「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用(一)」

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
   《はじめに》
  1 「保定記・続保定記及び印旛沼日記」について
 江戸後期の庄内藩にかかわる1840(天保11)年の「三方領地替え」、1843(天保14)年の「印旛沼開削」、1844(天保15)年の「庄内大山騒動」の三つの事件について記述した「保定記(4冊)・続保定記(2冊)及び印旛沼日記(1冊)」が、2008(平成20)年5月2日、山形県有形文化財(典籍の部)としての指定を受けました。酒田市北俣(旧飽海郡平田町)の久松龍子さんが所有するこの日記は庄内藩大庄屋久松宗作が編纂・作成したもので、幕府や藩の記録、村や農民などのことを幅広く取り上げています。特に、千葉県の印旛沼疏水路開削には作者自身が直接事件に参加し、その時の様子を多くの写生画を用いてまとめた「続保定記」は有名で、全国的な歴史書、社会科副読本、小説などに数多く引用されています。
 「泥と汗と涙と」(高崎哲郎、独立行政法人水資源機構広報誌「水と共に」、2010年6月号〜2011年3月号)によれば、久松宗作は1814(文化11)年、平田町大字北俣字大畑山、大庄屋久松宗太衛門の長男として生まれました。1831(天保2)年、18歳で田沢組大庄屋見習いとなり、1833(天保4)年の大飢饉に当たって父を補佐して、田沢組一円及び他藩からの難民の救済のため、北俣丹道に粥座(しゅくざ:朝食)を設け尽くしました。1836(天保7)年に父宗太衛門が、川南添川組大庄屋に転勤となり、2年後の1838(天保9)年に病死したため、その後を継いで添川組大庄屋になった人です。
 当時の庄内領は、遊佐、荒瀬、平田の3郷と狩川、中川、櫛引,京田、山浜の5通からなっており、2人ずつ置かれた代官が支配しました。そして郷通を数組に分けて組ごとに刀帯を許された大庄屋を置き、組を構成する村は肝煎が村政を担当しました。肝煎の下に長人(おとな)、五人組、百姓、小作人がいました。
  2 三方領地替えについて
 周知の通り藤沢周平(本名・小菅留治、定時制16回(昭和21年)卒)がこの史実を取材した歴史小説を「義民が駆ける」と題して、1976(昭和51)年9月1日に中央公論から刊行しています。1840(天保11)年、突如幕府は庄内藩第11代藩主酒井忠器(ただたか)を越後長岡へ、長岡藩主牧野忠雅(ただまさ)を武蔵川越へ、川越藩主松平斉典(なりつね)を庄内に移封させることをそれぞれ申し渡しました。前将軍で、いまもなお権力を振るう徳川家斉の第25子である紀五郎(後の松平斉省(なりさだ))を養子にした川越藩主(松平斉典)が、約15万石の表高以上に内実は豊かだといわれる庄内への移封を願ったものです。突然の幕命に庄内藩は驚倒し、撤回を計るのですが政治工作は難航します。一方、この幕命に抗して庄内の領民は、老中など幕府の要人などに決死の覚悟で駕籠訴するなどの手段を用いて闘い、また、水戸、仙台,会津、米沢、秋田等の近隣雄藩に対しても愁訴を実施し、その結果、幕府要人に対して当事者である老中水野越前守忠邦の強引さに対する反発とともに庄内藩への同情、政治的思惑を生じさせ、6月に至って将軍家慶(いえよし)は『庄内農民の騒動は、酒井氏を慕うだけではなく、川越藩の苛政を恐れているからであり、転封令を撤回した方が幕府の権威を損じない』と三方領地替え中止の意向を示しました。これに対して水野越前守忠邦は『転封は特別の理由を必要としない将軍の大権である』と反対しましたが、ついに翌1841(天保12)年7月12日に幕府は三方領地替えの中止を決定しました。天下の耳目を集めたこの騒動の結末は、幕府の権威を大きく傷つけることになりましたが、忠器も責任を取った形で1842(天保13)年に隠居し、嫡子忠発(ただあき)が新庄内藩主になりました。
 なお、山形大学大学院の山本陽史教授は「藤沢周平の山形」において、『藤沢周平は、「義民が駆ける」において農民たちは本当に忠義ゆえに行動したものではなく、庄内の本当の支配者は土地と結びついた農民たちであることを訴えたかったのである。』と述べられております。
  3 庄内大山騒動について
 1844(天保15)年(12月2日で弘化と改元)幕領(天領)の大山・丸岡・余目の27,000石に起こった幕領の庄内藩への預かり阻止の百姓一揆のことです。1842(天保13)年、幕府は、庄内藩預かりを尾花沢代官に移管して幕領としました。この一件は、天保の改革においておいおい大名預地の廃止方針をとっていたとはいえ、やはり老中水野越前守忠邦の三方領地替え中止の報復的な措置と考えられています。幕領になることによって領民は庄内藩による諸役銭廃止などの恩恵を受けていたのですが、1843(天保14)年閏9月、天保の改革が中止となったことから、翌1844(天保15)年2月に再びこの地が庄内藩預かりを命じられるや、大山村(現鶴岡市大山)名主俊司と下川村(現鶴岡市下川)名主太郎兵衛が中心となって、後には払田村(現庄内町)名主与左衛門の倅・与助と善阿弥村(現三川町)名主金蔵などが加わって江戸に向かい、庄内藩預かり反対の駕籠訴を行ったのですが失敗に終わりました。そこで国元の大山では酒屋加賀谷弥左衛門を中心に事務引き継ぎの実力阻止を強行し、引き渡しは一時延期になったものの、結果は、一揆方が敗北し、米沢藩預地の越後国塩野町(現村上市)で幕府評定所役人の取り調べが行われ、結果、獄門2、遠島2、重追放3を含む厳刑が約 3,500名の者に言い渡されました。先の国替え騒動と同様の幕命撤回を願う運動でしたが、幕府領民の願いはむなしく悲惨な結果となりました。このように騒動が大きくなった理由としては次のように考えられています。第一に庄内藩は天保の飢饉の時にも預地農民を救済することなく、藩が幕府に上納するより2〜4倍高い石代金納をさせたこと、第二に庄内藩では大山村の特産品である酒に対する役銭をはじめ諸物品にも役銭を課したのですが代官所支配の時はこれらが免除されていたこと、第三に幕領の村と庄内藩領の村で争いが起きたような場合には、幕領側に理があっても常に庄内藩領側に有利となるような不公平な措置が行われ、庄内藩に対する不満が鬱積していたことなどです。
  4 印旛沼疏水路開削について
 狩川通添川組大庄屋久松宗作は、印旛沼疏水路開削の作業のため、領内の村々に米の高割合で割り当てられた徴集郷夫に付き添い、下総の国の印旛沼普請場に出向き、現地の状況や作業の様子などをイラストと絵地図を多量に含む著作物「続保定記」に取りまとめました。このことは郷土の出版物などにも多く取り上げられているほか、千葉市や八千代市では社会科の副読本にもなっております。また、小説では、松本清張が1962(昭和37)年から1964(昭和39)年まで、週刊朝日に「天保図録」として連載し、その後、講談社から日本歴史文学館24・25として、また、朝日文芸文庫、講談社文庫、角川文庫から文庫本として出版されています。さらに、前述の通り独立行政法人水資源機構の広報誌「水とともに」に高崎哲郎が10回に分けて「泥と汗と涙と」と題して連載をしました。それから2002(平成14)年8月6日付の山形新聞文化欄に千葉県船橋市在住の菊池英悦さんが「千葉に残る庄内藩の秘話・花見川普請の犠牲に」と題する一文を寄稿しています。
 「続保定記」の特徴は、@絵地図で普請の全地域を詳しく表現していること、A工事状況を透視図で掲載していること、B労働の様子をイラストで掲載していること、C元小屋(飯場)の状況が詳しく掲載されていること、D17画像で利根川から東京湾までの水系を全て描いていることなどが高く評価されています。これらの絵地図は、木版多色刷りで見開き2ページが一つの画像になっており、全部で17あります。そのすべてが「天保の印旛沼掘割普請」(千葉市市史編纂委員会編集、千葉市発行、平成10年3月)にカラー印刷で収録されており、最初の絵図は「印旛沼全図」と表題があり、利根川も描かれ、最後の物は「海」と表題があり、黒田家元小屋等が描かれています。
 私は2010(平成21)の2月に四街道市の弟宅(洋;68回、36年卒)を訪れた機会を利用して印旛沼開削に係る庄内藩の現場を踏査してきました。
 そこで、この事件の起きた背景、その内容はどうであったか、結果はどうであったかなどを次に掲げる文献等を参考に纏めてみましたので3回に分けて投稿します。
 《参考とした文献等》
「図説・庄内の歴史」(前田光彦監修、2000年12月20日、郷土出版)
「シリーズ藩物語・庄内藩」(本間勝喜著、2009年9月20日、現代書館)
「庄内藩」(斎藤正一著、平成2年10月10日、吉川弘文館)
「天保改革と印旛沼普請」(鏑木行廣著、2001年11月20日、同成社)
「印旛沼ー自然と文化―第5号「印旛沼落掘難工事現場の地質的特徴」」(白鳥孝治著、平成10年11月、(財団)印旛沼環境基金)
「江戸時代の土木設計・積算・施工技術を探る」(松本精一著、2007年4月、総研レポート)
「江戸300藩最後の藩主」(八幡和郎著、2004年3月20日、光文社新書)
「泥と汗と涙と」(高崎哲郎著、独立行政法人広報誌「水とともに」、2010年6月号〜2011年3月号)
「天保図録上・下」(松本清張著、昭和62年4月20日、講談社)
「江戸時代&古文書・虎の巻」(油井宏子監修、2009年4月25日、柏書房)
「早わかり日本史」(河合敦著、1997年12月20日、日本実業出版社)
「文庫版・千葉都市図」(2007年4月、昭文社)
「山形県、千葉県在住成田氏、千葉県八千代市の各ホームページ」
「山形県観光データーベース」
フリー百科事典「Wikipedia」
   《江戸時代の印旛沼開発の歴史》
 印旛沼は流れ込む川が多いのですが、沼からは長門川だけが利根川に流入しています。そのため、古くから利根川が氾濫すると印旛沼に逆流するばかりではなく、印旛沼に流入する河川の増水によって低地の田畑に冠水による被害をもたらし、また、水が引くまでに数日を要し、ひどい時には数カ月を要したといわれ、周囲に暮らす人々を大いに苦しめていました。
  1  享保の掘削工事
 八代将軍徳川吉宗が新田開発を奨励していたこともあって、この暴れ川・沼を制し、新田開発並びに船運の整備を行うことを目的に、疏水路を掘って印旛沼の水を江戸湾に落とそうという遠大な構想を浮上させようとした人々がいました。下総の国千葉郡平戸村(現千葉県八千代市平戸)の名主染谷源右衛門らは1724(享保9)年8月にこの計画(約4里14町(約17キロメートル))を幕府に願い出たところ、幕府の紀州流土木技術者である井沢弥惣兵衛為永らが調査し、約31万両の工事費が必要であるとの見積もりを行いました。工事は村普請ということになり、幕府から6千両の資金貸与を受けて工事が開始されたのですが、資金不足のまま工事が開始されたこと、工事開始の2年後に花島観音付近(現千葉市花見川区)の「ケト(化燈)」(注1)と称する泥炭に類似した軟弱地盤の掘削に難儀したこと、源右衛門ら請負人78名が破産したことにより、この工事は中止となりました。
 (注1) ヨシ・マコモなどの水草の遺骸が繊維を残したまま地中に堆積した土壌のことです。
  2  天明の掘削工事
 1780(安永9)年8月、幕領であった印旛郡惣深新田(いんばぐんそうぶけしんでん:現印西市草深)の名主平左衛門と千葉郡島田村(現八千代市島田)の名主であった治郎兵衛の二人が、幕府の依頼を受け、@享保の工事と同様の経路をたどる工事(印旛沼口の平戸橋から検見川村の海面まで9,000間( 16.4キロメートル))とA利根川の水が流入しないよう印旛郡埜原新田(現千葉県本埜(もとの)村)から埴生郡安食村(しょくせいぐんあじきむら:現千葉県栄町)まで80間余(145メール余)を締め切る工事に関する計画を、普請費用を金30,000両と見積もって幕府に提出しました。幕府は、水運を意識して、掘床20間での見積もりを要求したのですが、二人は水害対策が主でしたから8間で十分である旨の意見を述べています。しかし、結局、直線距離約16.4キロメートル、掘床20間(36メートル)とし、10代将軍家治のもとで老中田沼意次は、1782(天明2)年7月から開削工事に着手しました。受益の村は 144にも及ぶ壮大な計画で、約3400町歩の新田を見込んでいました。金主の大阪の天王寺屋藤八郎と江戸の浅草の長谷川新五郎の当該工事によって得られる新田の取り分が8割と定められました。工事は3分の2ほど進んだのですが、不運にも1786(天明6)年7月12日から18日にかけて、関東一円に降り続いた大豪雨によって、利根川が江戸幕府創設以来という最大級の氾濫を起こしました。更に、この時の氾濫は、1783(天明3)年噴火の浅間山の火山堆積灰を含んだ泥水で、これが印旛沼を覆い、また工事に係る全施設を完全に破壊してしまったため幕府は工事を中止してしまいました。幕府は江戸の災害復旧が済み次第、工事の再開を考えていたのですが、同年8月27日に家治が死去したため、工事の中止を決定し、8月27日には意次の老中罷免が決定されたため当該工事は完全に閉ざされてしまいました。
  3  天保の掘削工事
 天明から天保にかけては、国内全体にわたって火山噴火、洪水、冷害、旱魃と天災が続き、飢饉によって多くの飢餓死者が出ました。このような状況に一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱などが起き、一方、幕府内部では、風紀が乱れ、賄賂が横行し、また、対外的にはアヘン戦争、モリソン号事件、異国船の横行などがあって社会的に不安定な状況にありました。このような社会情勢の中、12代将軍家慶を支え、老中主座となった水野越前守忠邦は「天保の改革」を実行します。その内容は、文武の奨励、贅沢の廃止と倹約令、風俗取り締まり強化、諸国の人別改め、人返し、株仲間の解散、上地令、外国船打ち払い令緩和等ですが、印旛沼の開削も改革の具体策の一つでした。水野の命により1842(天保13)年、事前調査を実施した二宮金次郎(尊徳)(幕府の普請役格となっており、56歳でした。)は、試掘の結果、@想像以上に難工事であること、A場合によっては、完全に出来上がるかどうか疑わしいこと、B実施するにしても「報徳仕法」の「15カ年計画」(注2)をもって工事を進めることを報告したのですが、この地方を所管する代官篠田藤四郎は勿論のこと工事を積極的に推進する立場から、幕府首脳達も二宮の報告を尊重せず強引に事を運んだのでした。
 1843(天保14)年には,水野が中心となって洪水防止対策に加え、干拓による開田と江戸湾が封鎖された場合のことを考慮した利根川〜印旛沼〜江戸湾の物資輸送ルートの確保を目的とする船運の整備を主題に、6月10日に庄内藩など五藩に対して「利根川分水路印旛沼古筋御普請御用」を命じ、これにより、7月23日には各藩の工事が開始されることになりました。工事は天明の掘削工事と同様の経路で、「手伝い普請」(注3)として行われました。「手伝い普請」を命じられた五藩のうち、幕府の命令に従って現場作業員(郷人夫)を自藩から派遣したのは庄内藩だけでした。また、五藩が選抜された理由ですが、庄内藩の場合は、三方領地替えが失敗するという煮え湯を飲まされたことに対する報復であり、冒頭に掲げた「義民が駆ける」では、三方国替え中止後の水野忠邦と鳥居耀蔵との会話の中に『酒井を印旛沼開鑿に嵌めこんではどうか』との鳥居の提言が記述されています。御承知の通り鳥居は、自分の出世欲、権勢欲のために讒言(ざんげん),でっち上げ、裏切り等、ありとあらゆる奸智(かんち)をめぐらして出世した人物で有名であり、水野の腹心として天保の改革を推進し、倹約令を徹底して取り締まったので、庶民からは妖怪と恐れられました。沼津藩の場合は、将軍家斉の寵臣水野忠成の孫に当たり、見淵藩の場合は、水野忠成とともに幕政を壟断(ろうだん)した若年寄り林忠英の子であったため、意趣返しとして選ばれたものです。鳥取藩と秋月藩の場合は、その理由がはっきりしないのですが、当初福岡藩や仙台藩などの外様雄藩に手伝い普請を打診したところ、すべて幕府からの指令を拒んだので、鳥取藩の場合は、中国地方から名指しされた藩が無いことから、福岡藩の場合は、老中水野の逆鱗に触れないように支藩の秋月藩にその指令を押し付けたのではないかといわれています。忠邦は将軍家斉の腐敗した政治を憎んでおり、その寵臣たちがむさぼった富を吐き出させる意図があったといいます。いずれにしろ五藩は水野によく思われていなかった藩でした。
 「手伝い普請」を命じられた藩主・石高、担当工事区間、担当工事区間長、各藩支払額、人足動員数を「江戸時代の土木設計・積算・施工技術を探る」36ページから引用すると次のとおりです。なお、各工区の担当大名は、1:駿河国沼津5万石 水野出羽守忠武、2:出羽庄内14万石  酒井左衛門尉忠器、3:因洲鳥取32万石 松平因幡守慶行(よしゆき)、4:上総国見淵1万石 林播磨守忠旭(ただあきら)、5:筑前国秋月5万石 黒田甲斐守長元です。

工区
工事区間 区間長 各藩支払額 人足動員数
平戸(現八千代市平戸)〜
横戸(現千葉市花見川区横戸)
4,434.5間
(8062メートル)
堀床10間
(18メートル)
23,000両    不  明
横戸〜柏井
(現千葉市花見川区柏井)
1,196.0間
(2,174メートル)
堀床10間
(18メートル)
38,004両 354,443人
柏井〜花島
(現千葉市花見川区花島)
683.5間
(1,243.0メートル)
堀床10間
(18メートル)
26,260両 224,549人
花島〜畑村
(現千葉市花見川区畑村)
2,104.5間
(3,826メートル)
堀床10間
(18メートル)
10,000両 20,254人
畑村〜検見川浜
(現千葉市花見川区検見川)
1,301.0間
(2,365.0メートル)
堀床10間
(18メートル)
10,007両 106,908人
合計   9,719.5間
(7,670.0メートル)
107,272両 708,910人

 (注2)先ず農民に金を貸し付け、荒れた土地を手入れして田んぼを作らせ、農民が借りた金は水路工事の賃金で返還させる方法、すなわち、村民に恩恵を与え、しかる後公共工事に協力を求めていくというやり方のことです。ただし、この方法は手間のかかる回り道の様な仕事で、事を急ぐ幕府役人の受け入れるところとはなりませんでした。
 (注3) 大名に対する課役の一つで、工事を命じられた藩が工事のための資材や人夫等を独自に負担して行う工事です。当初は実際に土木普請が行われる「場所仕立て」で行われましたが、この時代になると金銭だけを幕府に納めるようになっていました。また、「場所仕立て」で行う場合もほとんどの藩は、人夫を国元から呼ばず現地雇いで行っていました。

2011年4月5日