「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用(二)」

64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
   《難工事区間担当の庄内藩と鳥取藩》
  1 庄内藩の工事区間
 庄内藩では、老中竹内八郎右衛門を普請総奉行に、副奉行に都筑十蔵を任命して「手伝い普請」に入ることになり、国元から多くの人夫を呼び寄せて普請に当たることにしました。藩では現地での重労働を考慮して村々に30〜40歳の屈強の者の差出を命じ、7月7日、郡奉行の山岸嘉衛門、代官の矢島逸策、大庄屋の矢田部外右衛門、町医者久島玄海らが付き添って一番立ての庄内人夫 200人が出立しましたが、国元から現地までは12泊13日の長旅でした。続いて11日には202人、13日には198人、計600人、更に、追加人夫が4回に分けて計750人、このほかに大工、家事、炊飯等を合わせると1,463人の人々が国元を出立しました。道中鍬や鎌等を持ち、列を組んで現地に向かう様子を「浮世の有様」(同行記)は、「蟻の往来のようである」と表現したそうです。なお、「続保定記」、「印旛沼日記」として当該手伝い普請の記録を残した大庄屋久松宗作は、11日に中川通、狩川通、山浜通、京田通の農民で編成された二番立の庄内人夫 200人に付き添って代官加藤理兵衛と共に出立しています。庄内藩の元小屋は、現在の「鷹の台カントリー倶楽部」のある場所にあたり、おおよそ東西66間(120メートル)、南北 123間(224メートル)の広さの場所に2〜3,000人収容の小屋が36棟ほど建てられました。7月23日が鍬入れで、幕府からの掟書では禁酒でしたが、28日に藩から下酒がありました。樽に入っていることから「沢庵漬」と呼ばれ、記録には『こちらの食べ物は国元に比べてひどいものであるが、沢庵漬だけは美味である。』と書かれています。また、同じ記録には『蚊、虻(あぶ)はおらず百足(むかで)、蝙蝠(こうもり)、蟻の類は沢山いる。雨が降ると雨漏りが酷く傘をさし、風が吹けば簀(す)の目から灰のように塵が入る。』とあり、庄内からの人夫達が劣悪の環境の中で過ごしたことが分かります。庄内藩が担当を命じられた横戸村から柏井村にかけての場所は、30メートルほどの丘陵(最高50メートル)続きのところで、ここに上幅80メートル、下幅18メートル、深さ30メートルの掘割(川)を人力で掘削する ものでした。
 庄内藩と鳥取藩が担当した工事区間は、地形地質的に見ても工事の困難な所でした。今回の工事区間は、印旛沼水系と江戸湾水系の両方の「谷津(丘陵地が浸食されて谷状の地形になっているところ。)が接近して、この谷津を短距離で結べば経済的な掘削ルートになるのですが、両藩が割り当てられた花見川流域の柏井、花島付近は、古江戸湾が乾陸化する頃から隆起と沈降を伴う複雑な地殻運動をする地帯でした。庄内藩担当区間は潟湖の時代に泥が堆積して比較的硬い地層を形成した後、一変して隆起をはじめ、現在では標高の最も高い所となっています。このため、粘土を含む硬い地層を深く掘削しなければなりません。3丈(約9.09メートル)掘り下げるのに相当難儀しました。続保定記は『その様、土石盛笈を背負って持ち運び、土を移すに己倒に打伏て、土の頭部を覆う。嫌厭せず働けり。』と身を粉にして土を掘り下げる様子を記録しています。同じ場所を掘削した1965(昭和40)年頃の花見川工事の記録によりますと、大部分しまった細砂で、その中に固結した粘土が混入し、N値(注1) は30〜40を示しました。N値30の硬さは鍬や万能で掘るにはかなり難儀する硬さです。
  2 鳥取藩の工事区間
 一方、鳥取藩が担当したところは、隆起量の比較的少ないところですが、地下水が東西方向から集まりやすい地点となっています。この事が分水界であるにもかかわらず多量の地下水を噴出させ、低湿の泥炭の様な「ケト層」の形成と相まって掘削を困難にしました。続保定記に『因洲様、播洲様御丁場所内に化燈(「ケト」のこと)と申す泥土の場所多く之有り、是大灘場、馬糞ごとき土にて水気甚だしき所は湧き出で、只どろどろと云う物にして、鍬にも鋤にもかかり申さず、只水のごとき、汲み干し候よりほか無く、その上いか程掘り候ても一夜のうちに泥土湧き出し埋まり、又は川形より5,6間乃至10間、17,18間ばかり脇の方、山、畑・田面等割れ、掘り掘りへなだれ落ち候体に御座候・・・』と述べています。横戸と花島の工事の困難性は幕府の事前調査でも分かっていたようですが、忠邦の意気込みの前に調査結果の正確な報告がなされていなかったのです。更に、当該工事を困難にした理由としては、起点と終点地点の標高差が少なかったことが挙げられます。工事起点の平戸川の川底と終点に当たる検見川の川底間の高低差は、7尺1寸(2.15メートル)であり、長さが 9,719.5間(17,672.0メートル)ですから、その平均勾配は1キロメートルにつき12.5センチメートル(0.0125パーセント)となり、大潮満潮時には海水の逆流が起こり、水路全体に影響して排水が困難となります。天保期の記録によれば、塩水は河口から2,100間(3.8キロメートル)上流の天戸村字猪鼻橋(現千葉市花見川区の猪鼻付近)まで逆流していたといいます。
  3 庄内藩の作業状況
 庄内藩の人夫は午前4時起床、6時出立して受け持ち現場である丁場に入り、途中3度の休憩をとって午後の4時まで炎天下の掘削と土運搬が続きました。その区切りは拍子木、貝、太鼓の合図で進められ、その移動は整然と隊伍を組んで行われました。工事は当初の予定が10カ月でしたが、途中で5カ月に短縮変更されたため、藩では江戸の百川茂左衛門,新兵衛、七九郎に人夫調達を依頼し、百川組2,000人、新兵衛と七九郎雇で2,000人、合計4,000人を追加して普請を続けたため、最盛期の人夫数は5,400人強におよび、また、その人夫賃金も1万両以上となりました。この江戸雇の人夫は「黒鍬(くろくわ)」(注2) と呼ばれ、その働きは庄内人夫の及ぶところではなかったといいます。庄内人夫はモッコを担いでの作業習慣が無く、背負籠で土を運びましたが、黒鍬は大きなモッコを二人で運び、一気に多量の土塊を運びました。このような工事の様子は続保定記から引用して歴史書や小説などにに数多く描かれています。後に、掘幅の変更がなされ、他藩に対しては下幅を13メートル(7間)に縮小する許可を出しましたが、庄内藩の持ち場の内高台の部分は18メートル(10間)のままの厳命でした。水野はあくまで「高瀬舟」(注3) がすれ違えるだけの掘割を作ろうとしていたのです。おまけに、幕府は、庄内藩には江戸町内の浅草の向柳原にあった下屋敷を下町の本所元柳原の水野備前守屋敷跡 3,590坪余(11,867平方メートル余)に屋敷替えするよう命じたのです。総奉行の竹内は、『何とも遺恨、且苦々敷事也』と憤慨しています。
  4 手伝い普請で亡くなった人々
 最悪の生活環境、過酷な労働条件下の掘削工事であったため、8月中旬ごろから下痢を伴う病気(痢病)、腸チフス(傷寒・しょうかん)が発生し、最も恐れていた死者が出ました。9月3日、下江地村(現遊佐町)の松右衛門が60歳で病死しました。松右衛門は7月28日に国元を出立し、8月12日に普請所に着いた追加の庄内人夫で27日から臥せっていたものです。一緒に来ていた弟の藤七や親類の意向で火葬にされて、遺骨は故郷に持ち帰ることになり、その葬礼費用は藩で負担しました。藩では当初、30〜40歳の屈強な人夫を集めようとしたのですが、実際は老人もかなりいたようです。庄内藩ではその後も亡くなる人が続出し、最終的にはその数、藩士5名、人夫19名を数えました。藩士では、総奉行の老中竹内八郎右衛門が御普請中止後に江戸で亡くなり、普請中では、目付の加藤九助、代官の矢島逸策が江戸で亡くなり、足軽小頭の中野彦兵衛、藩内随一の和算家で検地方の石塚六郎衛門が現地で亡くなっています。人夫で生きて故郷に帰れなかった無念の遺骸の中には、火葬あるいは土葬により現地横戸の明星寺(みょうじょうじ)に葬られた者もいました。その後横戸の共同墓地に集められ現地の人々によって供養されているのです。新墓地の墓石は九基で、蓮台の上に横一列に並び、小型で素石が軟質であるのと年月を経ているため刻字不明のものが多いのですが、左から2番目の墓には、墓中央に「荘内大服部村(現遊佐町)百姓仁兵衛墓」と刻まれ、その右側面には「下総印旛沼古堀筋普請御用手伝人夫の墓なり、天保14葵卯(みずのとう)7月13日羽州庄内を出て同9月2」、続けて左側面に「4日病死して爰(ここ)に葬る、のちの人憐れみてこれを発(あば)くことなかれ法名観阿道哲信士」と刻まれています。
(注1) 63.5キログラムの錘を75センチメートルの高さから自由落下させて鋼鉄製の棒を打ちこみ、その鋼鉄製の棒が地中に30センチメートル入るのに要する打撃回数を測定した値をいいます。その打撃回数が30であればN値30となり、40であればN値40となってN値が大きいほど地盤は固いことになります。
(注2) 原義は土を掘り起こすのに用いる頑丈な鍬のことですが、その鍬で土工をおこなう労働者をいつしかこう呼ぶようになったといいます。
(注3) 江戸時代の利根川水運の主役をなした川船(米運搬船)で、長さが約18メートル(最大26.7メートル)、幅約4.46メートル、積載量約28.8トン(米480俵積み)の大型船でした。
  5 手伝い普請の終焉と帰郷
 工事は夏から秋にかけて全体計画の90パーセント程度終えたのですが、幕府内において、天保の改革の一つである江戸・大坂の十里四方(大阪の場合、五里四方という説もあります。)の直轄化を図った「上地令」をめぐって亀裂が生じ、1843(天保14)年9月13日水野が国政に不正があったという理由で御役御免となります。水野が政治的な一生を賭け、心血を注いだものが実に他愛なく崩れ去ったのです。一方、庄内藩総普請奉行の竹内八郎右衛門にとっては最大の慶事であったと見えて、『誠に天下の大幸、恐悦至極、はなはだしく雀躍、最早尾羽も延候世の中にまかりなり』と日記に残しています。9月17日には秋月藩の持ち場が完成するのですが、その10日後の閏9月23日には五藩の「手伝い普請」の任が解かれることになり、その後の工事は幕府直轄工事として続けられましたが、翌1844(天保15)年(12月2日に弘化と改元)年6月10日、完全に中止となり,この工事も多くの経費と多大な人的犠牲を払ったものの未完成に終わりました。
  6 持ち帰ったムクノキとモチノキの苗木
 庄内人夫は早速帰国の準備を始め、閏9月28日に第一陣、10月2日に第二陣、10月4日に第三陣と分けて帰国の途に着きましたが、帰国した農民たちはほっとする暇もなく農作業に追われることになりました。大庄屋久松宗作は、2日に中川通、狩川通の農民309人に付き添って横戸の普請場を出ています。遊佐郷の人夫役付人として出役した現遊佐町岡田の肝煎土門六左衛門は帰郷の際、普請地からこの地方に多くみられるムクノキ(ニレ科)とモチノキ(モチノキ科)の苗木を持ち帰りましたが、これらの苗木は 160年余の歳月を経た現在、ムクノキが22メートルの巨木となって山形県の天然記念物に、モチノキが樹高10メートルとなって遊佐町の有形文化財の指定を受け、生き証人として命を今に繋いでいます。
  7 工事費についての一考察
 庄内藩がこの工事に投入した人夫は、354,443人に上り、庄内から上った人夫は1,028人、五藩の合計人夫人数は不明ですが、 100万人程度と推定されています。また、工事費については、38,004両を費やしています。1832(天保3)年にも日光東照宮修復金として金30,000両を支出しており、この手伝い普請によって藩の財政を大きく圧迫することになるため、庄内藩は7月中頃に、鶴岡1,500両、酒田2,000両、郷中2,000両、合わせて5,500両の御用金(商人や農民に命じる臨時の賦課金で返済は有りません。)を課すと同時に才覚金(富裕な商人や名主などからの借入金で利息を付けて返済するのが原則です。)として町在の有力商人・地主に依頼しました。鶴岡が風間幸右衛門2,000両など4,390両、酒田が本間正七郎3,500両など7,300両、郷中1,250両、それに越後の市島家より5,000両借用し、合わせて17,940両ほどを用立てました。
 御用金・才覚金を合わせて23,600両で工事の準備をしていましたが、結果としては、38,004両強の出費をしたので、予定に対して4,404両の不足を生じたことになります。工事が途中で中止となったので、才覚金の一部は返却されたようですが、御用金の方は上納されたままになったとみられています。
 ある人が文政時代(1820年ごろ)の物価と2000年(平成12年)の物価とを比較して文政時代における1両の価値の割り出しを試みており、その結論では、労賃を基準にすると1両は20〜35万円、食べ物を基準にすると4〜20万円ぐらいになるとのことですが、23年後の当該工事の行われた天保時代は、賃金はあまり変化していないものの、天明、天保の飢饉の影響で米価が25パーセントほど値上がりしていること、江戸末期になるに従って1両の価値が下がってきていることから、天保時代の1両の価値は現在の価格で15万円程度と推察しています。これをもとに大胆にこのお手伝い普請の庄内藩の工事費を推計してみると60億円ほどとなります。まさに「利根川分水路印旛沼古堀筋御普請御用」は五藩のうえに降りかかった人災としか言いようがない後味の悪い大事件でした。
  8 水野越前守忠邦らのその後
 1844(天保15)年6月21日水野はわずか十カ月にも満たない後に再び老中主座に復帰します。政務不行き届きの廉(かど)で罷免されたのですが、困難な外交の局面に当たれるものは、彼以外にいないと判断した家慶が再任を命じたと考えられています。そして、老中主座に戻った忠邦は、天保の改革の目玉、「上地令」の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に真っ先に自分を裏切り、土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)に機密資料を残らず横流しした鳥居甲斐守耀蔵を罷免させ寄合(注4) に、鳥居と策動して水野失脚を手伝った勘定奉行榊原主計頭忠之(さかきばらかずえのかみただゆき)も罷免させました。ただし、家慶は老中職を財政、行政の両面担当で政務の枢機である「勝手方」と訴訟・裁判担当の「公事方」とに分け、勝手方を側用人の堀大和守親(ほりやまとのかみちかしげ)に、「公事方」を若手の阿部伊勢守正弘の両頭制にし、水野を単なる老中主座という空位に止めたため、鳥居や榊原を現職から退けるだけであえて追い打ちをかけることはできませんでした。
 水野は、鳥居や後藤三右衛門(ごとうさんうえもん)らと共に天保の改革時代の不正の疑獄の嫌疑により、1845(弘化2)年9月に加増のうち1万石、本地のうち1万石合計2万石を没収され5万石となり、家禄は長男の和泉守忠精(みずの いずみのかみ ただきよ)が継ぐことを許されたうえで強制隠居・謹慎を命じられ6年後の1851(嘉永4)年2月10日、失意の中で他界しました。享年57歳でした。その墓は茨城県結城市山川新宿にあります。忠邦には直接関係ない土地ですが,水野の初代忠元が大坂夏の陣(1615年)の功績により、3万石を与えられて初めて大名になった所縁の地です。家督を継いだ忠精は父の処分と同時に出羽山形藩に懲罰的転封に処せられました。
 鳥居も1845(弘化2)年10月、全財産没収のうえで、明治維新の際に恩赦を受けるまで20年以上も讃岐丸亀藩京極長門守高朗(きょうごくながとのかみたかろう)にお預けの身として軟禁され、金座や銀座を一手に支配した豪商後藤三右衛門は、水野の天保の改革に協力し、水野や鳥居と不正を働いたのですが、鳥居との連座を恐れて水野に鳥居に関する機密事項を提供し、一時は連座を免れたものの、水野の後の老中阿部伊勢守正弘の追及によって天保改革時における不正が露見し、商人であるがゆえに同年10月斬首に処せられました。
(注4) 江戸幕府の3千石以上の上級旗本無役者と布衣(ほい;五位以下叙位者の旗本で、特別な者が着用を許された無地の狩衣のこと。下位の旗本には大変名誉であった。なお、五位以上の叙位者は織柄物。)以上の旗本や御家人が所属する組のことで、日常の仕事は無く、寄合金という負担金を負担するだけでした
2011年4月15日