購入、協働耕作、協同出荷等を行い、農民の自立性を確立させようという運動に共鳴し、それの啓蒙の資とするための「黒川農場」(現鶴岡市たらのき代字桃平(ももひら))の開拓にも昭和の初めに従事したのですが、満州事変(1931(昭和6)年)、5.15事件(1932(昭和7)年)、国際連盟からの日本脱退(1933(昭和8)年)、日中戦争への突入(1937(昭和12)年)と事件が相続いたため世相も一変し、農場は閉鎖の止む無きに至ります。そして、1938(昭和13)年4月、伯父は鼠ケ関尋常高等小学校鍋倉分教場の教師になりましたが、1934(昭和9)年の実父の死に引き続き、1936(昭和11)年には実家が破産する悲運に遭い、さらには、1940(昭和15)に次兄清躬を失い、日蓮宗を信ずる清躬の影響もあって出家を決意します。
1941(昭和16)年、身延山専門学校宗教科(現身延山大学仏教学科)に入学するとともに身延山久遠寺の本行坊下里是察師の弟子となって是勇の僧名を受け、同山で9年間修業した後、信者の要請で故郷鶴岡に帰りました。鶴岡に戻ってからは宗教活動をしながら再び白甕社で後進の指導を続けて画に専念し、今回の展覧会にも「傷心」と題した出展がありましたが、宗教的雰囲気を内包した風景画に独自の画風を確立しました。1949(昭和24)年、日本山妙法寺の祖師・藤井日達師の感化を受け、下里老師遷化の後、1968(昭和43)年、今度は日蓮宗の日本山僧侶として再得度、以来平和運動、仏舎利塔建立等の宗教活動に没頭しながら、白甕社の活動も続けていましたが、1982(昭和57)年3月24日、75歳で病のために遷化し、仙台市青葉区の日本山妙法寺仙台道場に埋葬されました。
《清健の兄・清雄と清躬について》
なお、前段において名前の出た長兄清雄(21回、大正2年卒)については、私が2008(平成20)年10月19日に「日本画家星川清雄(画号:輝洋)とその絵」と題して当該ホームページに投稿しましたが、日本画家で、1918(大正2)年、東京美術学校日本画科を首席で卒業し将来を嘱望されましたが、1923(大正9)年の関東大震災のため亡くなりました。また、次兄清躬(23回、大正4年卒)は医師であり詩人で、また社会運動家でもありました。清躬については、星川清躬墓碑建設委員会(代表和田光利(あきとし、同期の現姓前田節さんの父君))が「詩人星川清躬」(昭和37年7月15日)を、鶴岡出身の佐藤朔太郎さんが「星川清躬全詩集」(昭和53年5月10日)を著している他、阿部太一さんが「やまがたの文学の流れを探る」(昭和55年10月4日、山形県教育委員会)の中で《詩人・医師星川清躬の生涯》と題して、鳥海 惇さんが荘内日報に「逆境の詩人星川清躬」(掲載日不詳)と題して、東山昭子さんが「庄内の風土・人と文学」(平成元年7月18日)の中で《曇らざる詩魂・庄内のゲーテ》と題して、また、校友、黒羽根洋司さん(第72回、昭和40年卒業)が、2010(平成22)年5月21日にメディア・パブリッシングから著した「病者の心を心としてー庄内の医人たち」の中で《詩魂の人 星川清躬》と題してそれぞれ紹介しています。さらに、荘内日報社の「卿土の先人」というシリーズには星川清雄、清躬も取り上げられていますのでインターネットでその内容を読むことが出来るとともにダウンロードが可能です。
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